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中編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

先にいたもの rw+2,090-0422

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これは、私が実際に体験したことだ。

何年たっても、あれを夢だったと言い切れない。目が覚めたあとに薄れていく種類の悪夢ではなく、目を覚ましてからのほうが輪郭を持ちはじめた記憶だった。忘れたつもりの時期もあったが、消えたのではない。ただ、触れないようにしていただけだったのだと思う。

数年前、私は就職先が決まり、会社の近くで部屋を探していた。だが、東京で新卒の給料に見合う住まいなど、そう簡単には見つからない。狭い、遠い、高い。そのどれかで、三つとも外れの物件ばかりだった。

困り果てていたとき、勤め先になる食品会社の社長が言った。

「古い寮があるんだ。今は使ってないが、取り壊すまでなら自由に使っていい」

ありがたい話だった。礼を言い、私は二つ返事で承諾した。多少古くても、寝る場所さえあればよかった。むしろ家賃が浮くなら助かる。地方から出てきたばかりの私には、それだけで十分な好条件だった。

その建物を初めて見たとき、胸の奥にざらりとしたものが走った。

広い敷地の端、草の伸びきった一角に、三階建ての古いコンクリート造が建っていた。もとは病院の看護婦寮だったと聞いていたが、確かにそう言われればそれらしくも見える。細長い窓が並び、外壁は煤け、ところどころに細い亀裂が走っている。晴れた昼間なのに、建物の周囲だけ光が鈍かった。

玄関を開けると、ひやりと湿った空気が流れてきた。雨上がりの土のような匂いに、古い消毒液の残り香が混じっている。廊下は静まり返っていて、自分の足音だけがやけに遠くまで響いた。人気のない建物には慣れていないはずなのに、そのときの私は、それを不気味だと思うより先に、ひとりでこの広さを使えることに妙な解放感を覚えていた。

案内されたのは二階の角部屋だった。畳敷きの、広くも狭くもない部屋で、荷物の少ない私には十分すぎた。窓の外には敷地の裏手が見え、植え込みの向こうに低い塀、その先に細い道路が一本通っているだけだった。誰も通らない。見晴らしがいいとも言えないが、落ち着いた場所だと思った。

その晩、布団を敷いて電気を消し、横になった。疲れていたはずなのに、なかなか眠れなかった。建物が古いせいか、耳を澄ますとどこかで小さく軋む音がする。配管か、風か、そういうものだろうと思い直し、目を閉じた。

しばらくして、耳の奥で高い音が鳴りはじめた。

ジ、とも、キィン、ともつかない細い音だった。時計の秒針のように規則正しいわけでもなく、虫の羽音のように生き物めいているわけでもない。ただ、ずっと近くで鳴っている。片耳を枕に押しつけても消えない。反対を向いても、やはり消えない。

そのうち、胸のあたりが重くなった。

最初は、寝苦しさで呼吸が浅くなっているだけだと思った。だが重みは少しずつ増し、肺の上に何か置かれているような圧迫感に変わった。息を吸うたび、胸の内側からきしむような痛みが走る。起き上がろうとしても体が動かない。首も、肩も、腕も、指さえ言うことをきかなかった。

これが金縛りか、とそのとき初めて思った。

怖いというより、まず腹が立った。こんな古い建物で寝たせいで、変に神経が高ぶっているのだろう。そう思ってやり過ごそうとしたが、耳鳴りは消えず、胸の重みも去らない。しかも、部屋のどこかに誰かがいるような気配があった。目を開ければ済む。そうわかっているのに、なぜかそれだけはしてはいけない気がした。

気づくと朝だった。

目覚めた瞬間、昨夜の圧迫感は嘘のように消えていたが、全身が鉛のように重かった。寝不足のまま支度をして外へ出ると、昼間の光の下ではあの寮もただの古い建物に見えた。笑い話にできる気もした。

その日の午後、引っ越しを手伝いに来るはずだった友人二人が事故に遭ったと連絡が入った。大事故ではなかったが、ふたりとも病院に運ばれ、当分は安静だという。

偶然だと思った。そう思おうとした。

夜、仕事を終えて寮に戻る道すがら、私はずっとそのことばかり考えていた。あの建物に入った初日に、手伝いに来るはずの人間だけが来られなくなる。別に出来すぎた話でもない。世の中にはそういう偶然がある。だが、言い聞かせるたびに、逆に何かが引っかかる。

部屋に入ると、空気が昼間より重かった。窓は閉めたまま、出たときと何も変わっていない。なのに、誰かが先に入って、そこでじっと息を潜めていたような感じがあった。

その夜も、同じことが起きた。

耳鳴り。胸の圧迫。動かない体。

違っていたのは、気配が前よりはっきりしていたことだ。

布団のすぐ脇に、誰かが立っている。

見えているわけではない。目は閉じたままだったし、開ける気にもなれなかった。だが、立っているのがわかった。人が無言でこちらを見下ろしているときの、あの顔の位置だけがわかるような感覚があった。しかも、それは一晩だけでは終わらなかった。

夜になるたび、何かが近くなる。

最初は部屋の隅だった気配が、次の晩には布団の脇に来て、その次には枕元に移っていた。私は昼間のうちに部屋をなるべく明るくし、窓も開け、テレビまで持ち込んだ。だが夜になると、灯りを消した瞬間、空気が同じ重さに戻る。耳鳴りが始まり、胸が塞がれ、目を開けてはいけないという確信だけが濃くなる。

眠れない夜が続くうち、私は自分の頭がおかしくなっているのではないかと思い始めた。環境の変化と緊張で、自律神経でもやられているのかもしれない。そう考えれば、むしろ安心できた。原因が自分の中にあるなら、建物のせいではないからだ。

四日目の夜だったと思う。

その晩は、胸の重みが最初から異様に強かった。息が浅くなり、喉の奥でひゅうひゅう音が鳴る。耳鳴りもこれまででいちばん高く、細く、鋭かった。頭蓋の中を針で撫でられているような嫌な音だった。

もう限界だと思った。見てしまったほうが早い。そう覚悟して、私はゆっくり目を開けた。

目の前に、髪が垂れていた。

女だとわかったのは、その髪の向こうに肩の線が見えたからだ。長い黒髪が顔をすべて隠し、白っぽい着物のようなものが胸元まで見えている。距離が近すぎた。いや、近いどころではなかった。彼女は私の胸の上にいた。

正座していた。

重いはずだった。重みの正体を見た瞬間、呼吸がさらに浅くなった。女はうつむいたまま動かない。髪の隙間から顔は見えない。ただ、見られているという感覚だけが強くなる。私は叫ぼうとしたが、喉がつぶれたように声が出なかった。

そのとき、部屋の天井近くで、何かが揺れた。

女の向こう、薄暗い隅に、もうひとつ影があった。人の形をしているのに、足が床についていない。ぶら下がっているのでもない。そこにいる、としか言いようがない浮き方だった。

髪の薄い、細い顔の、年を取った女だった。

口だけが動いていた。

何か言っている。けれど声は聞こえない。耳鳴りのせいではない。最初から音としてこちらへ届いていないような、無音の口の動きだった。それでも私は、なぜかその言葉だけは聞き取れそうな気がした。聞き取ってしまったら終わる。そう思って、私は目をそらそうとしたが、それもできなかった。

胸の上の女が、ほんの少しだけ顔を上げた。

髪が揺れた。

その下に何があるのか見える前に、意識が途切れた。

朝、目が覚めると、シャツの胸元が汗で湿っていた。夢だったと言い切りたくて、私はすぐに起き上がろうとしたが、胸に鈍い痛みが走った。鏡で見ると、左胸のあたりに、青黒い痣が四つ並んでいた。押されたようにも、つかまれたようにも見えた。

私はその日、会社へ行く前に管理を任されていた年配の社員にそれとなく聞いてみた。

この寮は、いつまで使われていたのか。
なぜ取り壊すことになったのか。
事故や事件はなかったのか。

男は最初、面倒そうな顔で相槌を打っていたが、角部屋にいると答えた瞬間だけ、表情が変わった。ほんの一秒にも満たない変化だったが、見間違いではなかった。私が重ねて理由を聞くと、男はすぐに煙草へ火をつけて、視線をそらした。

「古い建物だからな。誰も入りたがらないだけだ」

言い方が妙だった。誰も住まない、ではなく、誰も入りたがらない。

その日の昼、私はひとりで寮へ戻った。夜にはもう戻れない気がしていた。荷物をまとめるつもりだったが、その前にどうしても確かめたいことがあった。

角部屋だけ、妙に整いすぎていたのだ。

廊下も他の部屋も古びているのに、そこだけ壁紙の白さが不自然で、畳もまだ新しかった。最初は気にしなかったが、今思えば、古い建物の中でそこだけ時間の流れが違っていた。

部屋の中央にしゃがみ込み、私は畳の縁に指をかけた。

自分でも、なぜそんなことをしたのかわからない。見たくなかった。だが、見なければいけない気もした。ほんの少し持ち上げると、下の板に、そこだけ円を描くような拭き跡が浮いていた。何度も何度も、同じ場所だけを拭いたような跡だった。

その中心に、黒ずんだ染みがあった。

大きくはない。手のひらより少し小さいくらいだ。古い木目にしみ込んで、表面をこすっても消えなかったもののように見えた。鼻を近づけると、湿ってもいないのに鉄のような匂いがした。

そのとき、背後で、畳が鳴った。

ひとりでいるはずの部屋の中で、すぐ後ろの畳が、重みを受けたように少し沈んだ。

私は反射的に振り向こうとした。だが、振り向いてはいけないと強く思った。夜と同じだった。見たら終わる。その感覚だけが一気に蘇り、私は畳を元に戻すこともできないまま立ち上がった。立ち上がったはずなのに、目線の高さがうまく定まらず、足元がわずかに沈んでいる気がした。部屋の真ん中に、もうひとり分の重みがある。

私は荷物のほとんどを置いたまま、その建物を飛び出した。

それきり、戻っていない。

会社にも行かなかった。数日後に辞退の連絡を入れた。先方は意外なほどあっさり受け入れ、理由も深くは聞かなかった。そのことが、かえって気味悪かった。

あの寮について、その後あえて調べたことはない。新聞も、登記も、昔の地図も見ていない。もし何か見つかったとしても、それで安心できる気がしなかったからだ。誰がそこで何をしたのか、何があったのか。そんなことがわかったところで、あの夜の重みは説明できないし、説明できたとしても消えはしない。

ただ、一つだけ、何年もたってから気づいたことがある。

私はあの部屋を思い出すとき、いつも「女がいた」と考えていた。胸の上の女と、天井近くの年老いた女。その二人を見たのだと、そう記憶していた。

だが、何度思い返しても、どうしても辻褄の合わない瞬間がある。

畳をめくった昼のことだ。

私は確かに、背後で畳が沈む音を聞いた。あの部屋には私しかいなかった。振り向いていないのだから、誰がいたのかは見ていない。なのに、あのとき私が咄嗟に思ったのは、「後ろに立たれた」ではなかった。

《また胸に乗られる》だった。

立っているのではない。
入ってきたのでもない。
最初から、そこにいたものがいる。

そう考えると、夜に見た二人のどちらが何だったのか、今ではわからない。胸の上にいたのがあれだったのか。天井近くにいたものが、近づいてきていたのか。あるいは、私が見ていた場所そのものが間違っていたのか。

書いている今も、左胸の古い痣のあたりが、ときどき鈍く痛むことがある。気のせいだと思う日もある。だが、雨の前や、夜更けにふと目が覚めたとき、その痛みは決まって重さを伴う。

まぶたを開けるかどうか迷う程度の、わずかな重さだ。

だから、私はたぶん本当には忘れていない。

忘れていないというより、あちらがまだ、離したつもりになっていないのだと思う。

(了)

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