三月の終わりだというのに、その夜の空気は妙に粘り気を帯びていた。
高校の卒業式を終えてから三日後。私たち二十人ばかりの卒業生は、級友であるKの実家、山間にある古刹の座敷に集っていた。
窓の外は漆黒の闇である。街灯など一つもない山寺の夜は、都市部のそれとは質の違う暗さを孕んでいる。濡れたアスファルトの匂いではなく、腐葉土と湿った杉皮、そして古い木造建築特有の埃っぽい匂いが混ざり合い、肺の奥に冷たく沈殿していくような感覚があった。
本堂と母屋は渡り廊下で繋がっているのだが、宴会の会場となったのは本堂のすぐ脇にある大広間だ。十六畳から二十畳はあるだろうか。襖をすべて取り払った空間は、本来なら法要や檀家の集まりに使われる厳粛な場所なのだろう。だが今夜ばかりは、テーブルの上に無造作に広げられたスナック菓子の袋や、誰かが持ち込んだ微温い缶ジュース、そして若者特有の抑制の効かない笑い声によって、場違いな熱気に満たされていた。
「おい、こっちのビールもうないぞ」
「誰か買ってこいよ」
「コンビニまで車で三十分だぞ、無理言うな」
そんな他愛のない会話が飛び交う中、私はふと、背後の襖の向こう側に広がる気配に意識を奪われていた。
私たちが騒いでいるこの部屋の照明は明るいが、一歩廊下に出れば、そこは常夜灯のみが頼りなく瞬く無限の闇だ。広大な寺の敷地の中で、ここだけが切り取られたように浮いている。光の届かない奥の部屋、誰もいないはずの本堂、長く伸びる渡り廊下。それらが、まるで巨大な生物の内臓のように静かに呼吸をしている気がしてならない。
酒も入っていないのに、軽い目眩のような酩酊感があった。卒業という高揚感の裏側にある、これからバラバラになっていく不安。その隙間に、この寺の持つ古い空気が入り込んでくる。
宴もたけなわとなり、日付が変わる頃には、騒ぐ者と眠り込む者に分かれ始めていた。
そんな折だ。「何か面白いことをやろう」と言い出したのは誰だったか。
場所が場所だけに、怪談話が始まるのは必然の流れだったのかもしれない。
「お、いいねえ。Kの寺、なんか出るんだろ?」
茶化すような声に、家主であるKは曖昧な笑みを浮かべていた。彼は色白で線の細い男だが、時折妙に大人びた、あるいは諦観したような目をする。
「出るかどうかは知らないけど……雰囲気はあるよな」
Kはそう言って、顎で隣室を指した。
「あっちの小部屋、使うか。ここは明るすぎる」
その提案に乗ったのは、私を含めたオカルト好きの七、八人だった。
私たちは賑やかな大広間を後にし、襖一枚を隔てた隣の部屋へと移動した。
そこは八畳ほどの和室だった。大広間とは異なり、重厚な仏壇もなければ掛け軸もない。ただ、壁の漆喰が所々浮き上がり、畳が湿気を吸って黒ずんでいるのが見て取れた。
Kがどこからか太い和蝋燭と、古びた燭台を持ってきた。
「電気、消すぞ」
パチン、という乾いたスイッチ音とともに、世界が収縮した。
それまで部屋の隅々まで照らし出していた蛍光灯の白い光が消滅し、代わりにマッチの擦れる音が響く。シュッ、ボッ。
硫黄の匂いと共に、橙色の炎が揺らぎながら立ち上がった。
私たちはその一本の蝋燭を囲むようにして車座になった。
光源が一つになることで、部屋の四隅は完全な闇に飲まれた。お互いの顔も、炎に照らされた半分しか見えない。揺らめく影が、仲間の顔を別人のように歪ませていく。
襖一枚向こうからは、まだ宴会を続けている連中の笑い声が聞こえてくる。
「馬鹿だなあいつら」
「全然怖くないじゃん、これじゃ」
最初はそんな軽口を叩いていた。隣室の光と音が漏れてくることで、私たちはまだ「安全圏」にいるという錯覚を持っていたからだ。
だが、怪談が始まって一巡する頃には、その場の空気は明らかに変質していた。
一番手のAが話したのは、学校の旧校舎にまつわる定番の噂話だった。
二番手のBは、親戚から聞いたという山での遭難話。
どれも聞き覚えのある、あるいは構成の甘い話ばかりだったが、奇妙なことに、私たちは次第に口数を減らしていった。
隣室の宴会の音が、遠ざかっているように感じられたのだ。
物理的な距離は変わっていないはずだ。しかし、まるで水中に潜った時のように、外の音が膜を隔てた向こう側の出来事のように鈍く、遠く聞こえる。
代わりに、この八畳間の「音」が際立ち始めた。
誰かの衣擦れの音。喉を鳴らして唾を飲み込む音。畳のイグサが擦れる微かな音。
そして、蝋燭の爆ぜる音。
パチッ。パチリ。
油煙を含んだ黒い煙が、真っ直ぐに天井へと吸い込まれていく。
「……で、その鏡を見ると、自分の死に顔が映るんだって」
三番手の女子が震える声で話を結んだ時、私は不意に寒気を感じて腕をさすった。
気温が下がったのではない。湿度が変わったのだ。
ねっとりとした空気が肌にまとわりつき、首筋に冷たい指先で触れられたような不快感がある。
ふとKの方を見ると、彼は腕組みをしたまま、じっと蝋燭の炎を見つめていた。その横顔は無表情で、何を考えているのか読み取れない。
「次は俺か」
私が口を開こうとした、その時だった。
ミシッ……。
天井から、音がした。
全員の肩がびくりと跳ねた。
それは古い家屋なら珍しくない、木材の収縮音のようにも聞こえた。家鳴りだ。そう自分に言い聞かせようとした。
だが、音は続いた。
ギシッ、ミシッ、ギシッ。
明らかに、リズミカルだった。
家鳴りではない。何かが動いている。それも、かなりの重量を持った何かが。
「……え?」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
音は、私たちの頭上、天井板の一枚向こう側で鳴っていた。
ギシッ、ギシッ。
歩いている。誰かが、歩いている。
最初は部屋の隅の方だった音が、ゆっくりと、しかし確実に円を描くように移動している。
私は天井を見上げた。竿縁天井の薄い板目には、蝋燭の光が届かず、暗い木目だけが不気味な模様を描いている。
あの板のすぐ裏側に、足がある。
素足ではない。分厚い靴下か、あるいは足袋を履いて、畳の上を擦るように歩く独特の音。
ズッ、ズッ、という微かな摩擦音が、ミシッという板の軋みと共に鼓膜を打つ。
「おい、K」
友人の一人が、強張った笑顔でKに声をかけた。
「お前の家、二階に誰かいるのか?」
常識的に考えれば、そう思うのが自然だ。
Kの家族は母屋の方にいるはずだが、何かの用事で二階に上がってきたのかもしれない。
私は先ほどトイレに立った際、渡り廊下の向こうでKの母親が洗濯物を畳んでいるのを目にしていた。
(ああ、おばさんか。洗濯物を干しに来たんだな)
そう自分の中で結論づけようとした。時刻は深夜一時を回っているが、広い寺の家事だ、こんな時間に干すこともあるだろう。
あるいは、酔っ払った宴会組の誰かが、迷い込んで二階に上がってしまったのかもしれない。
だが、足音は止まない。
それどころか、歩調が変わり始めた。
最初はゆっくりと部屋の四隅を回るようだったのが、次第にその円を狭めている。
ギシッ、ギシッ、ギシッ、ギシッ。
速度が上がる。
まるで、獲物を追い詰める獣のように。あるいは、出口を探して狂ったように徘徊する囚人のように。
私たちの頭上の、ほんの数十センチ上。
そこに「誰か」がいる。
その質量が、天井板をたわませ、埃を降らせるのではないかと思うほどの圧迫感。
「なあ、誰か上がってんのかよ」
もう一度、友人が聞いた。声が震えている。
隣の宴会の音は、もう聞こえなかった。あるいは、聞こえていたのかもしれないが、私の脳がそれを遮断していた。
全神経が、頭上の「音」だけに集中している。
その時、Kがゆっくりと口を開いた。
「……また俺が、怖い話をしようか」
その声は、低く、奇妙に落ち着き払っていた。
場の空気にそぐわない冷静さが、逆に私の不安を煽った。
「は? 今そんなこと言ってる場合かよ。上に誰か……」
「いいから」
Kは遮るように言い、指先で蝋燭の炎を示した。
「この火を見てみろ」
私たちは促されるまま、視線を中央に戻した。
息を呑んだ。
炎の形が、おかしい。
本来なら、上昇気流に乗ってシュッと縦に長く伸びるはずの炎が、まるで押し潰されたように低く、そして丸くなっていた。
オレンジ色の光の玉が、芯の周りにまとわりついている。
風はない。窓は閉め切っているし、誰も動いていない。
なのに、炎は完全な球体に近づきつつあった。
「……見ろ、まるで熟れた柿みたいだろう」
Kが囁くように言った。
その形容は不気味なほど的確だった。蝋燭の炎は、もはや燃焼という化学反応を放棄したかのように、ねっとりとしたオレンジ色の塊となって芯先に留まっている。瞬きもせず、揺らぎもしない。それは光源というより、空間に空いた穴のようにも、誰かの充血した眼球のようにも見えた。
周囲の闇が、質量を持ってのしかかってくる。車座になった私たちの背中を、冷たく湿った空気が撫で回す。
「蝋燭の火がこうして丸くなる時、何が起きているか知ってるか」
誰も答えない。答えたくないのだ。
Kは炎を見つめたまま、独り言のように続けた。
「霊気だよ。強い磁場みたいなものが、炎を外側から押さえつけているんだ。抱きしめている、と言ってもいい」
その瞬間、頭上の音が止まった。
ギシッ。
最後の一歩が、私たちの円陣のちょうど中心、つまりこの奇妙な炎の真上で踏み止められた。
静寂が戻る。だが、それは安堵をもたらす静けさではない。息を殺して獲物を覗き込むような、張り詰めた沈黙だ。
天井板一枚を隔てた向こう側に、何かが「居る」。
じっと、私たちを見下ろしている。
「……あのさ」
沈黙に耐えかねたように、私が口を開いた。声が上擦り、喉がカラカラに乾いているのがわかる。
「脅かすなよ。お前の母さんだろ? さっき洗濯してたし、取り込みに来たんだよ。足音くらいするさ、古い家なんだから」
私は必死に日常の論理を組み立てた。そうだ、これはただの生活音だ。古い木造建築、深夜の静けさ、そしてオカルト話という状況が、些細な音を過剰に演出しているに過ぎない。
隣の友人たちも、そうだそうだと頷こうとした。救いを求めるような視線が私とKの間を行き来する。
しかし、Kはゆっくりと首を横に振った。その動作はひどく緩慢で、まるで首の関節が錆びついているかのようだった。
彼は憐れむような目で私を見た。
「なあ、お前。ここに来る時、外からこの建物をどう見た?」
「どうって……」
「母屋があって、渡り廊下があって、本堂がある。俺たちが今いるこの『離れ』は、本堂の横に突き出している部分だ」
Kの声は淡々としていた。事実のみを羅列する、教師のような口調。
「母屋は二階建てだ。でもな」
Kは人差し指を天井に向けた。
その指先が、黒ずんだ天井板の節目を指し示す。
「この部屋の上に、二階はないんだよ」
思考が凍りついた。
言葉の意味を脳が消化するのを拒絶した。
二階がない?
馬鹿な。だって、今、音がしたじゃないか。
あんなに鮮明に。体重の乗った、軋むような足音が。回遊し、近づき、そして今、私の頭上で止まっているあの音が。
私は記憶の中の映像を再生した。車を降りた時の光景。夜空に浮かぶ寺のシルエット。
母屋の屋根は高く聳えていた。だが、私たちが通されたこの離れの屋根は……。
低かった。平屋だ。
瓦屋根が、地面に近い位置に広がっていたはずだ。
「じゃあ……」
Aが震える声で呻いた。
「じゃあ、今、上にいるのは……」
屋根の上?
いや、あの音は瓦の上を歩く音ではない。屋根裏だ。
天井板と屋根の間の、人間など入り込む隙間のない狭小な空間。
そこに、人間と同じ重さの「何か」が蹲っているということか。
その事実が提示された途端、部屋の空気が決定的に変質した。
それまでは「怖い話」というエンターテインメントの枠内にあった恐怖が、突如として現実の物理法則を侵食し始めたのだ。
私たちは閉じ込められていた。
八畳という狭い空間にではない。理解不能な現象の真下に、釘付けにされていた。
ボッ、ボッ。
真円の炎が、呼吸するように明滅を始めた。
それに呼応するように、天井から微かな音が降り注ぐ。
パラ……パラパラ……。
埃だ。
天井板の隙間から、長年堆積した埃や塵が、雪のように舞い落ちてくる。
それは、板の向こう側で何かが身じろぎしている証拠だった。
「嘘だ」
誰かが呟いた。
「嘘だろ、おい」
恐怖よりも拒絶が先に立った。そんなはずはない。物理的にあり得ない。
だが、現実は容赦なく私たちを追い詰める。
ミシッ……。
天井板が、撓(たわ)んだ。
錯覚ではない。中央の一枚、木目が節くれだった薄い板が、重みに耐えかねるように下へと膨らんだのだ。
まるで、柔らかいゴムのように。
あるいは、上から巨大な掌でゆっくりと押し付けられているかのように。
木の繊維が悲鳴を上げる音が、鼓膜のすぐそばで弾けた。
「ひっ」
女子のひとりが短い悲鳴を上げ、口元を押さえた。
私たちは動けなかった。逃げ出さなければならないという警鐘が脳内で鳴り響いているのに、体が金縛りにあったように硬直している。
視線だけが、あの撓んだ一点に吸い寄せられる。
そこには、節穴があった。
黒く、小さな、木の節が抜け落ちた穴。
その穴が、ゆっくりと開いていくように見えた。
いや、違う。
穴の向こうから、何かが覗いているのだ。
闇よりもなお濃い、底なしの暗黒が。あるいは、光を一切反射しない濡れた眼球のようなものが。
天井裏の隙間などないはずの場所に、無限の奥行きを感じさせる気配が満ちていた。
Kが、また口を開いた。
彼の顔は蝋燭の光を下から受け、陰影が反転して髑髏のように見えた。
「証拠って言っただろ」
彼は嬉しそうにさえ見えた。
「これが証拠だ。蝋燭の炎が教えてくれたんだ。今、あいつは、ここを通ろうとしている」
通る?
どこへ?
こっちへ?
「ふざけんな!」
私は叫んだ。叫ぶことで、この悪夢を振り払おうとした。
「出るぞ! おい、みんな出ろ!」
その号令が、凍りついた時間を叩き割った。
我に返った友人たちが、一斉に立ち上がろうとする。
足がもつれ、誰かが悲鳴を上げ、膝を打つ鈍い音がした。パニックが伝染する。
その時だった。
ドォン!!!
天井が落ちてくるかと思うほどの衝撃音が、部屋全体を揺さぶった。
頭上の「それ」が、踏み抜こうとしたのだ。
あるいは、飛び降りたのだ。
天井板一枚という脆弱な結界を破り、こちらの世界へ侵入するために。
埃が舞い上がり、視界が白く濁る。
その向こうで、あの真円の炎が、プツリと音を立てて消えた。
完全な闇。
そして、鼻をつく強烈な獣臭。腐った肉と、古いお香を煮詰めたような吐き気を催す悪臭が、瞬時に鼻腔を満たした。
すぐそばにいる。
暗闇の中で、誰かの、いや「何か」の荒い息遣いが聞こえる。
シュウ、シュウ、という、湿った空気を啜る音。
「あ、ああ……」
誰かの絶叫が上がった。
私たちは転がるようにして襖へ殺到した。
暗闇の中で手探りし、お互いを踏みつけ、爪を立てながら、唯一の出口である襖を力任せに開け放った。
そこには、光があった。
大広間の蛍光灯の、白々しいまでの明るさ。
テレビの音、スナック菓子の匂い、そしてまだ何も知らない友人たちの、間の抜けた驚きの表情。
「うわ、どうしたんだよお前ら」
「顔真っ青だぞ」
私たちは光の中に雪崩れ込んだ。
心臓が早鐘を打ち、喉がヒューヒューと鳴っている。
助かった。
そう思った。
あの部屋から出れば、あの境界線を越えれば、日常に戻れると信じていた。
だが、私は見てしまったのだ。
最後に部屋を出る瞬間、振り返ったその先を。
襖の隙間から覗く、闇に沈んだ八畳間。
その天井の中央から、白く細長い「腕」のようなものが、ダラリと垂れ下がっていたのを。
それは振り子のように揺れながら、何かを探すように五本の指を蠢かせていた。
光の中に逃げ込んだ私たちは、しばらくの間、床にへたり込んで呼吸を整えることしかできなかった。
心臓が肋骨を内側から殴り続けている。冷や汗が背中を伝い、シャツが肌に張り付く不快な感触だけが、ここが生者の世界であることを教えてくれた。
「おい、大丈夫かよ?」
「顔、紙みたいに真っ白だぞ」
大広間に残っていた友人たちが、怪訝な顔で覗き込んでくる。彼らの手にはトランプや空き缶が握られ、テレビからは深夜のバラエティ番組の下品な笑い声が流れていた。
あまりの温度差に、目眩がした。
たった今、襖一枚隔てた場所で起きたあの異常事態が、まるで遠い異国の出来事のように感じられる。
「……Kは?」
呼吸を整えながら、私は掠れた声で尋ねた。
一緒に逃げ出したはずだ。あの部屋で、最後まで冷静に解説していたK。彼こそが事情を知っているはずだ。
「え? Kならトイレだろ」
友人の一人が、スナック菓子を口に放り込みながら顎で廊下を指した。
「いや、一緒にいたんだよ。俺たちと、あっちの部屋で……」
「はあ? 何言ってんだ。Kはずっとこっちにいたぞ。さっきまで俺と大貧民やってて、負けたから罰ゲームで酒買いに行くか迷って、とりあえずトイレ行ったんだ」
思考が停止した。
背筋を、氷の粒が滑り落ちていく。
Kが、ここにいた? ずっと?
じゃあ、あの薄暗い八畳間で、蝋燭に火を灯し、私たちに怪談を語らせ、天井の異変を解説していた「彼」は誰だ?
「嘘だろ……」
Aが青ざめた顔で呟く。
その時、廊下からスリッパの音がして、本物のKが姿を現した。
「なんだよ、騒がしいな」
手ぬぐいで手を拭きながら、彼は眠たげな目で私たちを見た。
その表情には、あの部屋で見せた冷徹な知性も、闇を覗き込むような深淵さも微塵もなかった。ただの、人の好い級友の顔だった。
「K、お前……さっき、あっちの部屋に……」
私が指差すと、Kは首を傾げた。
「あっち? 俺は行ってないぞ。お前らが怪談やるって言うから、怖がりだから遠慮したんだ。……で、どうだった? 何か出たか?」
無邪気な問いかけが、鋭利な刃物のように神経を逆撫でする。
出たか、ではない。
お前が、そこにいたじゃないか。
「二階はない」と言ったじゃないか。
「霊がそばにいる」と、あの真円の炎を指差して……。
私はハッとして、開け放たれた襖の向こう、闇に沈んだ八畳間を見た。
そこには、誰もいなかった。
蝋燭も、燭台も、ない。
ただ、古びた畳の上に、埃だけが白く積もっていた。
そして天井。
蛍光灯の光が届く範囲で目を凝らすと、あの中央の天井板には、節穴などなかった。
撓んでもいなかった。
すべてが、私たちの集団幻覚だったというのか?
いや、違う。私の鼻腔には、まだあの強烈な獣臭と腐臭がこびりついている。指先には、畳を掻きむしった感触が残っている。
「……帰ろう」
誰かが言った。
もう、宴会を続ける気力など誰にもなかった。
私たちは逃げるようにして荷物をまとめ、Kの制止も聞かずに寺を後にした。
靴を履くとき、ふと足元に違和感を覚えたが、それを確かめる勇気はなかった。
寺の門を出て、車のシートに沈み込んだ瞬間、バックミラー越しに見えた本堂の屋根が、巨大な口を開けて嗤っているように見えたのは、きっと気のせいだ。そう思うことにした。
あれから十年が経った。
あの夜の出来事について、当時の仲間と語り合うことはない。疎遠になったわけではないが、誰かがその話題を口にしようとすると、示し合わせたように沈黙が落ちるのだ。
私たちは皆、社会人になり、それぞれの生活を営んでいる。
私も結婚し、郊外の古いアパートの二階に居を構えた。
平凡な日々だ。
だが、一つだけ、誰にも言えない秘密がある。
あの日以来、私の身体感覚が、少しだけズレてしまったのだ。
例えば、鏡を見る時。
瞳の奥に、小さく揺らめくオレンジ色の点が見えることがある。
それは決して消えない残像のように、網膜に焼き付いている。あの真円の炎だ。
そして、匂い。
雨が降る前の湿った空気の中に、ふと、あの古い寺の埃と獣の臭いを感じることがある。そのたびに、胸の奥がざわつき、得体の知れない渇きを覚える。
そして今夜。
私は自宅のアパートで、一人酒を飲んでいた。妻は実家に帰っており、部屋には私だけだ。
静かな夜だ。
ふと、階下から微かな物音が聞こえた。
下には、若い大学生のカップルが住んでいる。
話し声ではない。何かを怯えているような、息を殺した気配。
私は立ち上がり、冷蔵庫へ向かおうとした。
その時、自分の足音に気づいた。
ギシッ。
古いフローリングが鳴る音。
だが、それは私の知っている床の音ではなかった。
もっと重く、粘り気のある、湿った木材が擦れ合う音。
そして、足の裏の感覚。
フローリングの硬さではなく、薄い板一枚を隔てて、その下の空間を踏みしめているような、不安定な浮遊感。
ギシッ、ギシッ。
私は歩く。
無意識のうちに、部屋の中央を円を描くように。
なぜだか分からない。そうしなければならないという衝動が、身体の奥底から湧き上がってくる。
円を狭めていく。
中心へ。中心へ。
階下から、悲鳴のような声が微かに聞こえた。
「ねえ、上の人、また歩いてる」
「静かにしろ、気づかれるぞ」
その言葉を聞いた瞬間、私の世界が反転した。
記憶の蓋が吹き飛んだ。
あの日、あの寺の八畳間で。
私たちが恐怖し、見上げていた「天井の裏」。
そこで私たちを見下ろしていたのは、誰だったのか。
私は床に這いつくばった。
フローリングの継ぎ目に目を押し付ける。
そこには、小さな節穴があった。
私はその穴を通して、階下の部屋を覗き込んだ。
明かりの消えた部屋。蝋燭のような頼りない光。
その周りに車座になり、恐怖に震えながら天井を見上げている、若い男女の姿。
ああ、そうだ。
彼らの顔は、十年前の私たちにそっくりだ。
恐怖に歪み、互いに身を寄せ合い、理不尽な怪異の到来に怯えている。
その姿がいじらしくて、愛おしくて、たまらない。
胸の奥で、あの獣の臭いが爆発的に膨れ上がる。
私は裂けたような笑みを浮かべ、節穴に唇を寄せた。
そして、かつて「彼」がそうしたように、あの言葉を囁こうとした。
「……二階なんて、ないんだよ」
私の声は、喉ではなく、床板の軋みとなって響いた。
ギシッ、ミシッ。
その音を聞いて、階下の彼らが一斉に悲鳴を上げる。
その恐怖の波動が、床板を通して私の足の裏に伝わってくる。
心地よい振動。
私は、自分が何者になってしまったのかを、ようやく理解した。
私は逃げ出したのではなかった。
あの日、あの天井板を踏み抜こうとした瞬間に、私は「あちら側」に取り込まれ、そして今、新たな怪異として「上」を歩き続けているのだ。
私の瞳の中で、真円の炎が嬉しそうに燃え上がった。
(了)
[出典:16 :駄文その1 :03/07/15 11:10]