友人から聞いた話だ。
彼は山登りが趣味で、時間があれば山に入っていた。準備の最中、妻はいつも黙って荷造りを手伝う。興味もないくせに、必要以上に丁寧だった。
ある登山で、二日目に突然ひどい腹痛に襲われた。水に当たったのか、立っていられないほどの下痢と脱水で、もう動けないと思ったという。ザックを探ると、入れた覚えのない整腸剤が出てきた。妻の顔が浮かんだ。半信半疑で飲むと、しばらくして症状は治まり、何とか下山できた。
帰宅して礼を言うと、妻は少し考えるようにして言った。
「必要になる気がしただけ」
それ以来、彼は遠出のたびに、見覚えのない物が荷物に紛れ込んでいることに気づくようになった。包帯、止血帯、使い捨ての手袋。どれも使うことはなかったが、妻に理由を聞くと、決まって同じ答えが返ってきた。
「なんとなく」
ある晩、次の山行の準備を終え、地図を見ながらルートを確認していると、玄関で物音がした。妻はもう寝ているはずだった。気になって扉を開けると、薄暗い玄関で妻がしゃがみ込み、彼のザックに何かを詰め込んでいた。
包帯、ガーゼ、消毒液。さらに、見慣れない金属製の添え木のようなものまで入れている。ザックは不自然に膨らんでいた。
「……何してる」
声をかけると、妻は眠そうな目のまま振り返った。
「入れといた方がいい気がして」
「こんなの、使う場面ないだろ」
彼がそう言うと、妻は一瞬だけ黙り込み、首を傾げた。
「……今回は、使わないと思う」
その言い方が妙に引っかかり、彼はその山行きを取りやめた。
数日後、ニュースでその山の遭難事故を知った。滑落事故で数人が負傷し、その中に骨折者が出ていたという。救助が入るまで、応急処置に使われたのは、包帯と簡易の添え木だった。
彼はそれを聞いて、安堵した。行かなくてよかった、と。
だが、ふと思い出して妻に聞いた。
「前に入れてた整腸剤さ。あれ、どこで買ったんだ?」
妻は少し困ったような顔をした。
「買ってないわ」
「じゃあ、どこから?」
しばらく沈黙があったあと、妻は遠くを見るような目で言った。
「この前の山で、使われなかったでしょ。だから、まだ残ってただけ」
意味がわからず聞き返そうとしたが、妻はそれ以上何も言わなかった。
それ以来、彼は気づいている。
妻が入れる物は、彼が使うためのものではない。
彼の山行で使われなかった物が、必ずどこか別の事故の話として、後から耳に入ってくるのだ。
それでも妻は、今日も黙って荷造りを手伝う。
「必要になる気がしたのよ」
その言葉が、誰にとっての必要なのか、彼はもう確かめないことにしている。
(了)