福岡の田舎に住んでる。山あいの盆地で、夏は湿気がまとわりつくように重い。
今日も朝から茹だるような暑さで、庭の草むしりなんてやるもんじゃなかったと、汗だくになりながら後悔してたところに、見知らぬ若い男が道を歩いてきた。
二十代前後、汗をかいてる様子もなく、妙にきれいな顔をしてた。
こっちを見てぴたりと立ち止まると、すこし首を傾げて、控えめな声で言った。
「……水、いただけませんか」
喉が渇いてたのか、それともただの旅人か。
こんな暑さだ、断る理由なんてなかったから、うちの軒先に通して、氷入りの水をコップになみなみ注いで差し出した。
目を細めて、「ありがとうございます」と言って、ぐいっと飲み干す。まるで演技でも見てるみたいに自然だった。
「いやあ、今年の夏は本当に暑いですね」
「こんな年は久しぶりだよ。草も生え放題だし」
たわいもない会話だった。
だけど、なにかが妙に引っかかってた。言葉の端々、身振り、間合い……どこか、現実から半歩ズレている。そう、夢の中の他人と話しているような。
少しでもその違和感を確かめたくて、もう一杯水を注いで渡した。
話を広げようとして、コロナの話を出した。「このあたりでも感染者が増えてね」と。
その瞬間、男の目がギョッと見開かれた。
「……え、でも、コロナって……もう収まってますよね」
「は?」
笑ってしまった。冗談かと思った。でも彼は真顔で、まるでこちらの方が冗談を言ってるみたいな顔をしていた。
「コロナは令和七年には終息しましたよ」
「いや、今は令和四年だけど」
静かな沈黙が流れた。
男の表情が、今まで見せたことのない動揺で崩れていった。
顔から血の気が引いて、ひとりごとのように「そんなはずは……」と呟いた。
「……タイムスリップでもしたんですか?」
冗談のつもりだった。だが彼は、しばらく考え込んだ末、ぽつりと呟いた。
「……そうかもしれません」
背筋にうすら寒いものが走った。
だがそれ以上に、私はぞくぞくと興奮していた。
この男はいったいどこから来た? 何を見てきた? 何を知ってる?
「おとぼけくん、食べるかい」
冷凍庫から取り出した棒アイスを押しつけた。
すると彼は驚いたように「えっ、まだ売ってるんですか?」と笑った。
たしかに今どき、おとぼけくんなんてコンビニじゃ見かけない。
でも売ってるんだ、田舎のスーパーには。
聞けば、令和十八年から来たらしい。
大学生で、夏休みに自転車旅行してた途中、水が切れてしまったんだと。
庭先で私が草をむしっているのを見つけて、声をかけた。
水筒は空っぽ、彼の乗っていた自転車はピカピカで、泥ひとつついていなかった。
「せっかくだから、未来のことを教えてよ」
冗談めかして聞いてみた。
競馬や宝くじ、株価の話。
けれど彼はあっさりと「わかりません」と首を振った。
自分も今、昭和に戻されたら何もわからない。たしかにその通りだ。
けれど、いくつかの話は鮮明だった。
ウクライナとロシアの戦争は令和六年まで続き、ロシアが停戦協定を結んで終わった。
サル痘の流行があって、令和十二年頃には日本でもかなりの数が感染したと。
実際、彼の右腕には、治りきらない発疹の跡のようなものがあった。
「タイムスリップしたのは、いつ?」
「はっきりとは……ただ、気がついたらこの道を歩いていて……」
私の方をじっと見る。
「あなた、令和四年の……夏、って言いましたよね?」
私はうなずいた。
「その時期、確かに私は生きていたはずです。十歳のはずです。でも、どんなだったか、思い出せません。妙に記憶があいまいなんです」
彼の言葉が、どこか引っかかった。
「名前は?」
言い終える前に、ふと胸がざわついた。
彼はすこし考え込んで、私の苗字を口にした。
それが、私と同じ名字だった。
「あんた……まさか、うちの……?」
「わかりません。ただ……ずっと気になっていた家だった気がします」
胸の奥が、どくん、と鳴った。
記憶の底から、もう顔も覚えていない誰かの姿が浮かびかけて、すぐ消えた。
彼は、じゃあと言って、自転車にまたがり、家を探してみると言って走り出した。
背中がだんだん小さくなって、やがて見えなくなった。
あれから、もう日が暮れようとしてるけど、彼は戻ってこない。
どこかで家を見つけてるのか、それとも、どこか別の時間へ行ってしまったのか。
いや――もしかすると、あの出会いそのものが……
私の記憶の、断片だったのかもしれない。
自分自身がかつて体験したはずの、あいまいで、かすれた、夏の幻。
今でも、あの庭の隅には、ぬるく溶けたおとぼけくんの棒が落ちている。
[出典:19 :本当にあった怖い名無し:2022/08/19(金) 14:26:36.64 ID:r4qDEjWI0.net]