上京して一年が経つ頃、俺は四畳半のアパートで息をひそめて暮らしていた。
音楽で食っていく。そう言い切れるほど若かったが、現実は日雇いとライブハウスの往復だ。家賃三万円、風呂なし共同トイレ。玄関には外とつながる細い郵便受け、台所には曇った擦りガラス。外気と生活が、薄い板一枚でつながっている部屋だった。
春が終わる頃から、眠りが浅くなった。目を閉じた瞬間、誰かがこちらを見ている気がする。郵便受けの闇の向こうに、目がある。擦りガラスの白濁の奥に、立っているものがある。確かめようとすると、ただの夜に戻る。それが毎晩、午前二時を過ぎたあたりで始まった。
決まって、郵便受けがわずかに鳴る。「カチャ……」と金属が擦れる音。風だと思い込もうとしたが、音は規則正しかった。
その頃、中古の軽を買った。機材運びと日雇いの移動を兼ねて、アパート前のわずかな空きに押し込んだ。白いボディの、くたびれた車だった。
数日後の夜、外で破裂音がした。窓から覗くと、フロントガラスが粉々に砕けている。慌てて外へ出ると、ボンネットも側面も割られ、車内は白い液体で満たされていた。甘い匂いが立ちのぼる。牛乳だった。
警察を呼んだ。若い巡査が来て、淡々と写真を撮り、質問を重ねた。俺はつい口を滑らせた。「部屋を覗かれている気がするんです。毎晩です。」巡査は一瞬だけ視線を上げ、すぐに手元のメモに戻した。
検証が終わり、部屋に戻ったとき、足が止まった。天井から壁、畳まで、白い飛沫が垂れている。布団は重く、甘い匂いを吸い込んでいた。窓は閉まっている。郵便受けも、擦りガラスも無傷だった。
再び巡査が来て、室内を見回した。「交友関係で心当たりは。」俺は曖昧に笑い、一度だけ寝たファンの話をした。名前も、顔も、はっきり思い出せなかった。
「パトロールを増やします。」そう言い残して巡査は去った。
布団を玄関先に積み、床を拭き、夜中近くにようやく横になった。甘い匂いは薄れない。
午前三時前、玄関が叩かれた。扉を開けると、巡査が立っている。隣に、痩せた女。焦点の合わない目でこちらを見ていた。
「この人に見覚えは。」
「ありません。」
その瞬間、女が跳ねた。喉の奥から濁った声をあげ、俺に手を伸ばす。巡査が押さえ込み、女は地面に転がされた。玄関先の布団の焦げ跡が、闇に浮かんでいた。女はライターを握っていたという。
後日、巡査は言った。「あなたの部屋を見張っていたのは、この人でしょう。」
女は精神科病棟に移されたらしい。それ以上のことは聞かなかった。
部屋は元に戻った。郵便受けも、擦りガラスも、ただの建具だ。車は処分した。牛乳の匂いも、やがて消えた。
それでも、午前二時を過ぎると目が覚める。郵便受けが鳴る前に、俺は耳を澄ます。擦りガラスの向こうに、立っている気配がある。
巡査の顔は思い出せる。割れたガラスの感触も、甘い匂いも思い出せる。
だが、あの女の顔だけが、どうしても浮かばない。
最初から、そこに立っていたのは、誰だったのか。
(了)