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短編 怪談 n+2026

百円コーナー nc+

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今でも、紙の匂いを嗅ぐと喉の奥がひやりとする。

インクと埃が混ざった、古本屋特有の匂いだ。夕方の散歩で、私はその店の軒先に立った。西日がガラスに反射し、棚の背表紙が鈍く光っていた。
十年ほど前、私は同人と商業を行き来する、売れない少女漫画家だった。編集部からの電話は次第に減り、原稿用紙の白さが部屋に溜まっていく。冬でもないのに指先が冷たく、ペンが紙に吸いつく感じだけが妙に生々しかった。

初めてのコミックスが出たとき、私は舞い上がっていた。刷りたての本はまだ温かく、表紙のコート紙が指に滑った。嬉しさを分け合いたくて、当時の同人仲間や友人に配って回った。相方にも渡した。
その相方は、いつも私より一歩後ろに立ち、ネームを覗き込む癖があった。鉛筆の先を噛み、ページの端を爪で叩く。無言の時間が長く、励ましの言葉は控えめだった。

数年が過ぎ、没の連絡が続いた。電話の向こうで編集が息を整える音が聞こえると、胸の内側が縮む。散歩はその逃げ道だった。住宅街の角にある古本屋は、店内の蛍光灯が少し暗く、床が軋む。
百円コーナーに、私の本が三冊並んでいた。背表紙の色を見ただけでわかる。笑って受け止めるしかない、と自分に言い聞かせ、惰性で一冊を手に取った。

表紙をめくり、数ページ眺め、何気なく裏を返した瞬間、体の奥が冷えた。カバーで隠れるはずの部分、表三の白い余白に、鉛筆の文字があった。住所と携帯番号。実家の住所と電話番号まで。
鉛筆の線は薄く、しかし迷いがない。数字の間隔、漢字の崩し方。見覚えがありすぎた。喉が鳴り、店内の音が遠のいた。

 震える指で、残りの二冊を確かめた。

どれも同じ場所に、同じ筆圧で、同じ情報が書かれている。消しゴムの跡はない。書いて、そのまま。
店の外に出ると、夕方の風が生暖かかった。頭の中で、相方の声が再生される。「諦めちゃダメだよ。好きだから一緒にやってるんだよ?」数日前、そう言っていた。

念のため、思いつく限りの古本屋を回った。駅前、商店街、路地裏。十四冊見つかった。どれも、同じ鉛筆の匂いがした。紙に染みた黒鉛の、乾いた匂い。
相方を呼び出した。喫茶店のテーブルは小さく、砂糖の袋が湿っていた。問い詰めると、彼女は視線を落とし、淡々と話した。

古本屋で私の本を見るたびに、店員に見つからないように書いたこと。何冊書いたかは覚えていないこと。書いたと白状した店に、本がもう並んでいないところがあること。
声は平坦で、罪悪感の起伏がない。私は謝った。配慮が足りなかった、と。彼女は小さく頷いた。羨ましかった、とだけ言った。

その夜、家に帰ると電話が鳴る気がして、受話器を外して眠った。携帯番号はすぐに変えたが、実家の住所は変えられない。郵便受けの音に、心臓が跳ねた。
半年ほど、落ち着かない日々が続いた。商業も同人も、糸が切れたように辞めた。紙の匂いから距離を置いた。

 年月が経ち、別の友人の結婚式で、彼女と再会した。

白い会場、花の匂い、乾杯の音。彼女はあまりにも普通に、同人時代の思い出話をした。「あの頃は楽しかったよね」と。
私は相槌を打ちながら、彼女の指先を見ていた。爪の形、癖。鉛筆を持つときと同じ角度で、グラスを持っている。

帰り道、駅前の古本屋の前を通った。閉店して久しい店だ。シャッターに貼られた紙が風で揺れ、カサ、と音を立てた。
その音で、ようやく気づいた。彼女は私の情報を広めたかったのではない。誰かに見つけてほしかったのでもない。ただ、書く行為を続けたかったのだ。私の名前と数字を、鉛筆で。

家に帰り、引き出しの奥から古い原稿を取り出した。裏を見ると、鉛筆の薄い線が残っている。私の字だ。住所ではない。けれど、同じ迷いのなさ。
あのとき古本屋で凍りついたのは、相方の文字を見たからではなかった。紙の上に、書くことをやめたはずの自分の執念を、見てしまったからだ。

今も、紙の匂いを嗅ぐと喉が冷える。けれど、鉛筆を握る指の角度だけは、忘れていない。

(了)

[出典:124 :怖い 1/2:2013/11/05(火) 15:44:33.69 ID:Voa6MiDW0]

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