これは、ある若い走り屋が体験したという話だ。
冬が迫るある晩のことだ。大学三年生の彼は、気分転換に愛車でいつもの峠を走ることにした。十一月にしては暖かい夜で、路面も乾き、霧もない。走り屋にとって絶好のコンディションだ。その峠は深夜ともなれば車通りがほとんどなく、静寂に包まれる。彼はこの夜を「今年の走り納め」と決めて、思う存分ハンドルを握った。
まずは一本目。慎重に路面と車の状態を確かめる。徐々にペースを上げながら、三本目、五本目と走りを重ねた。峠には彼のほか誰一人いない。休憩中も山の中は深い闇と沈黙に包まれ、風も木々のざわめきも感じられない。最後にもう一本だけ走ろうと、往路を駆け抜け、復路へと車をターンさせた。
夜の峠道でのドライビングは、彼にとってある種の儀式だった。速度計や油圧計など、後付けの計器群がそのリズムを記録する。彼は、ホイールスピンを響かせながら車をスタートさせた。三速に入れるまでは無心でアクセルを踏み込む。その時、バックミラーに奇妙な光が映った。
後続車のライトだ。彼は驚き、軽く眉をひそめた。この時間に走る物好きが他にもいるのか? 速度を上げてコーナーへ突っ込むが、その光は一定の距離を保ち続ける。差を詰めるでも、遠ざかるでもなく、不自然なまでに追随してくる。
二、三のカーブを抜けた時、彼は次第に不安を覚え始めた。このペースで走る車が追いつけるのか? しかもエンジン音が一切聞こえない。その車のマフラーは、まるで何かに消音されているようだ。冷静さを失いかけた彼は、後ろを振り返ることもせず、アクセルを一層強く踏み込んだ。タイヤのスリップ音が闇に響き渡る。
気が付くと、山を下りきり、自宅近くのアパートまで戻ってきていた。明け方の冷たい空気に包まれ、彼はようやく一息ついた。車を確認すると、昨夜の激走の証拠のように、タイヤには削れたゴムのカスがこびりつき、サイドウォールにまで擦れた跡が残っている。
だが、彼にはどうしても理解できないことがあった。その夜、計器に記録されたデータだ。春先、旅行前にバッテリーを外すため、リセットされる前にデータを確認しようと再生した彼は、奇妙な現象に息を飲んだ。
発進直後は正常な数値が記録されている。タコメーターの針が跳ね上がり、加減速が繰り返されている様子がわかる。しかし、彼がバックミラーの光に気づいた時間帯に差し掛かると、すべての計器の針が一斉にゼロを示した。まるで車が停車してアイドリング状態になったかのように。だが、彼はその時、確かに限界まで車を飛ばしていたはずだ。
計器の記録は、彼が「走っていなかった」ことを示していた。では、彼は一体どこを走っていたのか? 何が彼を導いていたのか?
峠道は今、再び走り屋たちで賑わっているという。しかし彼はもうその峠には戻れない。次に帰れる保証は、どこにもないのだから。