朝、目が覚めたら、ベッドの横に見知らぬ自分が座っていた。
見知らぬ自分という言い方は変だが、どう見ても俺だった。寝癖の向きまで同じで、嫌になるほど自然にそこにいる。
「時間ないよ。驚くのは後。着替えて」
反射的に時計を見る。針が止まっている。秒針だけが、左右に揺れている。進んでいないのに、待っているみたいだった。
「……誰だよ」
「今日の君。そっちは昨日の君」
俺は何も言えなかった。言葉を探す前に、視界が一度暗転する。
気づいたら、制服を着て玄関に立っていた。着替えた記憶がない。思い出そうとすると、映像が三コマくらい抜け落ちる。
「行ってらっしゃい。うまくいったら、今度は俺が消える」
なんで、と言い終わる前に景色が切り替わった。
俺は電車の中に立っていた。
車内はガラガラだ。座っているのは五人。全員、俺だった。
スーツの俺。ジャージの俺。白衣の俺。パジャマの俺。そして制服の俺。目が合った瞬間、制服の俺が言った。
「やっと来たね」
口が動くより先に声が届いた気がした。
「ここはどこだ」
「電車」
「いつだ」
「全部」
スーツの俺がスマホから目を離さずに答える。
アナウンスが流れた。
『次は、後悔、後悔です。ドアが閉まります。なんで、え、どうして、とお思いのお客様はそのままお待ちください』
路線図を見る。駅名は全部、嫌な言葉でできている。しとけばよかった。言えばよかった。戻れたはず。
「今日の目的はね」とスーツの俺が言う。
「誰の選択で、ここにいるのかを決めること」
窓の外では、線路が空中で絡まり、分岐して、また一本に戻っている。現実感が削られていく。
「昨日の君、覚えてる?」と制服の俺。
「未来に来てみて、どう?」
「微妙だな」
「でしょ」
ジャージの俺が笑う。
「毎回そこ。違う気はするけど、何がいいかは言えない」
電車が減速する。
『右側のドアが開きます。降りる方は自分の責任で。降りない方も自分の責任で』
ホームには巨大な鏡が並んでいた。何十人もの俺が映っている。その中に、見覚えのない一人がいた。今の延長線上にない顔。でも直感でわかる。少しだけ楽しそうな未来だ。
スーツの俺が白い切符を差し出す。何も書かれていない。
「どこまで?」
「君が書く」
制服の俺がペンを渡す。
「ここで止まると、昨日に戻る。朝。止まった時計。起こす役と起こされる役が入れ替わるだけ」
「選ばなかったら」
「もう選ばれてる」
白衣の俺が淡々と言う。
俺はペンを握った。書く言葉が浮かばない。浮かぶのは、誰かが喜びそうな単語ばかりだった。
「一行でいい」と制服の俺。
「それがここにいる理由になる」
俺は書いた。
『とりあえず、自分で決めて失敗してみたい』
切符が発光する。行き先に「どっかマシな方」と印字される。
「それで十分」
「戻れないけどね」
「実験条件変更」
「新ルート解放」
アナウンスが流れる。
『次は、まだ名前のない駅です。違和感が続きますが正常です』
電車が動き出す。鏡の中の俺たちが、それぞれ違う方向を向いた。
次の瞬間、景色が切り替わった。
俺は、朝のベッドの上で目を開けていた。
時計は動いている。秒針が普通に進んでいる。
だが、ベッドの横には誰もいない。昨日の俺も、今日の俺もいない。
制服に着替えようとして、ポケットに何か入っていることに気づく。
白い切符。
行き先欄には、俺の字じゃない文字でこう書かれていた。
『とりあえず、君に決めさせたことにしておく』
その瞬間、背後で誰かが息を吸う音がした。
振り向く前に、秒針が一度だけ逆に跳ねた。
——文章は、ここで途切れる。
続きを読む役は、もう決まっている。
今、この行を読んでいるあなたのほうだ。