兄が精神的に不安定になった。
旅行中に何か異常な出来事があったのだろうか、その詳細は定かではないが、彼の態度が一変してしまった。
昨日、彼が彼女との一泊旅行から戻ってきたのだが、その様子は明らかに異常だった。彼は部屋に閉じこもり続け、一切外に出てこない。食事の時間になっても姿を現さず、ただ部屋に閉じこもり、まるで外界と切り離されてしまったかのようだった。その変わりようには強い不安を感じざるを得なかった。厳格な家庭環境で育った彼女との初めての旅行で、出発前はあれほど喜びに溢れていたにもかかわらず、その変わりようはただならぬものであった。
彼女である袈裟代もまた、家族には「女友達と出かける」と嘘をついてまでこの旅行に同行したと聞いている。
昼食の時間が近づく頃、さすがに心配になり、兄の部屋のドア越しに声をかけてみた。
「兄ちゃん、どうしたんだ?袈裟代さんと何かトラブルでもあったのか?」
返事はない。
「……兄ちゃん?」
しばらくして、低くかすれた声で兄が応答した。
「袈裟代から電話があったら……俺はいないと言ってくれ」
「もしかしてケンカしたのか?とりあえず食事くらいはしろよ」
「……」
その後も何度か声をかけたが、兄からの応答は途絶えた。仕方なく諦めてリビングに戻り、母の作った焼き飯を食べた。
夕方、家の電話が鳴った。母は買い物に出ていたため、俺が受けた。
袈裟代からだった。
『……袈裟代ですけど、良一君はいますか?』
一瞬、本当のことを伝えるかどうか迷った。しかし、彼女が家の電話にかけてきているということは、兄が携帯に出ないということを意味しているのだろう。兄の精神状態が不安定な今、これ以上事態を悪化させるのは得策ではないし、兄の怒りを買うのも避けたかった。
「すみません、今ちょっと出かけていて……いつ戻るかも分からないです」
『……見つけた』
「……え?」
『ガチャ。ツーツーツー』
なぜか満足そうにそう言って、袈裟代は電話を切った。切る直前に「フフフっ」という笑い声も聞こえた気がした。何とも言えない不安感が胸をよぎり、気を紛らわせるため再放送のバラエティ番組を見続けた。
夜、インターホンが鳴った。
「はーい」
母が応対に出た。
『袈裟代ですけど……』
時刻はすでに二十二時を回っている。彼女の家庭環境は厳しく、こんな時間に外出するなど尋常ではない。
母は俺に『どうする?』という視線を向けてきたが、夜中にインターホン越しに応対するのは避けたほうが良いと判断し、とりあえず玄関に上がってもらうことにした。母が「少し待ってね」と言いながら玄関へ向かった。
そのとき、二階から兄の叫び声が聞こえた。
カチャリ——
玄関を開ける音が響いた。
そして直後、母の悲鳴が家中に響き渡った。
「ギャーーーッッッ!!!」
俺の肩が反射的に震えた。リビングで耳かきをしていた父も、耳かきを耳に突っ込んだまま、驚きで固まっている。
急いで玄関に駆けつけようとしたが……体が動かない。
肩が上がったまま、金縛りにあったように全身が凍りついた。声も出せない。
横目で父を見ると、父も同じように肩を上げたまま固まっていた。
リビングから玄関に通じる扉は開かれている。
ギシ…ギシ……
シャッ…シャッ……
玄関から衣擦れの音と共に、何者かが近づいてくる。
袈裟代だった。
……いや、本当に彼女なのか?
黒いワンピースの裾が見える。
しかし、以前会った彼女とは全く異なっていた。髪は乱れて絡まり、肌は顔を含めて血の気が失せたように真っ白で、その様子はまるで生気を失っているかのようだった。
歩き方も異常だった。内股でぎこちなく進み、右手は壁に這わせ、左手は空間をまさぐるように振り回している。まるで真っ暗闇で手探りをしているような動きだ。
だが、部屋の電気は煌々とついており、彼女の不気味な姿ははっきりと見えていた。
袈裟代は、扉の前を通り過ぎるとき、ゆっくりとこちらに顔を向けた。その顔は微笑んでいるようでありながらも、何か言いようのない悪意がにじみ出ており、目の奥には暗い光が宿っているように見えた。その目線には冷たさと狂気が混在し、ただならぬ不気味さを感じさせた。
「ヒッ……!」
声にならない叫びを飲み込んだ。
彼女の目は異様だった。
白目が真っ赤に染まり、まるで血が溜まっているかのように見える。そして黒目は、濁った白で覆われていた。
目が合っているような気がするが、焦点は定まらない。まるでB級ホラー映画で見たドラキュラのような目であった。
しかし、それ以上に彼女の目には……悪意が満ちていた。
「……嘘ついたら、だめじゃない」
満足げに歪んだ笑みを浮かべ、袈裟代は再び正面を向き、手探りの動作を続けながら二階へと上がっていった。
しばらくして、兄の絶叫が聞こえた瞬間、俺の意識は途切れた。
翌朝、俺が最初に目覚めた。
父は耳かきを手にしたまま倒れており、母は玄関で倒れていた。
一人で兄の部屋に向かうのが怖くて、二人を起こしてから一緒に向かった。
ドアを開けた瞬間、袈裟代の姿が振り向き、あの笑顔でこちらを見つめる光景が頭をよぎった。
ノックをし、声をかけてからドアを開けた。
袈裟代は……いなかった。
兄は……生きていた。
しかし、もはや兄ではなかった。
「うぅううーぅ……ぶふふふ……ぶふ……ぶふ……うふふふ……うぉーぅう……」
だらしなく口を開け、よだれを垂らしながら、視線は定まらず、首を右に左にくるくると回していた。
「兄ちゃん!おい、兄ちゃん!」
「良一!良一!」
呼びかけるも、無駄だという予感がしていたが、やめることはできなかった。
母はその場に泣き崩れ、父は悲しげで怒りを含んだ表情で口を固く結んでいた。
ああ……兄がおかしくなってしまった。
その後、両親は兄の大学に退学届けを出し、兄を精神科の病院に入れた。入院先の病院では、兄はほとんどの時間を無表情で過ごし、医師たちは彼の反応が乏しく、重度の精神的ショックを受けていると診断していた。毎日のように両親が見舞いに訪れたが、兄はまるでその存在に気づいていないかのように、ただ虚空を見つめるばかりだった。治療の効果は見られず、まるで兄の魂そのものが抜け落ちてしまったかのように見えた。しかし、半年が経過した今も元には戻らない。
というよりも、もう元には戻らないのではないかという予感が強まっている。この予感だけは、どうか裏切ってほしいと一心に願っている。
袈裟代は、家族ぐるみで消息を絶った。
父は警察や興信所に相談し、彼女の行方を追っているが、いまだ手がかりはない。
あれは一体何だったのか。
親に嘘をついて兄と旅行に行った袈裟代が、その行為が露見して何らかの罰を受けたのか?
彼女の家庭環境は厳しいと聞いていたが、その家自体、何か異常なものだったのだろうか。
今となっては、もう何も分からない……
(了)
[リライト前出典:原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「海星さん」 2010/09/22 01:09]