兄が帰ってきたとき、すでに何かが終わっていた。
旅行のことはほとんど聞いていない。どこへ行ったのか、何をしたのかも曖昧なままだ。ただ、帰ってきた兄は、部屋から出てこなくなった。
扉越しに声をかけても反応がない。昼になっても、夜になっても、同じだった。
ようやく返ってきたのは、低く擦れた声だった。
「袈裟代から電話があったら……俺はいないと言ってくれ」
それきり、また黙った。
夕方、家の電話が鳴った。俺が出た。
『……袈裟代ですけど、良一君はいますか』
兄の言葉が頭に残っていた。
「すみません、今ちょっと出かけていて」
少し間があった。
『……見つけた』
それだけ言って、切れた。
受話器を置いたあとも、耳に残ったままだった。
見つけた、という言い方が、どこかおかしかった。
夜、インターホンが鳴った。
母が応対に出る。モニターも見ずに、声だけで誰かを確認したようだった。
『袈裟代ですけど……』
こんな時間に来るはずがない。そう思ったが、母は迷わず玄関へ向かった。
そのとき、二階から音がした。
兄の部屋の扉が、内側から鳴った気がした。
カチャリ、と玄関が開く。
すぐあとに、母の悲鳴が重なった。
俺は立ち上がろうとして、そのまま止まった。
体が動かないというより、動く必要がないような感じがした。すでに何かの応対が終わっていて、そこに割り込めないような。
父も同じ姿勢で固まっていた。
開いたままの扉の向こうから、足音が近づいてくる。
ゆっくりと、一定の速さで。
玄関から、こちらに。
視界の端に、黒い布が見えた。

袈裟代だった。
以前見たときと、同じ服だった気がする。
ただ、歩き方が違っていた。
何かを探しているような動きなのに、迷っている様子がなかった。
壁に触れる手も、空をなぞる手も、どこにも触れていないのに、次の場所を知っているように動いた。
リビングの前を通り過ぎるとき、彼女は止まった。
こちらを向いた気がした。
目が合ったかどうかは分からない。
ただ、さっきの電話の声が、そのまま近くに来たように感じた。
「……嘘ついたら、だめじゃない」
小さく言って、また歩き出した。
階段の方へ向かう。
上る音が、ひとつずつはっきり聞こえた。
やがて、二階で何かが動いた。
すぐあとに、兄の声が上がった。
それ以上は、覚えていない。
気がつくと朝だった。
父はリビングで座ったまま、母は玄関のそばで倒れていた。
二人を起こしてから、三人で二階に上がった。
兄の部屋の前で、足が止まる。
中に、誰かがいる気がした。
ノックをして、名前を呼ぶ。
返事はなかった。
ドアを開ける。
中には、兄だけがいた。
生きてはいた。
ただ、こちらを見ていなかった。
何かを探しているように、視線だけがゆっくり動いていた。
呼びかけても、反応はない。
俺たちの方を向くこともなかった。
部屋のどこかを、ずっと見続けていた。
袈裟代は、いなかった。
あの夜のあと、一度も姿を見ていない。
ただ、電話のことを思い出す。
あのとき、彼女は何を見つけたのか。
兄だったのか。
嘘だったのか。
それとも――
あの家の中で、もう一つ、何かを。
(了)
[リライト前出典:原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「海星さん」 2010/09/22 01:09]