今でも、あの風車の音を夢に見ることがある。
くるくると、風に揺れるたび、キィ……キィ……と擦れる、紙と竹のかすかな摩擦音。何でもない、どこにでもある玩具のはずなのに、それがあれほど無気味に思えたのは、あの集落で過ごした一泊二日のせいだろう。
私がまだ十歳前後だった夏の終わり、家族四人での旅行帰り、私たちは確か山梨の山奥あたりで道に迷ってしまった。父の運転は自信過剰で、地図を読むのも得意だと言い張っていたが、その日ばかりは様子が違った。ナビもない時代、頼みの綱は道路脇の道標だけ。夕日が山に沈みかけた頃、ようやく一軒の民宿に辿り着いた。
その建物は木造で、軒先には風鈴が吊るされていた。ガラスの風鈴ではなく、竹でできたもので、音は低く、鈍く、まるで何かの鳴き声を押し殺したように響いていた。玄関先に出てきたのは、小柄で年老いた女性だった。白髪を後ろに束ねて、紺色の割烹着姿。その顔には皺が深く刻まれていたが、表情はほとんど動かなかった。
「お泊まり、ですか……」
口数は少なく、抑揚も乏しい。父が事情を説明すると、うなずくでもなく「こちらへ」とだけ言って、私たちを客室に案内した。廊下は薄暗く、畳は年季が入っていたが、不潔という感じはなかった。
その日は疲れていたのだろう。夕食の後、私は布団に潜り込むとすぐに眠ってしまった。
翌朝。窓の外にうっすらと朝霧が残っていた。朝食を済ませると、父が「近くに神社があるらしい。行ってみよう」と言い出した。旅先での散歩は、父のちょっとしたこだわりだった。民宿の前から続く坂道は緩やかに上り、両脇には古びた民家が並んでいた。
その家々の垣根に、風車が挿してあった。赤、青、黄、色とりどりで、子どもが好みそうな玩具。しかし、その数が異常だった。ひとつの家に十本、二十本と風車が無造作に突き刺されている。しかも、それがどの家にも、同じように。
何かの風習かとも思ったが、説明がつかない。まるで死者の墓標のように思えて、私は目を逸らしたくなった。
そのときだった。ある家の門の奥から、老婆がこちらを見ていた。
痩せこけて、腰が曲がり、髪は真っ白。だが、その眼だけは爛々と輝いていた。と言っても、生気があるわけではない。ただ、じっと、何かを測るように、あるいは見定めるように、微動だにせず私たちを見ていた。
「おはようございます」
父が声をかけた。母も、それに続いた。私と弟も、反射的に頭を下げた。
だが、老婆は何も言わなかった。ただ見ている。まるで石像のように。
そして、神社に着くまでの間に、同じような老人たちを私は何人も見た。どの家の門先にも、一人、また一人、老人が立っている。男も女もいたが、どれも同じように無表情で、無感情で、無言のまま、私たちの歩みを見つめていた。
その静けさが、どこかおかしかった。
神社自体は立派なものだった。山の中にしては随分と広く、手入れも行き届いていた。拝殿の軒下に、大きなスズメバチの巣が飾られており、それを見た父が「本物か?」と呟いた。私は虫が好きだったので、つい興奮して駆け寄った。
境内では弟と妹が追いかけっこをしていた。父も母も、珍しく穏やかな顔をしていた。そんな風景が、今思えば、妙に“演出された”ような静けさだった。
散歩を終えて、再び坂道を下りると、今朝見た老人たちはまだそこに立っていた。ぴくりとも動いていない。坂を上ったときから、二時間は経っていた。彼らは、その間、ずっと同じ姿勢で私たちを待っていたのだろうか。
その眼差しもまた、変わらず、無感情だった。
午後、父が「もう一泊しよう」と言い出した。特に急ぐ予定もなかったし、母も反対はしなかった。私は少しだけ嫌な予感がしたが、口には出せなかった。
その夜、夕食の川魚は絶品だった。父は満足そうに箸を進め、母も珍しくおかわりをした。だが、部屋に戻ってから、父が「クーラーの効きが悪い」と言い始めた。工具好きの父は、何の遠慮もなくカバーを開けた。
そこには、無数のマルカメムシが詰まっていた。
おそらく数百匹はいたと思う。すべて動かず、まるで冬眠しているようだった。私は叫びたくなったが、父と目を合わせると、彼も無言でうなずき、手際よく処理を始めた。私も手伝った。母には黙っていた。
その晩、眠りについたあと、私は夢を見た。あの風車が、垣根から抜け出して、夜風に乗って部屋の中を飛び回る夢。くるくる回って、部屋の中を舞い、私の顔のすぐ近くまで来ては、また飛んでいく。その中心には、やはりあの老人たちの、感情のない目があった。
翌朝。出発の準備を整え、母がフロントで支払いを済ませようとしたとき、あの女将が言った。
「御代を頂くわけにはまいりません」
静かな声だったが、はっきりとそう言った。母が戸惑い、父も眉をひそめた。何度もやり取りをしたが、女将は首を横に振るばかり。最後には父が封筒にお金を詰めて押しつけるように渡し、急いで車に乗り込んだ。
「お客様、困ります……!」
女将の声が背後で追いかけてきた。だが、振り向いてはいけない気がして、私は車窓をじっと見つめていた。
走り出した車の中、父がポツリと言った。
「……あの集落な、民宿の人間以外、ほとんどが老人だった。あと……気づいたか? 一度も、人の声がしなかった。話し声が」
私は背筋が凍った。確かに、朝の散歩中、どの家の窓も閉ざされ、扉の奥から物音一つ聞こえてこなかった。テレビの音すらなかった。
父は笑いながら言った。
「ちょっと、不気味な場所だったな」
それから二十年が経った。あれは夢だったのでは、と自分に言い聞かせたくなる時もある。だが、ある日ふと思い出して、母にそれとなく聞いてみた。
「あのときの旅行、覚えてる?」
母はしばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……忘れたいけど、忘れられないわね。少し、不気味だったわ」
そして、あのときの父と同じように、笑った。
だが、その笑顔がほんの少し引きつっていたことを、私は見逃さなかった。
あの集落が、どこだったのか。今では誰も思い出せない。地図にも記録がない。写真もない。まるで最初から、存在しなかったかのように。
ただ、あの風車の音だけが、いまでも耳の奥で回り続けている。
くるくると。
キィ……キィ……。
[出典:50 :本当にあった怖い名無し:2011/02/27(日) 02:35:15.69 ID:lGUXio2b0]