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短編 ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

ミルクのにおいがする r+7,405

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上京して、ちょうど一年が経とうとしていた。

バンドで食っていこうなんて、今になれば正気の沙汰じゃなかったと思うけど、その頃は本気で「音楽で生きていく」つもりだった。
金はなかった。だから四畳半のボロアパート、家賃三万円、駅から徒歩十五分、風呂なし共同トイレ。選ぶ余地なんてなかった。

寝苦しい夜が増え始めたのは、春が終わる頃だった。
最初は暑さのせいかと思ったけど、なんか違う。眠ろうと目を閉じた瞬間、視線を感じるんだ。
はっきりとは見えないけど、玄関の小さな郵便受けの隙間から、何かがこっちを覗いている気がした。
もっと言えば、台所の小さな擦りガラス越しにも、なにかの気配が立っていた。
夢かと思った。夜に寝落ちして、浅い眠りの中で見る幻覚。……そう信じていたいと思った。

けれど、その“夢”は毎晩、決まって午前二時を過ぎたあたりで始まる。
郵便受けの金属が「カチャ……」とわずかに鳴る音。気のせいにしては、あまりに規則的だった。
それでも、疲れて眠ってしまえば朝が来るから、あまり気にしないようにしていた。
そんな矢先だった。俺が中古で軽自動車を買ったのは。

バンドの機材を運ぶため、というより、移動時間を短縮して日雇いの仕事を掛け持ちするためだった。
安物で、走るとエンジンが唸るようなボロ車だったけど、アパートの前にぎりぎり停められるスペースがあったから、そこを定位置にした。
あれがよくなかったのかもしれない。

その日の夜、妙に蒸し暑くて寝つけずにいると、
「ガッシャーン!」
外で派手な音が響いた。

心臓が跳ねた。反射的に飛び起きて、窓から覗くと、自分の車のフロントガラスが砕け散っていた。
慌てて外に出ると、ボンネットと助手席のサイドガラスまで割れている。
そして、車内は――白濁とした液体でぐっしょり濡れていた。においでわかった。牛乳だった。

混乱しながら携帯で警察を呼んだ。来てくれた警官は、若くて真面目そうな顔つきの男だった。
指紋は出ず、目撃者もいない。事情を訊かれながら、あの“視線”のこともついでに話した。
「部屋の中から、誰かに覗かれてるような気がするんです……毎晩、です」
そのときの警官の顔が、わずかに曇ったのを覚えている。

現場検証が終わって、ようやく部屋に戻ると、目を疑った。
天井から壁、床に至るまで、牛乳。白いしずくが壁紙を這って、布団がぐっしょり濡れていた。
唖然としたまま、再び警察に電話。さっきの警官がまた来て、さらに事情徴収が続いた。

「交友関係で、誰か思い当たる人はいませんか」
「恨みを買った覚えは?」
いろんなことを訊かれたが、正直に答えた。
「打ち上げで一度だけ、酔った勢いで寝た子がいたんです……でも、もう連絡もしてないし」
そんなふうに言いながらも、なぜか心のどこかに、その子の顔が浮かんできていた。

「パトロールは増やしておきますから」
警官にそう言われ、少し安心して、ぐしゃぐしゃの布団と衣類を玄関先に出して掃除を始めた。
夜中には寝る準備ができた。部屋の中は蒸し暑かったが、やっと横になれるだけの状態になった。

夜中の三時前、
「ドンドンッ!」
玄関が激しく叩かれた。心臓が飛び出るかと思った。

扉を開けると、またあの警官だった。
「この子に、見覚えありますか?」
隣には、痩せた女がひとり。顔は脂ぎっていて、目の焦点がどこにも合っていなかった。

「……いえ、知らないです」
俺がそう答えた瞬間、その女が奇声を上げて飛びかかってこようとした。
牙を剥き、唾を飛ばしながら、まるで獣だった。警官がすかさず押さえ込み、叫ぶ女をパトカーへ連れていった。

後から聞かされた。
警官が夜間の見回りをしていたとき、女が俺の玄関前に積んだ布団に、ライターで火をつけようとしていたのを見つけたらしい。
火はつかなかったが、布団は黒く焦げていた。

あの女――名前は言わなかったが、俺が一度だけ抱いたことのある、ライブのファンだった。
酔っていたし、名前もよく覚えていなかった。
それを彼女が、ずっと恨みに思っていたらしい。
その後、俺が他の女と歩いている姿を偶然見てから、頭の中で何かが壊れていったんだと。

「部屋を覗いていたのも、多分あの女でしょう」
警官が静かに言った。
被害届は出さなかった。出したところで、何かが解決する気がしなかった。

女はしばらくして精神科病棟に移されたと聞いたが、その後どうなったかは知らない。
今でも、たまに牛乳のにおいが鼻にまとわりつくことがある。何もない部屋で、あの腐った甘さがふっと漂うと、頭が真っ白になる。

幽霊より、人間のほうが、よほど怖い。
狂っているのは、むしろ向こう側じゃなくて、こちら側かもしれない。
だって、彼女の顔すらもう思い出せないんだから。

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