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ローズマリー下宿 r+2,801

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大学に入ってすぐ、最初から完全な一人暮らしはきついと考えて、下宿に決めた時のことを思い出すたび、必ず脳裏をよぎるのは亡くなった祖父の顔だ。

まだ生きていた頃、祖父は私の下宿探しを率先して手伝ってくれた。けれど、その笑顔の裏に隠された「若い日の記憶」を、私は当時まだ知らなかった。

昭和二十X年、十八歳の祖父――いや、当時の私のような若造だった彼は、父親と激しくぶつかって故郷を飛び出し、たった一人で上京したという。
しかし、都会は彼に冷たかった。勤め先では訛りを散々に笑われ、酒場で肩を叩かれては「何だそのしゃべり方」とからかわれる。笑い声の中に立っていると、自分が異物になったような感覚が絶えず胸に刺さったそうだ。
そんな彼を少しだけ救ったのが、最初に住み込んだ下宿屋の存在だった。

そこには、似た境遇の若者が大勢いた。
中でも強烈な存在感を放っていたのは、下宿のおばちゃんだ。年の頃は四十を過ぎていたかもしれないが、目尻のしわの奥には鋭い光を宿していた。
彼女は下宿人たちにとって、まるで都会の母親のような役割を担っていた。飯をよそい、病気になれば看病し、仕事で落ち込めば甘い饅頭を差し出す。その優しさが、祖父のような孤独な若者たちの心をほどいていった。

だが、彼女にはもう一つの顔があった。
祖父の目には、彼女が熱心な「お祖師さま」の信徒に見えたらしい。廊下の奥の小さな仏壇に向かい、誰に頼まれたでもなく朝晩手を合わせていた。
それだけなら、信仰深い人なのだろうと流せたはずだ。
だが、ある日――夕食後のちゃぶ台越しに、妙に熱っぽい目つきでこう告げられた。

「日曜にちょっとした寄り合いがあるんだけど、あんた一緒についてきてくれる?」

面倒くさいと思いつつも、その日は特に予定もなかったので付いて行った。
連れて行かれたのは、町の外れにある古い集会所。畳敷きの部屋にぎっしりと人が座り、経典のような本を唱えながら、やがて狂ったようにお題目を合唱し始めた。
その瞬間、祖父の耳に、戦時中の記憶がよみがえった。疎開先の村で、朝晩遠くから響いてきた「た~すけたまえ」の歌声。子ども心に不気味で、背筋がざわつくほど嫌だったあの旋律。
胸の奥に、あの頃と同じざらついた嫌悪感が蘇った。

それ以来、おばちゃんからの誘いは何かと理由をつけて断った。
しつこく追ってくるかと思いきや、意外にもすぐに引き下がったので、祖父は安心して日常に戻った。

……しかし、平穏は長く続かなかった。

ある日の夕暮れ、勤め先からの帰り道、下宿の角を曲がった瞬間、耳をつんざくような大音量のお題目が家の中から響いてきた。
「今度は家でやってるのか……」と呟きながら格子戸を開け、靴を脱ぎ、茶の間を覗き込んだ祖父は凍りついた。

おばちゃんを中心に円座を組んでいるのは、下宿の全員――祖父を除く全員だった。
その光景は、笑顔を貼り付けた蝋人形の群れのように見えたという。

その時、祖父は初めて気づいた。
この春入ってきた下宿人は、自分を除いて全員が、おばちゃんの信仰に取り込まれてしまっていたのだ。

おばちゃんは、玄関口の祖父を見つけると、にっこり笑った。
「もうあんた一人だけだよ。いつまでも意地を張っても仕方ないよ」

立ち上がったおばちゃんに続き、下宿人たちも同時に立ち上がった。無言のまま、ずんずんと迫ってくる。
その眼差しは、温かさではなく、底なしの穴を覗き込むような冷たい執念を帯びていた。

「もうここにはいられない」

そう思った瞬間、祖父は履物をつかんだまま廊下を駆け上がり、二階の自室に飛び込んだ。鍵をかけ、ボストンバッグに金目の物を詰め込み(ほとんど何もなかったが)、窓から屋根へと身を乗り出した。
足裏に瓦の感触を感じながら、夜風を切って屋根伝いに逃げ出し、同郷の先輩の家へ転がり込んだ。

だが、そこからが本当の攻防だった。
下宿とは完全に縁を切ったつもりでも、おばちゃんはしつこく迫ってきた。
最も辛かったのは、祖父が事故で入院した時だ。どこで知ったのか、おばちゃんが花束を手に病室に現れた。そしてベッドで動けない祖父に、夜ごと耳元で法話めいたものを延々と語り続けた。
動けぬ身で、天井を見つめながら耳を塞ぐこともできず、祖父は気が狂いそうになった。

退院後、迷惑をかけまいと先輩の家を出て、会社の倉庫の鍵付きの二畳間に身を潜めた。
どこにいても、おばちゃんの手先がこちらを見ているような気がして、眠れぬ夜が続いた。夢の中でも「お祖師さま」という囁きが耳元に這い寄ってきたという。

半年あまり、そんな攻防が続いたが――春が来ると、突然すべてが途絶えた。
新しい獲物が下宿に入ったのだろう、と祖父は言った。
「何とか逃げ切ったよ」
そう言って笑ったが、その目の奥には、まだあの夜の冷たい視線が残っていた。

祖父は晩年、この話をするとき、決まって映画『ローズマリーの赤ちゃん』の名を出した。
「俺がいたのは、ローズマリー下宿だ」
冗談めかして笑っていたが、笑い声の奥に、私には確かに怯えが混じっていた。

[出典:686 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/11/30 03:03]

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