これは、ある若い走り屋が体験したという話だ。
冬が迫る十一月のある夜、大学三年だった彼は、気分転換にいつもの峠へ向かった。
その夜は妙に暖かく、路面は乾き、霧も出ていない。走り屋にとっては申し分のない条件だった。
深夜の峠は、彼一人のものだった。
対向車も後続車もなく、エンジン音だけが闇に吸い込まれていく。
一本目は様子見。
二本目、三本目とペースを上げ、五本目を終えた頃には、車も自分も完全に馴染んでいた。
最後にもう一本だけ。
それを今年の走り納めにしようと、彼は往路を走り切り、復路へと車を向けた。
後付けの計器群が、彼の走りを淡々と記録している。
タコメーター、ブースト計、油圧計。
針の動きが、走るリズムそのものだった。
三速に入れ、アクセルを踏み込んだ瞬間――
バックミラーに、光が映った。
ヘッドライトだった。
この時間、この峠で?
一瞬そう思ったが、追いついてくる様子はない。
距離は一定。詰めてもこないし、離れもしない。
おかしい。
さらにペースを上げる。
コーナーに突っ込んでも、その光は同じ位置に居続ける。
それだけではない。
エンジン音が、聞こえないのだ。
自分の車の音は確かに響いている。
だが、後続車の音だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
彼はミラーから目を離した。
見続けるのが、何かの合図になる気がしたからだ。
アクセルを踏み抜く。
タイヤが鳴き、車体が暴れる。
――次に気がついた時、彼は自宅近くのアパートの駐車場にいた。
エンジンは止まっており、空は白み始めていた。
体がひどく冷えている。
車を見ると、走った痕跡だけは残っていた。
タイヤには溶けたゴムのカス。
サイドウォールには擦れた跡。
だが、どこか決定的な違和感があった。
数か月後、旅行前にバッテリーを外す際、彼は計器のログを確認した。
リセットされる前に、念のため見ておこうと思っただけだった。
走り出しのデータは正常だった。
回転数も速度も、確かに記録されている。
しかし、ある一点を境に――
すべての針が、同時にゼロを示していた。
速度ゼロ。
回転数ゼロ。
油圧ゼロ。
それは、彼がバックミラーの光に気づいた時刻と一致していた。
その後、峠を下りきり、アパートに戻るまでの時間。
計器はずっと「停止中」を示し続けていた。
だが一つだけ、ゼロになっていないものがあった。
シフト操作とブレーキ操作だけは、記録されていた。
走っていないはずの時間に、
彼は確かに、ギアを変え、ブレーキを踏んでいた。
地図で確認すると、
その「停止中」の位置は、峠のどの地点とも一致しなかった。
道がない。
座標そのものが、山の内部を指している。
峠はいまも走り屋で賑わっているという。
事故も特別多くはないらしい。
だが彼は、もうあの峠には行かない。
次に戻ってくる場所が、
駐車場とは限らないことを知っているからだ。
(了)