これは、ある深夜のラーメン屋での話だ。
繁華街の一角にあるこの店は、夜も更けてくると酔客や疲れたサラリーマンたちがふらりと入ってくる隠れた名店だった。店内はこぢんまりとしていて、明るすぎず暗すぎない明かりが妙に落ち着く。カウンター席がメインで、テーブル席もいくつか並んでいる。男はその夜、いつものようにこの店に立ち寄り、カウンター席に腰を落ち着けた。これから出てくるであろう湯気の立つラーメンを想像しながら、どこか安堵感に包まれていた。
しばらくして、出されたラーメンの湯気に鼻をくすぐられ、満足げに一口目をすすり始めた時だった。背後から「ガラッ」と激しく引き戸が開く音がした。その音のほうに目をやると、そこに立っていたのは一人の男と、その男に連れられた若い女性だった。
その男は、一目見ただけで分かるような、いかにも「その筋」の匂いを漂わせていた。派手なシャツに、無造作に肩にかけた革ジャン。薄暗い明かりの下でもわかる、彫りの深い顔にひどく目立つ傷痕。髪は乱れたように逆立ち、その姿はまるで街角にある古びたポスターから抜け出してきたようだった。隣にいる若い女性もまた、化粧が濃く、やけに派手な格好をしている。何か不機嫌そうな様子で、手にはスマートフォンを握りしめたままだ。
二人は空いたテーブル席に向かい、男はどさりと椅子に腰を下ろした。カウンターの隅にいた男はその様子を横目に見ながら、ラーメンの麺を箸で持ち上げていたが、なんとなくそちらに気を取られていた。
店の奥から店員が水のグラスを持ってやってきたが、彼が置いた途端、ほんのわずかにその水がグラスの縁からこぼれ、テーブルの上に水滴を広げた。普通なら気にも留めない些細な出来事だが、チンピラ風の男はそれに敏感に反応し、眉間に皺を寄せながら立ち上がった。
「おい!何やってんだ!」
その声は店内に響き渡り、他の客たちが一斉に驚いた顔で振り返る。男は周囲の目も気にせず、店員に怒鳴り声を上げた。どうやら、自分のズボンの裾が少し濡れたのが許せないらしい。水くらい拭けばいいものを、彼はどんどん声を荒げていった。
「こっちが客だぞ!なんでこんな雑なことすんだ?あん?いい加減にしろ!」
周囲は気まずそうに視線をそらし始め、店内の空気が一気に重くなった。連れの女も、「いいからやめなよ」と小さく呟くが、男はますます気が大きくなっているのか、彼女を一瞥しただけで店員に向き直り、次の言葉を放った。
「おい、店長出せよ。上の人間呼べ!」
何かとんでもないことが起きそうな不穏な予感が漂った。仕方なく、奥の厨房から現れた店長らしき人物は、三十代くらいの小柄で温和そうな男だった。彼は深々と頭を下げ、丁寧に詫びの言葉を口にした。しかし、その丁寧さがかえってチンピラの男を煽る形になってしまったのか、男はますます声を荒げ、テーブルを乱暴に叩きながらまくし立てた。
「てめえの謝罪なんていらねえんだよ!どう落とし前つけるつもりだ?俺を誰だと思ってんだ?この街じゃ知らねえ者はいねえぞ!」
まるで芝居のセリフのように彼は怒鳴り、そしてまわりの客たちにちらちらと視線を向け、わざとらしく自分の存在感を誇示しているようだった。店の客たちは何かあったら巻き添えになりかねないと、緊張に包まれてうつむいたり、気配を消そうと身を縮めている。
男は言葉の勢いがついたのか、「俺は◯◯のもんだぞ!」と、自分の肩書きと名乗りを大声で響かせた。その時、詫びを入れ続けていた店長は、少しの沈黙の後、突然静かにその場を離れ、厨房の奥へと引っ込んでしまった。
「おい、待てよ!」
置いてけぼりにされた形のチンピラは、店長が戻らないことに腹を立て、今度は備え付けのテーブルや椅子を乱暴に蹴り飛ばし始めた。周囲はますます怯えた様子で、誰も声を上げられないまま、ただ男の暴れっぷりに耐えている。彼は薄笑いさえ浮かべて、まるで舞台の上に立つ役者のように、店内で気炎を上げ続けた。
ふと、ラーメンを食べるのを忘れていた男が、入口のほうから数人の足音が聞こえてくるのに気がついた。音は無遠慮なもので、しかも人数が多いのがわかる。戸惑いながらも視線を向けると、ラーメン屋の引き戸がそっと開き、そこから四、五人の屈強な男たちが無言で小走りに入ってきた。
彼らは、一目でわかる「本職」の風貌の者たちだった。無駄な装飾のない黒いスーツに身を包み、鋭い目つきと張り詰めた表情で店内に緊迫感を与えている。チンピラの男が「?」と声を出しかけた瞬間、彼らの手が素早くそのチンピラを取り囲んだ。
「知らん!俺は知らねえ!」
チンピラの男は声を震わせ、何度も繰り返し叫んだが、その声は徐々に力を失っていった。本職の男たちは何も言わず、そのチンピラの腕を固く握りしめ、まるで何かの行事でもあるかのように静かに引き立てていく。彼らは容赦なくチンピラの体をねじり上げ、まったく抵抗の余地を与えなかった。
連れの女もまた恐怖に凍りついた顔のまま、無理やり引き連れていかれる。やがて、二人は店の外に連れ出され、数台の黒いワゴン車が待ち構えているのが見えた。最後に「ガシャン」と車のドアが閉まり、その音が店の中まで届いた瞬間、店内の客たちは息を呑んだ。
その後、静けさが店に戻ると、奥に引っ込んでいた店長が姿を現し、まるで何事もなかったかのように、店内にいた客一人ひとりに深々と頭を下げ始めた。彼はお礼のような言葉を呟きながら、心底安心したような表情で、黙って厨房へと戻っていった。
男も何事もなかったかのように会計を済ませ、店を後にしたが、あのチンピラと女がどこへ連れて行かれたのか、あれからどうなったのかを考える
と、心に重い靄が残るばかりだった。