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中編 山にまつわる怖い話 n+2026 オリジナル作品

山は、つながっている nc+

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一度だけ、妙な山の話を聞いたことがある。

語ったのは酒の席で知り合った男で、地元から遠く離れた場所に住んでいると言っていた。年末年始に帰省した折、昔のことを思い出したのだという。

その話の始まりは、今から四半世紀ほど前。
男が中学生から高校生になる頃、仲間数人とよく近くの低山を歩いていたらしい。標高は高くないが、尾根と谷が複雑に絡み、藪を抜ければ地図にない踏み跡が続いていた。

当時は、アウトドアという言葉が流行りはじめた頃で、正式な装備も知識もないまま、探検ごっこの延長のように山へ入っていたという。
地図に載らない道を見つけるたび、勝手に名前を付け、制覇した気分になっていたそうだ。

その日も、いつものように藪を押し分けて進んでいた。
笹や低木が湿った音を立て、足元の土は柔らかく、靴底が浅く沈む。風は一定で、遠くの沢の音だけが低く響いていた。

やがて、不意に視界が開けた。
草丈の低いカヤが一面に広がり、風に合わせて同じ方向へ揺れている。稜線のような、しかし頂上とは言い切れない、不思議な平坦さがあった。

遮るものがなく、ぐるりと三百六十度、山並みが見えたという。
遠近の感覚が曖昧で、どの山も等距離にあるように感じられたらしい。

光は均一だった。
雲の影も、木立の陰もなく、空は低く、しかし圧迫感はなかった。むしろ、軽い。
空が近いのではなく、地面が薄い。そんな印象を受けたと男は言った。

足の裏に、頼りなさがあった。
一枚皮膚を隔てた向こうに、別の層があるような、踏み抜いてしまいそうな感触。
それが、なぜか心地よくもあったという。

その場では、誰も言葉にしなかった。

だが、全員が似た感覚を抱いていたらしい。時間が引き延ばされ、呼吸が浅くなり、鼓動だけがやけに大きく聞こえた。

腕時計を見て、はっとした者がいた。
日没までの時間を考えると、長居はできない。理屈ではそう理解していたが、足が動きにくかったという。

一歩踏み出すたび、地面の反応が遅れる。
踏んでから、返ってくるまでに、わずかな間がある。
その間に、風の音が増幅されるように感じられた。

誰かが笑って、冗談めかして言った。
「また来よう。次は、もっと先まで行ける」
その言葉で、ようやく空気が動いた。

引き返す途中、何度も振り返りたくなったそうだ。
背中に、呼ばれているような感覚があったが、振り向くと消えてしまいそうで、視線を前に固定した。

山を下りきったとき、急に疲労が押し寄せた。
足が重くなり、汗が冷え、喉が渇いた。
先ほどまでの軽さが、嘘のようだった。

別れ際、誰かが「あそこ、変だったな」と言いかけたが、言葉を濁して終わった。
それ以上、話題にする者はいなかったという。

男は、そのときの感情を「嬉しさでも怖さでもない」と表現した。
ただ、身体の置き場を間違えたような、微妙なずれ。
そのずれが、記憶に残った。

一週間後、同じ仲間で再び山に入った。

同じ入口、同じ尾根、同じ時間帯。
だが、どうしても、あの場所に出られなかった。

藪を抜けても、視界は開けない。
尾根を越えても、谷を詰めても、地形が合わない。
地図と現実が噛み合わず、何度も立ち止まった。

不思議なことに、疲労だけは溜まった。
距離を歩いているはずなのに、目印になるものが一切見つからない。
同じ場所を回っているような感覚があったという。

結局、その日は引き返した。
誰も口に出さなかったが、「幻だったんじゃないか」という空気があった。
それ以降、その話題は自然に消えた。

時は流れ、男は地元を離れた。
仕事と家庭を持ち、山に入ることもなくなった。
あの稜線の記憶は、意識の底に沈んでいた。

それが、正月休みに再び浮上する。
遠く離れた土地で暮らす男が、退屈した子どもにせがまれ、住宅地裏の丘陵地を散歩していたときのことだ。

整備された遊歩道で、危険はないはずだった。
曲がり角をひとつ越えた瞬間、足が止まった。

目の前に、あの稜線があったという。
標高も、土地も、何もかも違うはずなのに、草の揺れ方、風の抜け方、空の色が同じだった。

子どもは先へ進もうとして、不思議そうに振り返った。
「あそこ、行かないの?」
その声で、男は一歩も動けなくなった。

理由はなかった。
ただ、行けば戻れない、という確信だけがあったそうだ。

その夜、男は久しぶりに昔の仲間の名前を検索した。

数人とは連絡が取れなかった。
理由は分からない。消息不明という言葉だけが、画面に残った。

さらに後年、別の話を聞いたという。
海外出張からの帰り、新潟上空を通過した飛行機の中で、知人が奇妙なものを見た。

フライトマップを眺めていると、雪に覆われた山の一角に、黒い輪があった。
影が集まっているのではなく、何かが回っていたらしい。

盆踊りの輪のように、ゆっくり、規則正しく。
黒い点が七つか八つ、歪みながら同じ軌道をなぞっていた。

隣の席に声をかけようとして、やめたという。
「見せてはいけない」と、身体が先に判断した。

輪の中心には、何もなかった。
空間だけが、ぽっかりと抜けているように見えたそうだ。

また、別の筋から、釣りの話も伝わってきた。
山奥のダム湖で、波紋だけが対岸へ進んでいった。
泳ぐものは、何も見えなかった。

仲間は言ったという。
「あれ、多分“通った”だけだ」
何が、と聞くと、「場所が、だよ」と。

男は、これらの話を並べて、こう締めくくった。
稜線も、空の輪も、水の波紋も、すべて「山そのもの」だったのではないか、と。

山は動かないと思っているのは人間だけで、実際には層になり、重なり、場所を選ばず現れる。
入ってはいけない場所、見てはいけない高さ、触れてはいけない水面。
それらは同じ境界線だ。

もし、あのとき一歩踏み出していたら。
もし、輪を指差していたら。
もし、波紋に近づいていたら。

今ここで、この話をしている人物自体が、少し違う層に立っていたのかもしれない。
山は今もつながっている。
気づかれないように、静かに、こちら側と入れ替わりながら。

(了)

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