あの席は、最初から俺のものではなかった。
高校一年の春、片道二時間の遠距離通学が始まった。朝六時台の私鉄は、まだ眠りきらない大人と学生でぎゅうぎゅうに詰まっている。立ったまま二時間。慣れる前に、足よりも先に気力が削られた。
だから俺は、座れる席を探すことに執着した。どの駅で誰が降りるか、どのドア付近が空きやすいか、目と耳を総動員して読み取る。通学の成否は、席取りで決まる。大げさではなく、そう思っていた。
そのうち気づいた。
三号車の前寄り、四人掛けのボックスシート。その右下の席だけが、なぜかいつも空いている。周囲が埋まっても、そこだけぽっかりと空白のまま残る。誰かが座ろうとしても、直前で立ち止まり、別の場所へ移動する。まるで無意識に避けているみたいに。
俺は気にしなかった。空いているなら座る。それだけだ。
それから数か月、その席は俺の定位置になった。混雑した車内で、そこだけが静かだった。背後には仕切り板。窓際。朝の二時間をやり過ごすには十分すぎる環境だった。
七月の中旬、期末テストが終わった日。俺はその席で漫画を読んでいた。車内は蒸し暑いはずなのに、なぜか背中側だけがひやりとしていた。
最初に聞こえたのは、息のような音だった。
ぼそ、ぼそ、と湿った空気が背後で擦れる。隣の乗客がスマホに向かって独り言でも言っているのかと思った。だが、音は背もたれのすぐ裏から響いていた。
生温かい空気が、首筋をなぞる。
空調の風ではない。吐息だと、身体のどこかが理解していた。
次の瞬間、鋭い痛みが走った。爪で軽く引っ掻かれたような感触。反射的に肩をすくめると、背もたれがわずかに軋んだ。
振り返った。
そこにいたのは、顔のない何かだった。
目も口もない、のっぺりと白い頭部。皮膚というより、濡れた紙のような質感。鼻も耳もないはずなのに、確かにこちらを向いているとわかった。
そして、口がないのに、呟きが止まらない。
音は頭の内側に直接流れ込んでくる。言葉ではない。ただ、意味だけが押しつけられる。
その白い手が、背もたれの隙間から伸びていた。五本の指。そのうち人差し指だけが、赤黒く染まっている。乾いた血の色だった。
指先が、俺の肩に触れた。
冷たいはずなのに、焼けるように熱い。
叫んだ記憶はある。だが、車内の誰もこちらを見なかった。俺は立ち上がり、リュックを掴み、隣の車両へ駆けた。人を押しのけた感触もあるのに、振り返っても、誰も不審そうな顔をしていなかった。
次の駅で飛び降りるように下車した。
その日、学校には行かなかった。
帰宅して制服を脱いだとき、背中のシャツがべっとりと濡れているのに気づいた。汗ではない。赤黒い染みが、肩から腰にかけて広がっていた。
洗っても落ちなかった。
翌日、同じ時間の同じ車両に乗ってみた。確かめたかった。
その席は、やはり空いていた。
だが今回は、誰かが座っていた。
俺だった。
うつむいて、同じ姿勢で、背もたれにぴたりと背中をつけている。顔は見えない。車窓に映る横顔は、白く、のっぺりしていた。
その瞬間、背後から、あの呟きが聞こえた。
ぼそ、ぼそ、と。
俺は電車を降りた。
それ以来、空いている席には座らない。立ったままのほうがまだましだ。
あの席は、誰かが座っている。
今も、きっと。
[出典:180 :本当にあった怖い名無し:2015/07/14(火) 08:02:27.36 ID:T5EfJPrt0.net]