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短編 r+ 洒落にならない怖い話

最初から五頭だった rw+3,749-0422

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俺の地元には、昔から「牛の森」と呼ばれている森がある。

名前の由来は単純で、森の近くに行くと牛の鳴き声が聞こえるからだ。昼でも夜でも関係ない。風向きも季節も関係ない。森の手前の農道を歩いていると、木の奥のどこかから、低く濁った声が長く漏れてくる。

地元の人間はみんな知っていた。だから子供は近づくなと言われて育つ。俺もそうだった。親だけじゃない。近所の年寄りも、登下校を見ているおばさんも、夏祭りで酔っているおっさんでさえ、あの森の話になると妙に口数が減った。

ただ、不思議なことに、誰も本気で説明しようとはしなかった。

昔は牧場だったとか、山向こうから音が響くとか、そういうもっともらしい話をするやつもいた。だが、そういうことを言う大人ほど、森の名前を口にしたあとで、必ず一度だけ耳を澄ませていた。聞こえるはずのない場所で、聞こえるのを待つみたいに。

小学五年の夏、その森に猿が出るという話が広まった。

うちのあたりに猿なんかいなかった。イノシシや狸ならともかく、猿は話の中にしかいない生き物だったから、子供たちは妙に浮き足立った。しかも、その猿は人を呼ぶらしいと言う。木の上から笑って、手招きをするらしい。誰が最初に言い出したのかは知らないが、俺も友達の信也も、それを聞いたときには半分本気になっていた。

実際に見たのは、その数日後だった。

放課後、自転車で森の外れを流していたとき、信也が急にブレーキをかけた。

「あれ」

前を見ると、森に張り出した細い枝の上に、猿がいた。

小さかった。痩せていて、毛の色は土と灰色の中間みたいにくすんでいた。顔だけが妙に赤くて、人間みたいに口元がいやらしく緩んでいた。そいつはこっちに気づくと、枝にぶら下がったまま、左手をゆっくり動かした。

おいでおいで、の仕草だった。

それを見た瞬間、信也が笑った。俺も笑った。怖さより先に、ほんとにいる、という興奮が来た。二人で自転車を草むらに倒して、猿のいるほうへ走った。猿は逃げるでもなく、少し先の木へ飛び移って、またこっちを待った。俺たちが近づくと、また少しだけ先へ行く。そのたびに、振り返って、同じ手つきをする。

森に入ってから、牛の声がした。

最初はいつものやつだと思った。遠くで一頭だけ鳴いているような、長く濁った声だ。けれど、奥へ入るにつれて、その声は一頭分ではなくなった。何頭もいるようにも聞こえるし、一頭が何度も繰り返しているようにも聞こえる。しかも時々、その鳴き声の切れ目に、言葉の形が混じる気がした。

おい。

そんなふうに聞こえた。

俺は足を止めたが、信也は気づいていないようで、先を行く猿を見ていた。猿はもうかなり奥にいて、木漏れ日の中で白っぽく見えた。手を振っている。何度も。せかすように。

そこで引き返せばよかったのだと思う。

だが、あのときの俺たちは、森の中にいるというより、呼ばれている最中だった。怖いとか危ないとか、そういう判断の前に、行かなきゃいけない感じがあった。自分から追いかけていたはずなのに、途中からは、遅れると置いていかれるような気持ちになっていた。

木が急に切れて、明るい場所に出た。

小さな牧場だった。

公園ほどの広さしかない。四方を森に囲まれているのに、そこだけ不自然なくらい平らで、草が短く揃っていた。古い柵があり、その向こうに牛が四頭いた。どれもじっと立っていて、草も食わず、こっちを見ていた。

その目が妙だった。

牛の目は大きいが、あの四頭はどれも瞬きをしなかった。顔の向きも、耳の向きも違うのに、見られている感じだけがぴたりと揃っていた。まるで四頭で一つの顔みたいだった。

柵の端に、小さな小屋が建っていた。

屋根は傾き、壁板は黒く湿っていた。窓はなかった。入口の戸だけが半開きで、その隙間が妙に暗かった。森の中なのに、そこだけ日が差していないみたいに見えた。

信也が、あれ、と言った。

猿がいない。

さっきまで確かに俺たちの前にいた猿が、いつの間にか見えなくなっていた。そのかわり、小屋の戸が、ぎ、と鳴った。中から誰かが押したみたいに、ゆっくり開いた。

出てきたのは老婆だった。

小さく背中の曲がった、骨ばった婆さんだった。頭から灰色の布をかぶり、腕も脚も細かった。顔じゅう皺だらけなのに、口元だけが妙に若く見えた。笑っていたからかもしれない。目は細く、頬はこけているのに、口だけがはっきり赤かった。

その婆さんが、俺たちを見るなり、手を上げた。

左手だった。

おいでおいで、の動きだった。

その瞬間、胸の奥が冷えた。猿と同じだった。速さも、角度も、指の曲げ方も、まったく同じに見えた。猿が人間に似ていたんじゃない。人間のほうが、猿と同じだった。

信也が俺の腕をつかんだ。

俺はまだ婆さんの手を見ていた。婆さんは笑っていた。右手を体の後ろに隠していた。その隠し方が不自然で、何かを持っているのはすぐにわかった。信也の指が食い込むほど強くなって、ようやく俺は視線をずらした。

右手には、牛の首があった。

切り口から黒いものが糸みたいに垂れていた。新しい血の赤ではなかった。服の裾や手首に、乾いた色が何層も重なっていた。なのに婆さんは、それを軽い荷物みたいにぶら下げて、にこにこしていた。

そのとき、柵の中の牛が一頭、鳴いた。

いや、鳴いたように思った。だが口は動いていなかった。

声は、婆さんの口の奥から聞こえた。

低く長い、あの森の牛の声だった。

信也が「逃げよう」と言ったのを、俺ははっきり覚えている。小声だった。けれど、その直後、まったく同じ声で、すぐ背後から「おいで」と聞こえた。

俺たちは走った。

木の根に足を取られながら、とにかく明るいほうへ向かった。後ろは見なかった。見たら終わりだと思った。婆さんが来ているのか、猿がいるのか、それとも牛が柵を越えてくるのか、何一つ確かめたくなかった。

走っているあいだも、牛の声はずっとした。近づいたり遠ざかったりしない。耳のすぐ後ろで、一定の距離を保ってついてくる。二頭、三頭、四頭。ときどきその中に、人が息を吸う音が混じった。

どれくらい走ったのかわからない。

急に視界が開けて、俺たちは足を止めた。

さっきの牧場だった。

同じ柵、同じ小屋、同じ四頭の牛。

ただ、一つだけ違っていた。牛が五頭に増えていた。

増えた一頭は、柵のいちばん手前にいて、こっちを向いていた。顔が異様に白かった。額の毛並みが乱れていて、遠目には、人間の髪の生え方みたいに見えた。

信也が泣き出した。

俺も叫びそうだったが、声が出なかった。喉の奥に、牛の鳴き声がつかえているみたいだった。小屋の戸がまた開いて、婆さんが出てきた。今度は右手が空だった。かわりに左手で手招きしていた。おいでおいで。さっきと同じだ。だが、さっきと違って、その指の先に血がついていた。

振り向くと、木の上に猿がいた。

同じように左手を動かしていた。

二つの手招きが、同じ速さで揺れていた。

信也が俺を突き飛ばすようにして、別の方向へ走った。俺もつられて走った。木々の間を抜け、下り坂のような場所を駆け下りた。今度こそ森を出られると思ったのに、しばらくするとまた柵が見えた。

牧場だった。

牛はまた増えていた。

六頭になっていた。

俺はその数え方を、今でも後悔している。頭がおかしくなりそうな場面で、どうして頭数なんか確認したのかわからない。ただ、そこに新しく増えた一頭が、俺たちと同じ向きで森の外を見ているのを見たとき、自分たちももう中に入っているんじゃないかと思った。

柵の中ではなく、数のほうに。

そのあとも何度走っても同じだった。牧場に戻るたびに牛が一頭ずつ増える。小屋の戸が少しずつ開いていく。婆さんの笑い方が、だんだん信也の母親に似てくる。猿の鳴き声が、担任の先生の咳払いみたいに聞こえる。頭の中の知っている声が、森の中に混ざり始めた。

もうだめだと思ったころ、誰かが俺の名前を呼んだ。

遠くからだった。

はっきり俺の名前だった。

今度は牛の声じゃなかった。人間の男の声だった。聞き覚えもある気がした。俺と信也は顔を見合わせて、その声のほうへ走った。枝で顔を引っかかれ、転び、起き上がって、また走った。

木立の向こうに、人影が見えた。

近所のおじさんだった。

本当に見知った顔で、名前も知っている相手だった。農機具小屋を持っていて、秋になると柿をくれる人だった。そのおじさんが森の入口みたいな場所に立っていた。夕方の光を背にして、片手を上げていた。

俺たちは泣きながら飛びついた。

おじさんは何も聞かなかった。ただ、「もう大丈夫だ」とだけ言って、俺たちの背中を叩いた。俺はその手の温かさで、ようやく森を出たんだと思った。

入口には、俺たちの自転車が二台、ちゃんと倒れたまま残っていた。

信也がしゃくり上げながら、おじさんに礼を言った。おじさんは「自転車が見えたからな」と言った。そのあとで、森を振り返って、大きな声で「オラァ!」と怒鳴った。

すると、木の上から猿が顔を出した。

枝にぶら下がっていた。夕日を受けて赤い顔が光っていた。そいつは俺たちを見ると、また左手を上げた。

おいでおいで。

だがそのとき、俺は猿より先に、おじさんの手を見てしまった。

おじさんも左手を上げていた。

猿と同じ角度で。

怒鳴ったあと、その手が中途半端に残っていたのかもしれない。そう思おうとした。けれど、おじさんの指先は、二度、ゆっくりと曲がった。呼ぶときの動きだった。

俺は何も言えなかった。

信也は気づいていなかった。俺だけが見たのかもしれない。家まで送られるあいだ、おじさんはいつも通りだった。母親に事情を聞かれても、「森で迷っただけだ」と笑っていた。俺たちが牧場のことを言っても、婆さんのことを言っても、猿のことを言っても、誰も本気にはしなかった。

ただ一人、祖母だけが黙っていた。

夜、寝る前に俺の部屋へ来て、襖を少しだけ開けたまま言った。

「呼ばれても、返事するな」
「誰に」
「牛に」

それだけ言って、襖を閉めた。

次の日、信也は学校を休んだ。

その次の日も休んだ。一週間後にようやく顔を出したが、ほとんど口をきかなかった。森の話をすると、目をそらした。猿のことを言っても、婆さんのことを言っても、何も答えない。ただ、牛の数の話だけは、妙に強く否定した。

「最初から五頭だった」

そう言った。

俺は反論した。四頭だったと言った。すると信也は、青い顔で首を振った。

「違う。最初に見たとき、五頭いた。四頭しかいないと思ったのはお前だ」

そこで話は終わった。

その年の秋、例のおじさんがいなくなった。失踪だと聞いた。農機具小屋もそのままで、柿の木だけが残った。大人たちは夜逃げだ何だと噂したが、祖母はその話を聞いたあとで、夕方になる前に戸締まりを確認するようになった。

それから長いこと、俺は牛の森に近づかなかった。

大人になって地元を離れ、帰省の回数も減った。森のことなんて思い出しもしない年が続いた。祖母も死んだ。信也とも疎遠になった。

なのに、三年前、父の葬式で帰った夜、久しぶりにあの声を聞いた。

実家の裏手にある畑で、誰かが低く唸っていた。

牛の声だった。

昔より近かった。

家の窓を閉めても聞こえた。風呂場でも、廊下でも、仏間でも聞こえた。声は一頭分じゃなかった。いくつも重なっていた。低く長く続いたあと、最後だけ人間みたいに途切れた。

……おいで。

はっきりそう聞こえた。

翌朝、母にその話をすると、母は少し考えてから、「最近は森から離れてても聞こえる人がいるらしい」と言った。まるで花粉の話でもするみたいな口ぶりだった。

「聞こえたらどうするの」
と俺が聞くと、母は答えず、仏壇の水を替えた。

そのとき、仏間の外で声がした。

「おーい」

男の声だった。近所のおじさんに似ていた。何年も前にいなくなった、あのおじさんの声に。

母は振り向かなかった。

「出なくていい」とだけ言った。

俺は動けなかった。あのとき森の入口で、たしかに助けられたと思っていた。だが今になると、あの人が本当に外から来たのか、自転車が本当に入口に置いてあったのか、自分でも怪しくなる。

ひとつだけ、昔と変わらないことがある。

呼ぶものは、いつも左手だ。

去年の盆、実家の物置を片づけていたとき、古いアルバムのあいだから、子供の頃の写真が一枚落ちた。森とは無関係の、たしか川遊びの日の写真だ。俺と信也が並んでいて、後ろに数人の大人が立っている。

その端に、近所のおじさんが写っていた。

笑っている。片手を上げている。

左手だった。

その指先が、写真の中でぶれている。偶然そう写っただけだとわかる。わかるが、どう見ても、こっちへ向かって二度、曲がって見える。

それ以来、夜になると窓の外を確かめる癖がついた。

この前も、仕事で遅くなって帰宅したとき、駐車場のフェンスの向こうに誰か立っていた。暗くて顔は見えなかった。ただ、背は低く、少し腰が曲がっていた。じっとこちらを見ていた。街灯が揺れて、影が木の枝みたいに細かく動いた。

そのとき、遠くで牛が鳴いた。

一頭ではなかった。

俺は反射的に玄関へ駆け込んだ。ドアを閉め、鍵をかけ、靴も脱がずに息を殺した。しばらくしてから、ポストに何かが当たる音がした。

朝になって見たが、何も入っていなかった。

ただ、郵便受けの金属の縁に、泥のついた指の跡が四本、斜めに残っていた。人の手の跡なのに、親指の位置がなかった。

最近は、牛の声が聞こえる夜と聞こえない夜がある。

聞こえる夜は、決まってそのあとに、誰かが俺の名前を呼ぶ。

窓の外からとは限らない。玄関の向こう、換気扇の奥、風呂場の排水口、スマホの通話口の向こう。場所は毎回違う。けれど声はいつも、知っている誰かに少しだけ似ている。

まだ返事はしていない。

ただ、この話を書いているあいだに、一度だけ聞こえた。

さっきだ。

部屋の外で、低い声がした。

牛の鳴き声が長く伸びて、最後に、はっきり言葉になった。

「そこにいるのか」

(了)

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