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中編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

女の子はいなかった rc+3,575-0311

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ずっと、あの子の顔だけは忘れられない。

両親が離婚したあと、母に連れられて山あいの集落に移り住んだのは、まだ小学校に上がる前だった。人は少なく、ほとんどが顔見知りで、店といえば小さな商店が一軒あるだけだった。朝は霧が低く降り、夕方になると山の影が道をふさいだ。祖父母は口をそろえて、山にはむやみに入るなと言った。猪や蛇もいるし、人でないものもいる。そういう土地だった。

同い年くらいの子供は三人しかいなかった。男の子が二人と、女の子が一人。男の子たちは意地が悪く、私はあまり近づかなかった。その代わり、きーちゃんとはすぐ仲良くなった。川で沢蟹をつかまえたり、畑のあぜを走り回ったり、名前も知らない草を引き抜いて怒られたりした。よく笑う子だった。笑うと、少しだけ前歯が見えた。

ある日、きーちゃんが野いちごを採りに行こうと言い出した。山の中腹に、たくさん生る場所を知っているのだという。私は嫌だった。祖父母にあれだけ言われていたし、山道は昼でも薄暗かった。けれど、きーちゃんは平気な顔で先を歩き、私の手を引いた。置いていかれるのが怖くて、結局ついて行った。

山に入ってしばらくすると、道の脇の草や木の名前を、きーちゃんが次々に教えてくれた。これは食べられる、これはかぶれる、これは秋になると赤くなる。私はだんだん夢中になって、怖さを忘れた。途中、大きな岩の陰に小さな祠があった。黒ずんだ木の屋根に苔がつき、前には古い皿が一枚だけ置かれていた。きーちゃんはそこで立ち止まり、当たり前みたいに手を合わせた。私も慌てて真似をした。そこだけ空気が冷たかったのを覚えている。

野いちごは本当にあった。斜面いっぱいに赤い実が散っていて、宝石みたいだった。私たちは夢中で摘んでは食べ、食べては笑った。指先も口のまわりも赤く汚れた。帰り道、斜面を下りようとしたとき、きーちゃんが足をすべらせた。膝と腕を石でこすって、血がにじんだ。たいした傷ではなかったのだと思う。けれど、私は急に怖くなった。山に入ったことが見つかる。怒られる。叱られる。そう思った途端に涙が出て、帰ろう、帰ろうと何度も言った。きーちゃんは少し嫌そうな顔をしたが、何も言わずについてきた。

その夜、祖母と風呂に入ったとき、私は山に入ったことも、祠のことも、きーちゃんが転んだことも、全部しゃべってしまった。叱られると思ったのに、祖母は何も言わずに聞いていた。湯気の向こうで、顔だけが妙に真剣だった。ひと通り聞き終えると、祖母は私を自分のほうへ引き寄せて、低い声で言った。

「その子に、これをしなさい。ただし、一度だけだよ」

そう言って祖母は、言葉と動きを教えた。傷に手をかざし、円を描くように回して、腹に力を入れて唱える。意味は聞いても教えてくれなかった。ただ、ちゃんとやれば悪いものは元の場所へ戻ると言った。そして、終わったら二度と口にしてはいけない、もう使ってはいけないと、何度も念を押した。

翌日、私はそれをきーちゃんに試した。山へは行かなかった。家の裏の空き地で、しゃがみこんだきーちゃんの膝に手をかざした。ぐるぐる回しながら、祖母に教わったとおりに唱えた。言葉は意味が分からないのに、口にすると妙に息が詰まった。最後まで言い終えるころには、背中にじっとり汗をかいていた。

きーちゃんは、途中で一度だけ顔をしかめた。

痛かったのかと思って手を引っ込めると、そのあとすぐに笑って、「ありがとう」と言った。その笑い方が、昨日までと少し違って見えた。気のせいだと思った。私はほっとして、自分が役に立てたのだと嬉しくなった。

その晩、祖母は私の服と靴を持ち出した。山へ行ったときに身につけていたものだった。庭先に一斗缶を置き、その中へ黙って放り込んだ。何をするのか分からず見ていると、祖母は新聞紙に火をつけ、そのまま缶の中へ押し込んだ。私は泣いて止めた。汚れただけで、まだ履ける靴だった。祖母は振り向きもせずに言った。

「印がつく前でよかった」

それから私の肩をつかみ、爪が食い込むくらい強く引き寄せて言った。

「あれは、もう使っちゃいけないよ。あんただけのものだからね」

その意味を、あのときは考えなかった。子供だったし、祖母の言うことはたいてい理屈抜きで絶対だった。けれど私は、そのあと弟が転んだときにも、近所の子が切り傷を作ったときにも、軽い気持ちで真似をしてしまった。やるたびに、相手は妙な顔をした。痛いのか、くすぐったいのか、そのどちらともつかない顔だった。私は効いているのだと思っていた。

やがて母が再婚し、私はその集落を離れた。きーちゃんとは泣いて別れた。手を振る姿を、車の窓から見えなくなるまで見ていた。もう二度と会わなかった。

それから何年も経って、私は大学で民俗学を学んだ。ある講義のあと、ふと祖母に教わった言葉を思い出し、担当の教授に話した。教授は途中からメモを取るのをやめ、最後まで黙って聞いた。そして少し考えたあとで、私に向かって言った。

「それは、治す言葉じゃないね」

冗談だと思って笑おうとしたが、教授は笑わなかった。

「怪我や病を引き受ける類のものでもない。もっと古い土地の言葉だよ。入ってきたものを退かせるときの言い方に近い。相手に向けるというより、相手の背後にいるものへ言う」

私はその場で何も返せなかった。教授は、それ以上は口にしなかった。ただ、誰に向けて使ったのかと聞いた。私は、山で転んだ女の子に使ったと答えた。すると教授は、ゆっくり首を上げて言った。

「その子は、どこの家の子だったの」

その問いに答えられなかったことが、あとから効いてきた。

帰宅してすぐ、母に電話をかけた。昔、あの集落にいたきーちゃんという女の子のことを覚えているかと聞いた。母はしばらく黙ってから、そんな子はいなかったと言った。男の子は二人いた。でも女の子は知らない。遊ぶ相手がいなくて、あんたはよく一人でしゃべっていた。母はそう言った。私は腹が立って、何を言っているのかと声を荒げた。野いちごを採りに行ったことも、転んだことも、一緒に泣いて別れたことも、私ははっきり覚えている。母は困ったように黙り、最後に一つだけ言った。

「おばあちゃん、その頃から、あんたが山へ近づくのをひどく嫌がってたよ」

電話を切ったあと、私は押し入れの奥から古いアルバムを出した。あの頃の写真は何枚もあるのに、そこに女の子は一人も写っていなかった。川原で泥だらけの私。縁側でスイカを持つ私。祭りの日に浴衣を着た私。どれも、私の隣には誰もいなかった。

その年の盆に、祖母の家へ行った。祖母はもう弱っていて、私の顔を見てもすぐには分からなかった。けれど、あの山のことを持ち出した途端、急に目が合った。私は勇気を出して聞いた。あの言葉は何だったのか。きーちゃんは誰だったのか。祖母はしばらく黙り込んでいたが、やがて、ひどく乾いた声で言った。

「見つかったなら、返すしかないだろう」

それだけだった。返すって何を。誰に。続けて聞こうとしたが、祖母はもう何も言わなかった。私の右手だけを取って、しばらく小指を撫でていた。

祖母が亡くなったあと、集落に残っていた昔の知り合いから噂を聞いた。私がいた頃の男の子の一人が、何年か前に川で死んだという。増水した日でもなかったのに、深みにはまったらしい。その少し前まで、あいつは時々、知らない女の子と遊んでいるふうだったと聞いた。けれど、その女の子を見たことがあると言う大人はいなかった。

私はもう、その話を確かめようとは思わなかった。

弟にだけは、一度話したことがある。あの言葉を昔ふざけて使ってしまったことも、祖母に止められたことも。弟は黙って聞いていたが、途中で変なことを言った。

「姉ちゃんにあれやられると、なんか出てたよ」

何がと聞くと、弟は自分の首の後ろを指した。

「母さんの後ろから、白いのが出てきて、俺の傷に入ってた。そのあと、細長い黒っぽいのが抜けてった。母さん、そのあと寝込んだよな」

そんなはずはないと言いかけたが、弟はそれ以上説明しなかった。ただ帰り際に、私の右手を見て言った。

「まだ、そこにいる」

それが何を指したのか、聞けなかった。

今は私にも娘がいる。小さいころ、押し入れの前に座って、よく誰かに手を振っていた。最初は子供によくあることだと思っていた。けれど、ある日、娘が描いた絵の中に、見覚えのある顔があった。丸い目。少しだけのぞく前歯。赤い実を握った指先。私はその紙を破り捨てそうになって、できなかった。

娘に、この子は誰と聞くと、娘はあっさり言った。

「山で待ってる子」

私はその日、一晩中眠れなかった。

もうあの言葉は使わない。使えば何が起きるのか、今も分からない。ただ、治していたのではなかったのだろうと思う。祖母は最初から知っていて、私に一度だけやらせた。守るためだったのか、返すためだったのか、それすら分からない。ただ一つ確かなのは、あのとき何かに関わってしまったということだけだ。

夜中に目が覚めると、私は今でも右手の小指を確かめる。何も見えない。痛みもない。けれど、ときどきそこだけ冷たい。

そして、ごくたまに思う。

あのとき私が追い返したのは、本当にきーちゃんのそばにいたものだけだったのかと。

[出典:792 :本当にあった怖い名無し:2018/08/08(水) 00:15:07.79 ID:+yN1GjIu0.net]

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