俺の地元には、昔から「牛の森」と呼ばれている森がある。
名前の由来は単純で、森の近くに行くと牛の鳴き声が聞こえるからだ。昼でも夜でも関係ない。風向きも季節も関係ない。森の手前の農道を歩いていると、木の奥のどこかから、低く濁った声が長く漏れてくる。
地元の人間はみんな知っていた。だから子供は近づくなと言われて育つ。俺もそうだった。親だけじゃない。近所の年寄りも、登下校を見ているおばさんも、夏祭りで酔っているおっさんでさえ、あの森の話になると妙に口数が減った。
ただ、不思議なことに、誰も本気で説明しようとはしなかった。
昔は牧場だったとか、山向こうから音が響くとか、そういうもっともらしい話をするやつもいた。だが、そういうことを言う大人ほど、森の名前を口にしたあとで、必ず一度だけ耳を澄ませていた。聞こえるはずのない場所で、聞こえるのを待つみたいに。
小学五年の夏、その森に猿が出るという話が広まった。
うちのあたりに猿なんかいなかった。イノシシや狸ならともかく、猿は話の中にしかいない生き物だったから、子供たちは妙に浮き足立った。しかも、その猿は人を呼ぶらしいと言う。木の上から笑って、手招きをするらしい。誰が最初に言い出したのかは知らないが、俺も友達の信也も、それを聞いたときには半分本気になっていた。
実際に見たのは、その数日後だった。
放課後、自転車で森の外れを流していたとき、信也が急にブレーキをかけた。
「あれ」
前を見ると、森に張り出した細い枝の上に、猿がいた。
小さかった。痩せていて、毛の色は土と灰色の中間みたいにくすんでいた。顔だけが妙に赤くて、人間みたいに口元がいやらしく緩んでいた。そいつはこっちに気づくと、枝にぶら下がったまま、左手をゆっくり動かした。
おいでおいで、の仕草だった。
それを見た瞬間、信也が笑った。俺も笑った。怖さより先に、ほんとにいる、という興奮が来た。二人で自転車を草むらに倒して、猿のいるほうへ走った。猿は逃げるでもなく、少し先の木へ飛び移って、またこっちを待った。俺たちが近づくと、また少しだけ先へ行く。そのたびに、振り返って、同じ手つきをする。
森に入ってから、牛の声がした。
最初はいつものやつだと思った。遠くで一頭だけ鳴いているような、長く濁った声だ。けれど、奥へ入るにつれて、その声は一頭分ではなくなった。何頭もいるようにも聞こえるし、一頭が何度も繰り返しているようにも聞こえる。しかも時々、その鳴き声の切れ目に、言葉の形が混じる気がした。
おい。
そんなふうに聞こえた。
俺は足を止めたが、信也は気づいていないようで、先を行く猿を見ていた。猿はもうかなり奥にいて、木漏れ日の中で白っぽく見えた。手を振っている。何度も。せかすように。
そこで引き返せばよかったのだと思う。
だが、あのときの俺たちは、森の中にいるというより、呼ばれている最中だった。怖いとか危ないとか、そういう判断の前に、行かなきゃいけない感じがあった。自分から追いかけていたはずなのに、途中からは、遅れると置いていかれるような気持ちになっていた。
木が急に切れて、明るい場所に出た。
小さな牧場だった。
公園ほどの広さしかない。四方を森に囲まれているのに、そこだけ不自然なくらい平らで、草が短く揃っていた。古い柵があり、その向こうに牛が四頭いた。どれもじっと立っていて、草も食わず、こっちを見ていた。
その目が妙だった。
牛の目は大きいが、あの四頭はどれも瞬きをしなかった。顔の向きも、耳の向きも違うのに、見られている感じだけがぴたりと揃っていた。まるで四頭で一つの顔みたいだった。
柵の端に、小さな小屋が建っていた。
屋根は傾き、壁板は黒く湿っていた。窓はなかった。入口の戸だけが半開きで、その隙間が妙に暗かった。森の中なのに、そこだけ日が差していないみたいに見えた。
信也が、あれ、と言った。
猿がいない。
さっきまで確かに俺たちの前にいた猿が、いつの間にか見えなくなっていた。そのかわり、小屋の戸が、ぎ、と鳴った。中から誰かが押したみたいに、ゆっくり開いた。
出てきたのは老婆だった。
小さく背中の曲がった、骨ばった婆さんだった。頭から灰色の布をかぶり、腕も脚も細かった。顔じゅう皺だらけなのに、口元だけが妙に若く見えた。笑っていたからかもしれない。目は細く、頬はこけているのに、口だけがはっきり赤かった。
その婆さんが、俺たちを見るなり、手を上げた。
左手だった。
おいでおいで、の動きだった。
その瞬間、胸の奥が冷えた。猿と同じだった。速さも、角度も、指の曲げ方も、まったく同じに見えた。猿が人間に似ていたんじゃない。人間のほうが、猿と同じだった。
信也が俺の腕をつかんだ。
俺はまだ婆さんの手を見ていた。婆さんは笑っていた。右手を体の後ろに隠していた。その隠し方が不自然で、何かを持っているのはすぐにわかった。信也の指が食い込むほど強くなって、ようやく俺は視線をずらした。
右手には、牛の首があった。
切り口から黒いものが糸みたいに垂れていた。新しい血の赤ではなかった。服の裾や手首に、乾いた色が何層も重なっていた。なのに婆さんは、それを軽い荷物みたいにぶら下げて、にこにこしていた。
そのとき、柵の中の牛が一頭、鳴いた。
いや、鳴いたように思った。だが口は動いていなかった。
声は、婆さんの口の奥から聞こえた。
低く長い、あの森の牛の声だった。
信也が「逃げよう」と言ったのを、俺ははっきり覚えている。小声だった。けれど、その直後、まったく同じ声で、すぐ背後から「おいで」と聞こえた。
俺たちは走った。
木の根に足を取られながら、とにかく明るいほうへ向かった。後ろは見なかった。見たら終わりだと思った。婆さんが来ているのか、猿がいるのか、それとも牛が柵を越えてくるのか、何一つ確かめたくなかった。
走っているあいだも、牛の声はずっとした。近づいたり遠ざかったりしない。耳のすぐ後ろで、一定の距離を保ってついてくる。二頭、三頭、四頭。ときどきその中に、人が息を吸う音が混じった。
どれくらい走ったのかわからない。
急に視界が開けて、俺たちは足を止めた。
さっきの牧場だった。
同じ柵、同じ小屋、同じ四頭の牛。
ただ、一つだけ違っていた。牛が五頭に増えていた。
増えた一頭は、柵のいちばん手前にいて、こっちを向いていた。顔が異様に白かった。額の毛並みが乱れていて、遠目には、人間の髪の生え方みたいに見えた。
信也が泣き出した。
俺も叫びそうだったが、声が出なかった。喉の奥に、牛の鳴き声がつかえているみたいだった。小屋の戸がまた開いて、婆さんが出てきた。今度は右手が空だった。かわりに左手で手招きしていた。おいでおいで。さっきと同じだ。だが、さっきと違って、その指の先に血がついていた。
振り向くと、木の上に猿がいた。
同じように左手を動かしていた。
二つの手招きが、同じ速さで揺れていた。
信也が俺を突き飛ばすようにして、別の方向へ走った。俺もつられて走った。木々の間を抜け、下り坂のような場所を駆け下りた。今度こそ森を出られると思ったのに、しばらくするとまた柵が見えた。
牧場だった。
牛はまた増えていた。
六頭になっていた。
俺はその数え方を、今でも後悔している。頭がおかしくなりそうな場面で、どうして頭数なんか確認したのかわからない。ただ、そこに新しく増えた一頭が、俺たちと同じ向きで森の外を見ているのを見たとき、自分たちももう中に入っているんじゃないかと思った。
柵の中ではなく、数のほうに。
そのあとも何度走っても同じだった。牧場に戻るたびに牛が一頭ずつ増える。小屋の戸が少しずつ開いていく。婆さんの笑い方が、だんだん信也の母親に似てくる。猿の鳴き声が、担任の先生の咳払いみたいに聞こえる。頭の中の知っている声が、森の中に混ざり始めた。
もうだめだと思ったころ、誰かが俺の名前を呼んだ。
遠くからだった。
はっきり俺の名前だった。
今度は牛の声じゃなかった。人間の男の声だった。聞き覚えもある気がした。俺と信也は顔を見合わせて、その声のほうへ走った。枝で顔を引っかかれ、転び、起き上がって、また走った。
木立の向こうに、人影が見えた。
近所のおじさんだった。
本当に見知った顔で、名前も知っている相手だった。農機具小屋を持っていて、秋になると柿をくれる人だった。そのおじさんが森の入口みたいな場所に立っていた。夕方の光を背にして、片手を上げていた。
俺たちは泣きながら飛びついた。
おじさんは何も聞かなかった。ただ、「もう大丈夫だ」とだけ言って、俺たちの背中を叩いた。俺はその手の温かさで、ようやく森を出たんだと思った。
入口には、俺たちの自転車が二台、ちゃんと倒れたまま残っていた。
信也がしゃくり上げながら、おじさんに礼を言った。おじさんは「自転車が見えたからな」と言った。そのあとで、森を振り返って、大きな声で「オラァ!」と怒鳴った。
すると、木の上から猿が顔を出した。
枝にぶら下がっていた。夕日を受けて赤い顔が光っていた。そいつは俺たちを見ると、また左手を上げた。
おいでおいで。
だがそのとき、俺は猿より先に、おじさんの手を見てしまった。
おじさんも左手を上げていた。
猿と同じ角度で。
怒鳴ったあと、その手が中途半端に残っていたのかもしれない。そう思おうとした。けれど、おじさんの指先は、二度、ゆっくりと曲がった。呼ぶときの動きだった。
俺は何も言えなかった。
信也は気づいていなかった。俺だけが見たのかもしれない。家まで送られるあいだ、おじさんはいつも通りだった。母親に事情を聞かれても、「森で迷っただけだ」と笑っていた。俺たちが牧場のことを言っても、婆さんのことを言っても、猿のことを言っても、誰も本気にはしなかった。
ただ一人、祖母だけが黙っていた。
夜、寝る前に俺の部屋へ来て、襖を少しだけ開けたまま言った。
「呼ばれても、返事するな」
「誰に」
「牛に」
それだけ言って、襖を閉めた。
次の日、信也は学校を休んだ。
その次の日も休んだ。一週間後にようやく顔を出したが、ほとんど口をきかなかった。森の話をすると、目をそらした。猿のことを言っても、婆さんのことを言っても、何も答えない。ただ、牛の数の話だけは、妙に強く否定した。
「最初から五頭だった」
そう言った。
俺は反論した。四頭だったと言った。すると信也は、青い顔で首を振った。
「違う。最初に見たとき、五頭いた。四頭しかいないと思ったのはお前だ」
そこで話は終わった。
その年の秋、例のおじさんがいなくなった。失踪だと聞いた。農機具小屋もそのままで、柿の木だけが残った。大人たちは夜逃げだ何だと噂したが、祖母はその話を聞いたあとで、夕方になる前に戸締まりを確認するようになった。
それから長いこと、俺は牛の森に近づかなかった。
大人になって地元を離れ、帰省の回数も減った。森のことなんて思い出しもしない年が続いた。祖母も死んだ。信也とも疎遠になった。
なのに、三年前、父の葬式で帰った夜、久しぶりにあの声を聞いた。
実家の裏手にある畑で、誰かが低く唸っていた。
牛の声だった。
昔より近かった。
家の窓を閉めても聞こえた。風呂場でも、廊下でも、仏間でも聞こえた。声は一頭分じゃなかった。いくつも重なっていた。低く長く続いたあと、最後だけ人間みたいに途切れた。
……おいで。
はっきりそう聞こえた。
翌朝、母にその話をすると、母は少し考えてから、「最近は森から離れてても聞こえる人がいるらしい」と言った。まるで花粉の話でもするみたいな口ぶりだった。
「聞こえたらどうするの」
と俺が聞くと、母は答えず、仏壇の水を替えた。
そのとき、仏間の外で声がした。
「おーい」
男の声だった。近所のおじさんに似ていた。何年も前にいなくなった、あのおじさんの声に。
母は振り向かなかった。
「出なくていい」とだけ言った。
俺は動けなかった。あのとき森の入口で、たしかに助けられたと思っていた。だが今になると、あの人が本当に外から来たのか、自転車が本当に入口に置いてあったのか、自分でも怪しくなる。
ひとつだけ、昔と変わらないことがある。
呼ぶものは、いつも左手だ。
去年の盆、実家の物置を片づけていたとき、古いアルバムのあいだから、子供の頃の写真が一枚落ちた。森とは無関係の、たしか川遊びの日の写真だ。俺と信也が並んでいて、後ろに数人の大人が立っている。
その端に、近所のおじさんが写っていた。
笑っている。片手を上げている。
左手だった。
その指先が、写真の中でぶれている。偶然そう写っただけだとわかる。わかるが、どう見ても、こっちへ向かって二度、曲がって見える。
それ以来、夜になると窓の外を確かめる癖がついた。
この前も、仕事で遅くなって帰宅したとき、駐車場のフェンスの向こうに誰か立っていた。暗くて顔は見えなかった。ただ、背は低く、少し腰が曲がっていた。じっとこちらを見ていた。街灯が揺れて、影が木の枝みたいに細かく動いた。
そのとき、遠くで牛が鳴いた。
一頭ではなかった。
俺は反射的に玄関へ駆け込んだ。ドアを閉め、鍵をかけ、靴も脱がずに息を殺した。しばらくしてから、ポストに何かが当たる音がした。
朝になって見たが、何も入っていなかった。
ただ、郵便受けの金属の縁に、泥のついた指の跡が四本、斜めに残っていた。人の手の跡なのに、親指の位置がなかった。
最近は、牛の声が聞こえる夜と聞こえない夜がある。
聞こえる夜は、決まってそのあとに、誰かが俺の名前を呼ぶ。
窓の外からとは限らない。玄関の向こう、換気扇の奥、風呂場の排水口、スマホの通話口の向こう。場所は毎回違う。けれど声はいつも、知っている誰かに少しだけ似ている。
まだ返事はしていない。
ただ、この話を書いているあいだに、一度だけ聞こえた。
さっきだ。
部屋の外で、低い声がした。
牛の鳴き声が長く伸びて、最後に、はっきり言葉になった。
「そこにいるのか」
(了)