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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

生意気 rw+10,151-0213

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二十歳の夏、私は五歳年上の女性に恋をした。

一年越しの想いが実り、交際が始まった。最初の頃、彼女はよく笑った。私をからかい、「生意気」と頬をつねった。甘やかな響きに聞こえたその言葉が、いつからか命令の合図に変わっていった。

彼女は夜遊びを繰り返した。私が何も言わず待っていることを当然とし、妹からの電話に出ただけで機嫌を損ねた。「私より大事なの?」と低く問う。その目を、私は何度も思い出す。光がなかった。

二年が過ぎた頃、彼女の浮気が発覚した。問い詰めると、彼女は肩をすくめた。

「私ほどの女なら、五回くらい許されて当然。それでやっと釣り合うのよ」

その瞬間、何かが壊れた。怒りではなかった。もっと静かなものだった。冷たい水が胸の奥に満ちていく感覚。私は笑って答えた。

「そうだね。僕が間違っていた」

彼女は満足げに頷いた。「なら、肩でも揉みなさい」

私は従った。その夜から、私は彼女を観察し始めた。言葉の癖、呼吸の間、怒る前の視線の動き。七年かけて、彼女のすべてを覚えた。彼女が忘れたことまで、私の中に残した。

三十三歳になる頃、私たちは周囲から理想のカップルと呼ばれていた。家族公認。結婚も時間の問題。彼女は決して自分からは言い出さなかったが、指輪の話題が出ると目を細めた。

私は観覧車に誘った。夕暮れの光がゴンドラの窓を赤く染める。地上がゆっくり遠ざかる。密室。逃げ場はない。

頂点近くで、私は箱を差し出した。

「受け取ってほしい」

彼女は震える指で箱を開けた。中には紙片が一枚。『今日でお別れ。バイバイ』

「……は?」

理解が追いつかない顔。私は静かに告げた。

「別れよう。君のような人間とは、もう共に歩めない」

彼女の呼吸が乱れ、目が泳ぐ。「待って……冗談でしょ?」

私は首を振った。

「誰がお前と結婚などするか。私はお前の所有物じゃない」

言葉を重ねるたび、彼女の顔から色が抜けていく。私は七年分の記憶を、刃のように差し出した。あの日の台詞。あの夜の笑い声。彼女が忘れた裏切りの数。すべて。

やがて彼女は床に崩れた。涙と涎で顔を濡らし、私の足首にすがる。

「お願い……置いていかないで」

その手を、私は静かに振り払った。

観覧車が地上に戻るまで、彼女は何度も同じ言葉を繰り返した。「ごめんね」「好きだよ」「冗談だよね」。私は黙っていた。

扉が開く。私は彼女の体を支え、外へ出る。近くの柵にもたせかけると、彼女はまだ私の袖を握っていた。

「ねえ……」

私は振り返らず、その場を離れた。

胸に満ちたのは、解放感だった。重い霧が晴れたような感覚。七年分の澱が消えていく。

だが、数歩進んだところで、足が止まった。

袖が引かれている。

振り返ると、彼女はいない。柵にもたれているのは、空気だけだ。周囲の人々は、観覧車から一人で降りてきた私を奇妙そうに見ている。

「お連れの方は?」

係員が尋ねる。

「……今、そこに」

言葉が途切れる。柵には誰もいない。地面に落ちているのは、開いたままの小さな箱だけ。中には、輝く指輪が収まっている。

紙片はない。

私は箱を拾い上げる。指輪の内側に、刻印がある。

――Forever.

鼓動が早まる。観覧車を見上げると、ゴンドラの一つに人影が見えた。赤い光の中、窓際に座る女。こちらをじっと見下ろしている。

顔がはっきりしない。

だが、その口元が動く。

「生意気」

耳元で囁かれた気がした。冷たい息が、首筋に触れる。

私は歩き出す。背後で、ゆっくりと観覧車が回り続ける音がする。ゴンドラが頂点に達するたび、胸の奥がきしむ。

七年かけて壊したはずのものが、まだ終わっていない気がする。

彼女を置いてきたのか。

それとも、あの密室に残されたのは、私のほうだったのか。

胸の霧は、晴れていない。むしろ、前よりも濃くなっている。

帰宅しても、部屋の隅に視線を感じる。スマートフォンの通知音が鳴るたび、心臓が跳ねる。着信履歴には、彼女の名前が並んでいる。

発信日時は、観覧車の頂点に達した時刻だ。

私は通話履歴を削除する。

だが、翌朝、同じ時刻に再び着信がある。

「生意気」

留守電に残る声は、あの夜よりも若い。出会った頃の声だ。

私は再生ボタンを押し直す。何度聞いても、同じ言葉だけが繰り返される。

観覧車は、今日も回っている。

誰かが頂点で、箱を開けている気がする。

そして、誰かが置いていかれている。

それが彼女なのか、私なのか。

もう分からない。

[出典:449:2009/10/16(金) 20:55:29 ID:j8GmJZLk0]

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