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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

最後尾 rw+9,687-0211

更新日:

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職場の同僚から聞いた話だ。

彼が幼い頃、県営住宅の七階に住んでいた。

同じ棟には同年代の子どもが多く、放課後はいつも五、六人で集まって遊んでいた。エントランスや共用廊下は絶好のコースだった。RCカーやミニ四駆を走らせ、タイヤの音を響かせる。それが日常だった。

ただ一つ、守らなければならない決まりがあった。

七階の端、東条という表札の前では遊ばないこと。通るときも走らず、声を出さないこと。

理由は誰も説明しなかった。親も、上の階の住人も、ただそう言うだけだった。

それでも子どもたちにとって、その場所は格好の標的になった。扉の前で騒ぐと、すぐに中から女が出てくる。無表情のまま、足音も立てずに追いかけてくる。怒鳴りもしない。ただ追ってくる。

逃げ切れば勝ちだった。

ある日、ガキ大将が言い出した。

「今日は扉の前で走らせようぜ」

皆が笑った。彼だけが笑えなかった。だが、輪から外れる勇気はなかった。

RCカーは甲高い音を立てて廊下を走った。東条の扉の前を通過する。

次の瞬間、扉が開いた。

音はしなかった。

仲間は一斉に逃げ出した。彼は最後尾だった。前の子がRCカーを拾い上げるのにもたつき、流れが止まった。

振り向いたとき、女はすぐ後ろにいた。

腕を掴まれる。

「捕まえた」

感情のない声だった。

その手には包丁があった。

抵抗できなかった。引きずられるように室内へ入る。扉が閉まる音が、廊下よりも遠くに聞こえた。

通されたのは仏間のような部屋だった。窓はあったはずなのに、光が入らない。積み上げられた布団が壁のように囲み、空気が重い。外の音が一切しなかった。

泣き続けた。

やがて女は握り飯を差し出した。

「食え」

白い塊は、何の匂いもしなかった。口に入れても味がなかった。飲み込めず、畳の上に置いた。

時間が伸びた。

眠ったのか、気を失ったのか、分からない。目を開けても同じ暗さだった。女はときどき現れ、何も言わずにこちらを見るだけだった。包丁は、いつも見える位置にあった。

玄関で声がした気がした。母の声に似ていた。だが、扉は開かなかった。

代わりに、奥から別の声がした。

「もう帰してあげようよ」

若い女の声だった。

東条はしばらく動かなかった。それから、彼の腕を引き、立たせた。

次に覚えているのは、部屋に警察官が立っている光景だった。母が泣いていた。

何日経っていたのか、誰もはっきり言わなかった。学校に戻ると、授業は進んでいた。保健室で話をする時間が増えた。

彼は成長し、いまはその話を淡々と語る。

だが、母に触れると、表情が変わるという。

あの部屋に、何があったのか。

なぜ包丁を持っていたのか。

なぜ扉は、すぐには開かなかったのか。

そして何より、なぜ彼だけが捕まったのか。

彼は理由を知らない。

だが七階の廊下を通る夢を、いまも見るという。

東条の扉の前で、RCカーが止まっている。

その向こう側から、こちらを見ているのは誰なのか。

それが東条なのか、自分なのか、分からないまま、扉がゆっくり開く。

今度は、逃げる順番が決まっていない。

(了)

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