先週の金曜、夕方のことだった。
職場を出て、コンビニの駐車場で煙草に火を点けたそのとき、ポケットの中で携帯が震えた。警察署からの電話。
一瞬、心臓が跳ねた。事故?違反?それとも誰か……いや、俺には思い当たるフシがない。
応答すると、意外な話をされた。
五、六年前に盗まれた自転車が見つかり、今から届けに来るというのだ。
「ええ……? 今さらですか?」思わず苦笑した。あれはもう、とっくに諦めていた。
それどころか、当時からボロボロだった。誰が好んであんなのを――と、冗談まじりに「差し上げますよ」と言ってみたが、
電話の向こうの声は「こちらも仕事なので」と真面目に返してきた。
仕方なく、自宅で待った。
警官が現れたのは、夜の十時を過ぎていた。
懐中電灯を片手に、小型トラックの荷台から降ろされたそれは、
確かに、かつて俺が乗っていた自転車……のはずだった。
だが、その姿に言葉を失った。
赤い。
真っ赤なのだ。まるで乾いた血のような、汚れた赤。
もともとは黒い車体だった。艶のない、傷だらけの安物。
それが今、無理やり塗り直されたように、雑な刷毛跡を残しながら、真っ赤に染められている。
しかもハンドルが、トンボ型から妙に鋭角なカマキリ型へと交換されていた。
疑問をぶつけると、警官は「登録番号と所有者情報は一致しています」と言い、
「住所と名前も、うっすら刻まれていますよ」と指差した。
確かに、俺のだ。間違いない。
自転車が見つかった場所は、兵庫県尼崎市の駅前。
盗まれた当時、俺は大阪の門真に住んでいた。
「こういうのは、次から次へと乗り継がれるんですよ」と笑う警官に対して、俺は微笑み返すこともできなかった。
何かがおかしい。これは、ただの“戻ってきた”話ではない気がした。
翌朝、自転車の処分を決めた。
使うつもりもなかったし、これ以上関わりたくもなかった。
だがその前に、せめて最後に拭いてやろうと思った。
玄関先で雑巾を取り出し、フレームを擦ると、赤い塗膜がパラパラと剥がれ落ちた。
層になった塗料の下から、まだらな黒色が顔を覗かせる。
途中で嫌気が差し、サドルだけ取り外して、今使っている自転車に移植しようとした。
持ち上げたとき、サドルの裏、手の届きづらい隙間に紙切れが挟まっているのが目に入った。
細かく折りたたまれたレポート用紙のようなものだった。
広げてみると、そこには……
『つかまえた やっとつかまえた つかまえた
みつけてもおそい つかまえた
おまえはきづかない 成就』
同じ文面が、五度、繰り返されていた。
そして末尾に、住所と電話番号。
心底、気持ち悪かった。
おそらく、俺の自転車を使っていた誰かの悪戯だろう……そう考えようとしたが、
いや、それにしても妙だ。なぜ「成就」なのか? 何が、成就したというのか。
気になって、ノートパソコンで住所と番号を検索した。
住所は実在し、尼崎市の山手。
電話番号も同じエリアに属しているようだった。
日曜には偶然にも、伊丹にある親戚宅に行く予定があった。
そこからなら、寄り道して行ける。
俺は好奇心に負け、赤い紙に導かれるように、その住所へと向かってしまった。
そこは、山の中腹だった。
道路の片側に川、反対側に三軒の家。
そのうち二軒には人の気配がなく、一軒だけが微かに生活感を残していた。
Bと表記する真ん中の家の敷地に入り、周囲を回ってみた。
何もない。
蚊とバッタ、それから風に揺れる草の音。
Cの家を覗くと、古い自転車が一台、放置されていたが、赤くはなかった。
自販機の明かりが微かに点いているだけで、あたりは薄暗く、異様な静けさが漂っていた。
ふと、B家の裏手に回ったとき、目に入ったものがある。
赤い。
犬小屋だった。小さな木製のそれが、まるで血を浴びたように塗られていた。
しかも、俺の自転車と同じような雑な塗料で。
まさか、と思いながらも近づくと、突然、電話の音が響いた。
静寂を裂くような、乾いたベル音。
最初はC家の中かと思ったが、違う。もっと近くから聞こえる。
恐る恐る、B家の壁に耳を当てた。
間違いない。壁の向こうから、電話の音が鳴っている。
そのときだった。
背筋が凍りついた。
動けない。体が、耳を壁に押し付けたまま硬直していた。
手も、足も、首も、微動だにしない。
呼吸だけが荒くなり、汗が滝のように噴き出す。
ザザッ……ザザッ……
誰かが、何かが、背後から忍び寄ってくる音。土を踏むような、布を引きずるような、不快な音。
心の中で南無阿弥陀仏を唱えた。般若心経も唱えた。九字も切った。
それでも音は止まらない。
次の瞬間。
肩を、ポンと叩かれた。
硬直が解け、俺はその場に尻餅をついた。
振り返ると、五十代くらいの女性が立っていた。無表情で、ただ睨んでいた。
「さっさと立って、ついてきなさい」
そう言われ、自販機の近くまで連れて行かれた。
言い訳をしようとしたが、塩水のようなものを頭から浴びせられ、
「帰りなさい」とだけ言い残し、彼女は歩き去った。
彼女は、近くの家に入っていった。
見た目は普通の人だった。だが、何か……何かが違った。
俺は恐怖と興味の狭間で揺れながら、その家を訪ね、事情を話した。
最初は警戒されたが、やがて彼女は口を開いた。
「あそこにはね、昔から時々、来る人がいるのよ。不動産屋でも、親戚でもない人たちが」
「どうしてですか?」と問うと、彼女は静かに言った。
「全員、紙を持っていた。赤い紙。あんたのと同じように」
彼女は続けた。
B家の敷地内で、過去に四人が自殺しているという。時期はバラバラ。手段も違う。だが全員、同じ家に引き寄せられた。
「気づいたときには、もう手遅れだった人もいたわ。でもあんたは……足元に、くっついてた。あれがね」
「……あれ?」
彼女は頷き、眉間に皺を寄せた。
「あんた、紙はまだ持ってるの? すぐ捨てなさい。あれは“印”なの。つかまえたっていうのは、そういう意味。
お墓参りに行きなさい。ご先祖様に感謝することね。……あんたのご先祖様が、私に知らせてくれたから、助けられたんだから」
俺はその足で、自転車を処分した。
赤い自転車。
あれは、ただの乗り物じゃなかった。
知らぬ間に、何かを背負わされ、どこかへ運ばされ、そして戻ってきた。
戻ってきたのは、自転車だけじゃなかったのかもしれない。
以来、俺は道に落ちた赤い紙を拾わないようにしている。
見知らぬ住所にも、絶対に近づかない。
それでも時々、耳の奥で、あの音が鳴る。
……ザザッ、ザザッと。
そしてあの声が、また囁くのだ。
「つかまえた」
[出典:98 :98の1:2009/08/27(木) 02:46:11 ID:HNnGhxQw0]