深夜二時を回った部屋の空気は、水を張ったまま忘れられた水槽のように重く澱んでいた。
換気扇が古びたベアリングを擦る低い唸りを続け、その単調な振動だけが耳の奥に貼り付いて離れない。テーブルの上には婚姻届が一枚、蛍光灯の白い光を吸い込んで、やけに薄く頼りない紙切れとして横たわっていた。
私はそれを、一時間以上見つめ続けている。
胃の奥が冷え、内臓が少しずつ下へ引きずられていくような感覚がある。吐き気とは違う。身体の配置そのものが、わずかに狂っていく不快さだった。
記入欄には、私の名前と、彼女の名前が並んでいるはずだった。
五年付き合った恋人。大学の同級生で、落語研究会に所属していた小柄な女性。私たちは互いをあだ名で呼び合い、その音の響きだけで通じ合っていた。だからこそ、その文字列を見た瞬間、視界の奥で何かが裂けた。
『伊集院エリザベス』
見覚えのない名前が、妻になる人の氏名欄に鎮座している。
私の知る彼女の名前は佐藤花子だ。そう呼び、そう呼ばれ、疑ったことなど一度もなかった。ありふれているが、体温のある名前。それが、冗談とも悪意とも言えない異物に置き換わっている。
指先が震え、紙を押さえる親指の爪が白く変色していた。この文字は私の筆跡ではない。だが、彼女の丸みのある字とも違う。無機質で、定規で引いたように揃いすぎた手書き文字。インクの黒だけが、そこだけ深く沈んで見えた。
私はスマートフォンを手に取った。登録名は「ちわちゃん」。落語の芸名から取った、二人だけの記号だ。通話ボタンに指を伸ばしかけて、止める。
もし出たら、何を聞く。君の名前は何だと聞くのか。この紙に書かれている名前を知っているかと問うのか。その瞬間、これまで積み上げてきた五年が、音もなく崩れる予感があった。
用紙は役所で受け取り、彼女に渡し、封筒に入れて返してもらった。そのままカバンに入れ、今日まで触れていない。誰かがすり替えた可能性を考えたが、意味がない。侵入してまで、婚姻届だけを、しかもこんな名前のものと交換する理由がない。
思考が空転する。
逃げ場を探すように、私は部屋の隅のカラーボックスに目を向けた。学生時代からのアルバムが、無造作に突っ込まれている。記憶ではなく、物としての証拠が必要だった。
アルバムを引き抜くと、埃の匂いが立ち上る。ページをめくる。合宿、学園祭、卒業旅行。すべて覚えている光景だ。
指が止まった。
写真の中で、私は笑っている。その隣で、私の肩に頭を寄せる女が微笑んでいる。
知らない顔だった。
声が漏れる。「……誰だ」
私の記憶にある彼女の顔ではない。切れ長の目、冷えた印象の輪郭。だが、着ている服は私が贈ったワンピースだ。首元には、お揃いで買った安物のネックレス。場所も状況も、すべて合っている。隣に立つ人間だけが、別のものに差し替えられている。
めまいがした。
スマートフォンで最近の写真を開く。先週のデート。そこにも同じ女が写っていた。背景も、距離感も、私の記憶通りだ。その瞳だけが、私を静かに見返してくる。
名前が、口の中で錆びた味を伴って浮かぶ。
伊集院エリザベス。
もしかすると、最初からそうだったのか。私が佐藤花子だと思い込んでいた存在は、私の側の誤認だったのか。
混乱のまま、友人のSにメッセージを送った。時刻は三時前。返事は期待していなかった。
『俺の彼女、ちわちゃんの本名って何だっけ』
数分後、返信が来る。
『佐藤花子だろ』
胸が詰まる。私は写真を添付し、『この写真、誰に見える』と送った。
『お前と花子だろ』
友人には、あの女が佐藤花子に見えている。
翌日、私はSと、同じゼミだったNと会った。居酒屋の騒音の中で、婚姻届と写真をテーブルに並べる。二人は首をかしげ、写真には何の違和感も示さなかった。だが、氏名欄を見た瞬間、Sの表情が硬直した。
「伊集院エリザベス……?」
Nも息を呑む。
写真は佐藤花子。書類の名前は知らない女。私には両方が同一人物に見えている。
整理しようとしたその時、Nが小さく言った。
「……顔、少し変じゃない?」
彼女の指が写真をなぞる。「花子ちゃんの顔のはずなのに、表情だけが違う」
その夜、私たちは彼女のマンションを訪れた。
ドアを開けて現れた彼女を見た瞬間、私は確信した。
私の目には、あの女が立っていた。
声は佐藤花子。仕草も記憶通り。だが、顔だけが違う。SとNは何の疑問も抱かず、笑顔で挨拶を交わしている。
私は婚姻届を差し出した。
彼女は首を傾げた。「こんな名前、知らない」
その直後、Sが私の背後を見て、顔色を失った。
「……お前の後ろに、顔がある」
振り返っても、何もいない。ただ、壁紙の模様が歪んで見えた。
電気が一瞬だけ瞬いた。
彼女の顔が、ほんの一瞬、写真と同じものに変わった気がした。
「気づいた?」
誰の声か分からない問いが、耳の奥で響いた。
次の瞬間、私は自分が立っている部屋を、どこからか眺めている感覚に陥った。SとNが叫び、彼女が何かを言っている。だが、音は遠く、意味を持たない。
気がつくと、私は自室の机に突っ伏していた。婚姻届はなく、アルバムも写真も、すべて元のままだった。
ただ、スマートフォンの下書き欄に、一行だけ残っている。
『……という創作でした』
いつ書いたのか、覚えがない。
その日の夜、インターホンが鳴った。
ドアスコープを覗くと、見知らぬ女が立っている。冷えた輪郭の顔。
「書類のことで」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
その名前を、私はもう、声に出せない。
[出典:1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/12/12(月) 20:31:46.16 ID:xO+l84Sa0]