深夜二時を回ったころのラーメン屋だった。
繁華街の外れにあるその店は、看板の灯りだけがやけに落ち着いて見える。昼間は近づきたいとも思わないが、終電を逃した夜や、帰る理由が見当たらないときだけ、なぜか吸い寄せられる場所だった。
店内は静かだった。客はまばらで、会話もない。鍋の湯が沸く音と、換気扇の低い唸りだけが、一定のリズムで空間を満たしている。私はカウンターの端に座り、出てきたばかりのラーメンを前に、ようやく肩の力を抜いていた。
そのとき、引き戸が乱暴に開いた。
音が大きすぎて、店全体が一瞬、息を止めたように感じた。入ってきたのは男と女だった。男は派手な服装で、革ジャンを無造作に羽織り、顔には古い傷がいくつも残っている。女は濃い化粧で、視線を合わせようとしない。
二人は空いているテーブル席に座った。男は椅子を引く音すら必要以上に大きく立て、周囲に自分の存在を知らしめるような動きをする。私は視線を落とし、麺をすすった。関わらないほうがいい、そういう空気だった。
水を持ってきた店員が、ほんの少し手元を誤った。グラスの縁から水がこぼれ、男のズボンの裾に触れた。
次の瞬間、店内の空気が変わった。
「おい」
低い声だったが、よく通った。
「何してくれてんだ」
店員が謝ろうとするより早く、男は立ち上がり、声を荒げた。内容は水がかかっただの、客を何だと思っているだの、どれもよくある言葉だったが、言い方だけが異様に芝居がかっていた。
「俺を誰だと思ってる」
その言葉が出たとき、私は箸を止めた。店内の誰もが、その続きを待っているような、待ってはいけないような、妙な間が生まれた。
男は名乗った。具体的な名前だった。私は聞いたことがある気がしたが、どこで聞いたのかは思い出せなかった。ただ、胸の奥が一瞬だけ冷えた。
店長が出てきた。小柄で、年齢も若い。深く頭を下げ、淡々と詫びる。その態度が、なぜか不自然に見えた。怯えているようでも、困っているようでもない。役割を果たしているだけの顔だった。
男はさらに怒鳴り散らし、テーブルを叩き、椅子を蹴った。連れの女は何も言わず、ただ視線を落としている。
しばらくして、店長は突然、何も言わずに厨房の奥へ消えた。
男が怒鳴る。戻ってこいと叫ぶ。誰も応えない。私はそのとき、店内にもう一人、見覚えのない客が増えていることに気づいた。いつからいたのか分からない。黒っぽい服装で、黙って水を飲んでいる。
引き戸が、今度は静かに開いた。
数人の男たちが入ってきた。黒いスーツ。無言。視線が店内を一周する。その動きが、あまりに揃いすぎていて、作業のように見えた。
次の瞬間、騒いでいた男は囲まれていた。
「知らねえ、俺は知らねえ」
さっきまでの勢いは消え、声だけが空回りしている。誰も返事をしない。腕を掴まれ、体を捻られ、抵抗する余地はなかった。連れの女も同じように立たされる。
店の外に連れ出されるとき、私は黒いワゴン車が停まっているのを見た。いつからあったのか分からない。ドアが閉まる音が一度だけ響いた。
店内は、すぐに元に戻った。
鍋の音が聞こえ、換気扇が回り続ける。店長が戻ってきて、何事もなかったかのように頭を下げた。その視線が、一瞬だけ、私の背後を通り過ぎた気がした。
会計を済ませ、店を出た。夜風は冷たかった。
翌日、別の街で昼食を取ったとき、同じ店長を見た気がした。場所も違う、店も違う。それなのに、間違いだと言い切れなかった。
数日後、ニュースであの男の名前を見た。だが、肩書きが違っていた。私が聞いた名乗りと、少しだけズレている。
あの夜、誰が最初から店にいたのか。
誰が呼ばれたのか。
店長は、誰に頭を下げていたのか。
考えようとすると、記憶の端が曖昧になる。確かにそこにいたはずの客の顔が、思い出せない。
今でも、深夜にラーメン屋へ入るとき、無意識に客の人数を数えてしまう。
そして、数が合っているかどうかを、確認するのが怖い。
(了)