あの夜のことを思い出すたび、最初に引っかかるのはバスじゃない。清助だ。
母の親友の息子で、物心つく前から同じ家にいた。兄弟というには近すぎて、他人というには説明がつかない。飯を食う速さも、寝返りの癖も、機嫌の悪い時に黙る間も知っていた。だからこそ分かる。あの夜の清助は、最初から少しおかしかった。
俺たちはその頃、気まぐれみたいな旅をしていた。宿だけ決めて、昼は地図の余白を歩き、夜は安酒を飲んで寝るだけの貧乏旅行だった。あの街に着いたのは夕方で、空気はぬるく、どこからか花の匂いが流れていた。
停留所で待っていると、清助が時刻表を見て、珍しく黙った。
その国のバスは遅れるのが当たり前だった。二十分遅れなら正確な方で、来ないことさえある。だから、時刻ぴったりに一台のバスが滑り込んできた時、俺は「運がいいな」としか思わなかった。
清助だけが、乗る直前に車体を見上げていた。
「どうした」
「いや」
それだけ言って、先に乗った。
車内に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がひやりとした。白い花が、座席にも窓枠にも、つり革の根元にまで結びつけられていた。祝い事の飾りみたいなのに、明るさがない。香りが濃すぎて、喉に薄い膜が張る感じがした。
「サンザシだな」
清助がぽつりと言った。
あいつが花の名前を口にするのを、その時初めて聞いた。
乗客はきれいに二つに分かれていた。片側には、煤を浴びたみたいに暗い顔の連中が、俯いたまま揺られている。もう片側には、笑いすぎて頬の筋が固まったような連中がいて、誰もが大声で歌い、手を叩き、隣の肩を抱いていた。
陽気というより、何かを無理に続けている感じだった。

暗い顔の連中は、肩を叩かれても、腕を引かれても、反応しない。ただ、教会の前を通った時だけ、一斉に顔を上げて胸の前で十字を切った。その動きだけが妙に揃っていて、見ているこっちの方が息を呑んだ。
嫌な気配が膨らんで、俺は次の停留所でもない場所で降車ボタンを押した。すぐにブザーが鳴ったのに、バスは減速しなかった。
運転席の方から怒鳴り声が飛んだ。
「まだだ」
はっきり意味が分かる口調だった。
俺が固まっている横で、清助が立ち上がった。英語で何か言い返し、運転席へ行こうとする。運転手は見向きもしない。聞こえていないみたいだった。笑っている連中の方は、歌うのをやめないまま、少しずつこちらを見始めていた。
その時、清助がポケットを探った。
銀色のライターだった。
火がつく前に、俺は言った。
「お前、煙草なんか吸わないだろ」
清助はこっちを見なかった。
「今は吸う」
そう言って、煙草を咥えた。いつから持っていたのかも分からない煙草だった。火がついた瞬間、車内の空気がひっくり返った。
笑っていた連中が、同時にこちらを向いた。
首だけが先に回り、次に目が合った。笑顔は消えていないのに、目だけが怒っていた。何人かが叫び、何人かが席を蹴り、何人かが通路を詰めてくる。言葉は分からない。なのに、降りろでも返せでもなく、もっと別の、こちらを否定する声だと分かった。
「来い」
清助が俺の腕を掴んだ。
次の瞬間には、バスが軋むように止まり、ドアが開いていた。誰が開けたのか見ていない。俺たちは飛び出した。だが数歩も進まないうちに背中から引き倒され、腕や肩にいくつもの手が食い込んだ。殴られた気もするし、踏まれた気もする。痛みより、口元すれすれにぶら下がってきた笑顔の方が鮮明だった。あれだけは今も忘れない。怒っているのに、歯だけ見せて笑っていた。
清助が俺を引きずるように起こし、細い路地へ走った。後ろから足音と喚き声が追ってくる。笑い声にも泣き声にも聞こえる、あの車内の連中の声だった。
前に、生垣が見えた。鋭い棘だらけの、低い壁みたいな茂みだった。
俺は止まりかけた。清助は迷わなかった。煙草を咥えたまま、その棘へ飛び込んだ。
「馬鹿か」と思うより先に、腕を引かれて俺も突っ込んでいた。
服が裂け、頬を切った。手の甲に熱い痛みが走った。転がるように向こう側へ抜けた時、追ってきていた声がぴたりと止んだ。
振り返ると、連中は生垣の前で立ち止まっていた。ひとりも越えてこない。誰かがこちらへ手を伸ばしかけ、すぐ引っ込めた。そのしぐさが、触れたいんじゃなく、触れてはいけないものを前にした時の動きに見えた。
やがて連中は、示し合わせたように踵を返した。
停まったままのバスへ、ひとりずつ戻っていく。最後に、いちばん奥にいた暗い顔の女がこちらを見た。助けを求めているようにも、来るなと言っているようにも見えた。次の瞬間には、もう俯いていた。
近くに教会があった。灯りが見えたから転がり込んだだけで、助けを求める相手として選んだわけじゃない。年老いた司祭は、俺たちの傷を見て奥へ通した。俺は必死で事情を話した。白い花、笑う連中、止まらないバス、棘の生垣。
司祭は途中から、俺ではなく清助の方を見ていた。
清助は、黙って煙草を揉み消した。
しばらくして、司祭が低い声で何か尋ねた。知らない言葉だった。清助は同じ言葉で短く答えた。
俺はそっちを見た。
「お前、その言葉」
清助は肩をすくめた。
「聞き取れただけだ」
嘘だと思った。けれど、その場ではそれ以上言えなかった。
司祭は最後まで、あれが何だったのか説明しなかった。ただ、ひとつだけ言った。
「定刻のものには、乗らない方がいい夜がある」
それから、庭の棘を切って作った小さな枝束を俺に渡した。清助には渡さなかった。
外が明るくなってから宿へ戻った。鏡を見ると、顔にも腕にも、思ったほど傷はなかった。あれだけ殴られたはずなのに、痣ひとつない。深く切れていたのは、生垣を越えた時の傷だけだった。
荷物をまとめている時、俺のバッグの側面に泥がついているのに気づいた。
小さな足跡だった。
子供のものより、まだ小さい。何人分あるのか分からないほど重なっていて、肩に掛けていた上の方まで続いていた。触ると乾いていたのに、見ているうちに湿って見えてきて、俺はたまらずバッグごと捨てた。
帰国してから、その旅の写真を整理した。停留所で撮った写真が一枚だけ残っていた。夕方の道路と、時刻表と、少し離れて立つ清助の横顔が写っている。
その視線の先に、まだ来ていないはずのバスの前面が少しだけ映り込んでいた。
フロントガラスの奥に、運転席が見える。
そして、そのすぐ後ろ、一番前の席に、こちらを向いて座っている人間がいた。
白い花越しで顔はぼやけている。それでも分かる。
清助だった。
停留所で、俺の隣に立っていたはずの顔が、もう車内にいた。
その写真を見せた時、清助はしばらく黙っていた。やがて、いつもの顔で笑った。
「先に乗ってたように見えるだけだろ」
そう言って写真を裏返し、二度と触れなかった。
それ以来、あいつは煙草を吸わない。ライターも持っていないと言う。あの夜のことを話しても、途中から必ず話を逸らす。なのに、電車でもバスでも、時刻表がぴたりと合った時だけは、決まって先に乗ろうとする。
この前、何年ぶりかで実家に戻った時、玄関の靴箱の上に見覚えのない枝束が置いてあった。乾いて黒ずんだ棘の枝だった。
誰が置いたのかと母に聞くと、母は妙な顔をした。
「清助が昔から時々替えてるじゃないの。あんた、知らなかったの」
俺は何も答えられなかった。
あの夜、俺たちを生垣へ引っ張ったのは、清助だった。
煙草に火をつけたのも、清助だった。
あの花の名前を知っていたのも、知らない言葉で司祭と話したのも、清助だった。
そして、写真の中では、俺より先にあのバスに乗っていた。
あいつが俺を助けたのか、連れて帰ったのか、今も分からない。
ただ、時刻がぴたりと合う乗り物を見るたびに思う。
あれに乗るのは、一度目とは限らないのかもしれない。
(了)