俺が子供の頃、祖父の家には一匹の犬が居ついていた。
名前はコロ。柴犬の血が混じっているらしく、けれど野良犬にしては不自然なほど真っ白で、陽の光を浴びるとまるで毛皮ごと発光しているみたいに見えた。触れるとふわりと柔らかいのに、どこか冷たい、そんな奇妙な手触りを覚えている。
祖父の家にコロがいたのは、今思えばどう考えても不思議なことだった。もともとコロは町の野良犬の王みたいな存在で、奴のあとを五匹から九匹、時には十五匹もの犬が列をなしてついて回っていたのを俺も何度か見た。誰もが畏れて近寄らない大ボスだったのに、どういう巡り合わせか祖父の家に入り浸るようになったのだ。
祖父から聞いた話では、ある朝のことだったらしい。教師をしていた祖父がいつもの駅で電車を待っていたら、取り巻きも連れず、コロがただ一匹、ホームの片隅に座っていた。あの犬は有名人みたいなものだから、すぐにわかったという。縄張りから外れたこんな場所にいるのは変だと思って声をかけると、コロはじっと祖父を見つめてから「クゥ〜ン」と甘えるように鳴いたという。普段の荒々しいイメージとは違う姿だったらしい。
そのまま仕事に行き、帰ってきてもまだコロは駅にいた。そしてなぜだか祖父はその時、唐突に「この犬はうちの娘に会いたがっている」と確信したらしい。理屈ではなく、胸の奥に言葉にならない声が響いたという。祖父が高校生だった母を連れて駅へ行くと、コロは彼女を見るなり飛びついてじゃれた。そして母が「家に来る?」と声をかけると、まるで理解したかのように「ワン!」と吠え、そのまま祖父の家に居着いたのだ。
翌日には、どこからか呼び集めた野良犬軍団が庭にずらりと整列したという。庭は騒然としたが、不思議なことに誰一匹として家の中に足を踏み入れることはなかった。コロが飯を食べて部屋に上がっても、ほかの犬は庭の外でじっと待つだけだった。まるで見えない境界線が敷かれているように、決して越えなかったらしい。犬に統率なんてあるものかと思っていた俺は、子供ながらにその光景を見て背筋が粟立った。
半年ほどそんな奇妙な生活が続いたある夜、庭から犬たちの鳴き声が途切れず聞こえてきた。遠吠え、唸り声、怯えたような悲鳴……。祖父母も母も眠れなかったと後に言っていた。翌朝、庭にはコロ一匹しか残っておらず、他の犬は影も形もなく消えていた。翌日には別の犬が群れを率いて街を歩いていたから、ボスの座を明け渡したのだろう。けれども、あの夜の鳴き声がただの縄張り争いだったとは、俺には思えない。
祖父はコロのために首輪を買ってきたが、不思議なことが起こった。昼間は着けていても、夜になると必ず外れていた。何度も着け直しても同じ。けれど母が自分の手で首輪を着けたときだけ、コロはそれを二度と外そうとしなかった。その日から、首輪は彼女の手で閉じられるものになった。俺は幼いながらに、それがまるで契約のように見えた。
俺が生まれてからも、コロはずっと側にいた。乱暴に耳を引っ張ったり、背中に乗ったりしても怒らない優しい犬だった。けれどひとつだけ、首輪に触れようとすると途端に牙を剥いた。あれほど大人しいのに、首輪だけは触らせない。子供ながらに、それが禁忌なのだと悟った。あの首輪には、俺には理解できないなにかが宿っているように思えた。
やがて小学校二年の頃、コロは二十年近い生涯を終えようとしていた。動けなくなり、呼吸も荒い。家族みんなで囲み、泣きながら別れを告げた。俺の頭を見上げるあの澄んだ瞳を、今も夢に見る。死というものを初めて意識したのも、その時だった。
その夜、母が突然「玄関を開けておきたい」と言った。不思議と誰もが同じ考えを抱いていた。祖父も祖母も、俺も幼い妹までも。誰もが「コロが玄関を開けてほしがっている」と感じていた。だから戸を開け放ったまま眠った。朝になると、動けないはずのコロの姿はなく、食器の上には首輪だけが静かに置かれていた。
それから二日後、俺は夢を見た。コロが現れて、俺の顔を舐め、ゆっくりと背を向けて歩いていった。手を振ると、一度だけ振り返り、光の中に溶けるように消えた。母も妹も同じ夢を見たと後に言った。祖父は「夢なんか見ない」と笑ったけれど、あの人の目にも涙が浮かんでいたから、きっと見ていたに違いない。
目覚めた時、俺は理解した。あの首輪は、ただの革紐なんかじゃない。母の手で結ばれた瞬間、コロと俺たちの家は、何か見えない世界と契約を交わしたのだ。だからこそ、あの犬は人間の言葉を理解し、寿命を超えて生き、最後には自分の意志で旅立っていった。俺たちはただ、その奇妙な約束を見届けただけだったのだ。
そして今でも、祖父の家の玄関を開け放つと、夜風に混じって白い毛並みがふわりと視界の端を掠めることがある。振り向いても、そこには誰もいない。ただ、胸の奥で確かに聞こえるのだ。「ワン」と短く、懐かしい声が。
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