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胸に座る女 r+1,724-1,894

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これは、私自身が経験したことだ。

いまだに夢か現か曖昧な感触のまま、脳裏に焼き付いて離れない出来事である。長く封じていた記憶を、今こうして言葉に変えるのは、きっと自分の心を宥めるためでもあるのだろう。


数年前のこと。私は就職が決まり、会社の近くに住まいを探していた。だが、東京の地価は容赦がない。まともな部屋はどれも給料に見合わず、安い物件は狭すぎるか、通勤に不便だった。途方に暮れていたとき、勤め先となる食品会社の社長がこう言ったのだ。

「うちの持ってる古い寮があるんだ。もともと病院の看護婦が使ってた建物なんだが、取り壊す予定でね。しばらくの間なら自由に使っていい」

その言葉に救われる思いがした。金も節約できるし、広さもあるらしい。古びた建物だろうが、屋根と壁さえあれば十分だと、私はすぐさま承諾した。

初めてその寮を訪れたとき、胸の奥でざらついたものが蠢いた。広大な敷地の片隅、雑草に埋もれるようにして三階建てのコンクリート造が立っている。壁は煤け、窓は曇りガラスのように白く濁り、ひび割れが蜘蛛の巣のように広がっていた。廊下に足を踏み入れると、湿った土の匂いと古い消毒液の残り香が鼻を刺す。音が消えたように静まり返っていて、わずかな自分の足音さえ異様に響く。

不気味さを覚えたが、ひとりで広い空間を使えるという解放感がそれを打ち消した。誰に気を遣うこともなく、大声で歌うことだってできる。そう考えると、むしろ快適に思えた。

しかし、その夜。床に布団を敷き、灯りを消して横になった途端、耳の奥で高い金属音のような耳鳴りが始まった。ジジジ……と規則正しい音。疲れているせいだと自分に言い聞かせ、目を閉じた。だが、次の瞬間、胸の上に鉛の塊でも乗せられたような重みを感じた。息が苦しく、喉が狭まり、声が出ない。全身を動かそうとしても、指一本すら動かない。金縛りというものを初めて体験したのだと、そのときは思った。

翌朝、体は鉛のように重かったが、仕事の準備で気を紛らわせた。引っ越しの手伝いに来るはずだった友人たちが、その夜、交通事故に遭ったという知らせを受けたのは、その日の午後だった。命に別状はなかったが、入院が必要で、結局引っ越しは一人で済ませるしかなかった。

夜になると、再び寮に戻る。あの耳鳴りと重苦しい圧迫感が待っているのではないかと考えると、足取りは自然と鈍った。案の定、布団に入るとすぐに胸の重みが襲ってきた。暗闇の中で何者かの視線が刺さる。見られている。背筋が粟立ち、心臓が異常な速さで打ち始めた。だが、目を開ける勇気はなかった。

数日が過ぎても状況は変わらなかった。むしろ、日ごとに圧迫感は強まり、夜になるのが恐ろしくなった。体が疲弊し、幻覚でも見ているのではないかと思い始めた頃だ。ついに、その正体をはっきりと目にしてしまった。

夜半、また胸の上に重みを感じ、恐怖とともに目を開いた。そこにいたのは、長い髪で顔の見えない女。私の胸の上に正座し、じっと俯いている。心臓が裂けるかと思うほど早鐘を打ち、呼吸が止まる。さらに、視線を逸らすまいと凝視していると、天井の隅にもうひとつの影があった。浮かんでいる老婆の姿だ。しわだらけの顔がこちらを睨み、口を開いて何かを呟いていた。だが、言葉は音にならず、唇の動きだけが不気味に揺れている。

「やめろ……やめてくれ」

声にならない叫びを心の中で繰り返した瞬間、意識がぷつりと途切れた。目を覚ましたときは朝で、胸の痛みと共に、皮膚に四本の青黒い指の跡が残されていた。夢ではなかった。

恐怖に駆られた私は、昼間のうちに建物を探った。寮の角部屋だけ、異様に新しい雰囲気を放っていた。壁紙は白く清潔で、畳も他の部屋と違って色が鮮やかだった。だが、不自然に整えられていることが逆に不気味さを増していた。衝動に駆られ、畳を一枚めくると、床板には円を描くように拭かれた痕が浮かび上がっていた。その中心にこびりついた黒い染み。鼻を近づけると、錆のような匂いがした。血だと直感した。

その瞬間、全身が震えた。何かを見てはいけない場所に触れてしまった。背後から冷たい風が吹き抜けた気がして、慌てて畳を戻した。部屋を飛び出し、寮から逃げ出した。二度と戻る気は起きなかった。

結局、会社の内定も辞退した。あの寮で過ごした日々が心に爪痕を残し、まともに社会生活を送れる気がしなかったのだ。すべてを記憶の奥に押し込み、なかったことにしようと努めた。

だが、年月が経つにつれて、あの光景はますます鮮明になっていった。胸の上の女の重み、天井に浮かぶ老婆の目。あの部屋の畳の下の染み。忘れたくても、体が覚えている。ある日、ようやく気づいた。これは「忘れてはいけないもの」なのだと。思い出せ、語れ、と。あの二人の視線が、私をそう仕向けているのだ。

今、こうして文字にすることで、彼女らは少しは静まるのだろうか。それとも、再び私の胸に座り込む日が来るのだろうか。

――いずれにせよ、あの寮の角部屋には、まだ彼女たちがいる。

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