その部屋は、常に微温い泥のような空気に満ちていた。
大学院の研究棟、地下二階にある第三実験室。防音壁に囲まれた閉鎖空間は、換気扇が低く唸る音と、無数に積まれたハードディスクの駆動音だけが支配している。蛍光灯の一本が寿命を迎えかけているらしく、不規則な点滅を繰り返すたびに、部屋の隅に落ちる影が生き物のように伸縮した。
鼻をつくのは、焦げたコーヒーの匂いと、埃っぽい紙の匂い、そして友人のNが纏う独特の体臭だ。それは何日も風呂に入っていない酸っぱい汗の臭いと、緊張状態で分泌される脂汗のそれが混じり合った、不快な獣の気配に似ていた。
私はパイプ椅子に浅く腰掛け、Nの背中を見つめていた。彼は三つのモニターに囲まれ、背中を極端に丸めて画面に没入している。画面には、音声解析ソフトの複雑な波形が緑色に明滅しながら流れていた。
「……それで、今日は何を聞かせたいんだ」
私が尋ねると、Nは振り返りもせずに片手を挙げ、制止の合図を送ってきた。彼の指先は小刻みに震えている。キーボードを叩く音が、神経質なリズムで響く。
「待て。今、ノイズを除去している。……もう少しで、純粋な『それ』だけが残る」
Nの声は、何日も誰とも口を利いていない人間のそれだった。掠れて、乾いていて、どこか調律の狂った楽器のような響きがある。
彼は心理学専攻の院生で、進化心理学の観点から「笑い」の起源を探る研究をしていた。当初の彼は、ユーモアが人間関係の潤滑油としてどう機能するか、あるいは免疫系に与えるポジティブな影響といった、明るいテーマを扱っていたはずだ。彼のプレゼンは知的で、適度なウィットに富み、教授陣からも評価が高かった。
だが、半年ほど前から様子が変わった。
彼は「笑いの二面性」に固執し始めたのだ。笑顔はもともと、猿が敵に対して歯列を見せつける「威嚇」の表情から進化したという説がある。Nはその説にのめり込み、やがて異様な仮説を口にするようになった。
『笑いは、社会的なシグナルじゃない。あれは、もっと原始的で、もっと危険な排泄行為だ』
カチ、と乾いた音がして、Nがエンターキーを強く叩いた。
「できた」
椅子を回転させ、Nがこちらを向く。その顔を見て、私は息を呑んだ。
眼窩が窪み、目の下にはどす黒い隈が垂れ下がっている。頬は削げ落ち、無精髭が肌を覆っているが、何より異様なのはその目だった。焦点が定まっていないようでいて、私の背後にある「何か」を凝視しているような、虚ろな輝き。
「ヘッドホンをしてくれ。ボリュームは最大にしないでいい。……聞こえるはずだ」
私は渡された業務用ヘッドホンを耳に当てた。重たいイヤーパッドが、外界の音を遮断する。
Nが再生ボタンを押した。
最初は、ザラザラとしたホワイトノイズだけが聞こえた。
数秒後、波の底から浮かび上がるように、声が聞こえてきた。
――ヒッ、ヒッ、フッ、ハハ……。
笑い声だ。だが、それは私の知る「笑い」とは決定的に異なっていた。
楽しさも、可笑しさも、安らぎもない。ただ横隔膜が痙攣し、喉の奥から空気が強制的に押し出される時の、摩擦音に近い。錆びた蝶番を無理やり動かしたような、あるいは湿った布を引き裂くような、生理的な不快感を催す音。
「これは?」
ヘッドホンを外して尋ねると、Nは唇を歪めて――笑った。いや、頬の筋肉をひきつらせて歯茎を剥き出しにした。
「被験者A。二十代男性。コメディ映画を見せて、一番笑った瞬間の音声をサンプリングした。そこから、歓喜や興奮といった『感情の周波数』だけをデジタル処理で削除したんだ」
Nは早口でまくし立てる。
「感情を抜いたあとに残ったもの。それが、これだ。純粋な身体反応としての笑い。……どう思った?」
「……気味が悪いな。まるで、苦しんでいるみたいだ」
「そうだろう!」
Nが椅子を蹴るようにして立ち上がり、私に詰め寄ってきた。強烈な口臭が漂う。
「苦しみなんだよ。笑いっていうのは、本質的には『拒絶』の反応なんだ。異物に対する痙攣。それを脳が『楽しい』と誤認させることで、俺たちは精神の崩壊を防いでいる。だが、その誤認回路を取り払ったら……俺たちは、何に対して歯を剥き出しにしていると思う?」
その夜、Nの下宿に招かれた。彼が「決定的な証拠を見つけた」と言ってきかなかったからだ。
築四十年を超える木造アパートの一室。六畳の畳部屋は、足の踏み場もないほどに文献のコピーと古書で埋め尽くされていた。カーテンは締め切られ、部屋の四隅には盛り塩が置かれている。科学を信奉していたはずの彼が、神頼みのような真似をしていることに、私は薄ら寒いものを感じた。
部屋の中央、唯一スペースが空けられたちゃぶ台の上に、一冊の古いノートが置かれていた。
「十六世紀のイタリアだ」
Nは震える手でタバコに火を点けながら言った。紫煙が天井の染みに吸い込まれていく。
「ある修道医が残した記録を見つけた。翻訳するのに苦労したが、間違いない。ある村で起きた奇病の記録だ」
Nの語るところによれば、その村ではある日突然、一人の農夫が笑い出したのを皮切りに、村全体に笑いが伝染したという。
だが、それは楽しげな光景ではなかった。
村人たちは畑仕事の最中も、食事中も、眠っている間さえも笑い続けた。顔の筋肉は拘縮し、口角は耳まで裂け、涙を流しながら笑い続ける。やがて彼らは呼吸困難に陥り、あるいは極度の疲労による心停止で次々と死んでいった。
修道医は、死にゆく村人の一人が、最期にこう言い残したと記している。
――『面白いから笑っているのではない。奴らが、私を使って笑っているのだ』
「奴ら、とは?」
私が尋ねると、Nは急に黙り込んだ。そして、部屋の隅、天井の角をじっと見つめた。そこにはただ、湿気で浮き上がった壁紙の黒ずみがあるだけだ。
「……俺の研究室でのことだ」
Nが声を潜めた。まるで、壁の向こうに盗聴者がいるかのように。
「笑いのデータを解析していると、時々、変な隙間があることに気づいたんだ。笑い声と笑い声の間。息継ぎの瞬間。そこにあるはずのない『音』が混じっている」
「ノイズだろう?」
「違う。意図的な配列を持った信号だ。俺は最初、録音機材の不調だと思った。でも、あらゆる音源でそれが確認された。テレビのバラエティ番組、街中の雑踏、赤ん坊の笑い声……すべての中に、微細な、人間の可聴域ギリギリの周波数で、同じパターンが埋め込まれている」
Nはノートをめくり、手書きのグラフを指差した。
不規則に見える波形の中に、確かに一定の周期で現れる、棘のような鋭いピークがあった。
「俺たちが笑うとき、喉の奥が特定の形に開く。それがアンテナになるんだ」
Nの論理は飛躍していた。しかし、その瞳の奥にある確信めいた光が、私の否定を封じ込める。
「笑うことで、俺たちは身体を楽器にして、ある周波数を共鳴させている。誰に向けて? 何のために? ……それを突き止めようとして、俺は逆位相の音をぶつけてみたんだ。その信号を相殺しようとした」
Nはタバコを灰皿に押し付けた。火種がジュッと音を立てて消える。
「そしたら、聞こえたんだ」
部屋の空気が、急激に冷えた気がした。
私の首筋に、じわりと嫌な汗が滲む。Nの視線は、まだ天井の隅に釘付けになっている。
「何が、聞こえたんだ」
「笑い声だよ」
Nがこちらを向いた。その顔は、泣き出しそうに歪んでいるのに、口元だけが奇妙に緩んでいた。
「録音じゃない。スピーカーからでもない。俺のすぐ後ろ。右耳の裏あたりで、誰かがはっきりと笑ったんだ。『見つかったね』って言うみたいに」
その瞬間、部屋の冷蔵庫がブーンと唸りを上げてコンプレッサーを作動させた。私はビクリと肩を跳ねさせたが、Nは微動だにしなかった。彼はもう、日常の音には反応しなくなっていた。彼が怯えているのは、もっと別の、私には聞こえない音なのだ。
「それからだ。俺が笑おうとすると、止められるようになった」
「止められる?」
「口を塞がれるんだ。見えない手で。……いや、違うな。俺の顔の筋肉が、俺の意思とは逆の動きをする。笑おうとすると、引きつって、真顔に戻される。逆に、悲しい時や、辛い時、俺の顔は勝手に……」
Nは両手で顔を覆った。指の隙間から、くぐもった声が漏れる。
「なぁ、俺の顔、今どうなってる? 俺は今、すごく怖いんだ。震えが止まらないんだ。なのに」
私はNの手首を掴み、無理やり引き剥がした。
そこにあった顔を見て、私は言葉を失った。
Nは満面の笑みを浮かべていた。
目尻は下がり、口角は限界まで吊り上がり、真っ白な歯がすべて露出している。これ以上ないほどの歓喜の表情。しかし、その目からは大粒の涙がボロボロと溢れ出し、喉からはヒューヒューという引きつった呼吸音が漏れていた。
顔面と感情が完全に乖離している。
「助けてくれ」
Nの唇が、笑顔の形のまま動いた。
「あいつが、俺に入ってこようとしている」
Nの異様な笑顔は、数秒間続いた後、糸が切れたように崩れ落ちた。彼は畳に手をつき、激しく咳き込んだ。唾液が畳に落ちて黒い染みを作る。
「……帰ってくれ」
Nは床に伏したまま、呻くように言った。
「もう、誰とも会わないほうがいい。俺の近くにいると、お前も『調律』される」
私はかける言葉が見つからず、逃げるように彼のアパートを後にした。
外に出ると、夜の街は静まり返っていた。遠くを走る車の走行音が、潮騒のように聞こえる。私は自分の頬を強くつねってみた。痛みがある。筋肉は私の意思通りに動く。
だが、Nのあの張り付いたような笑顔が、網膜に焼き付いて離れなかった。
それから一週間、Nとは連絡が取れなくなった。
大学にも姿を見せず、電話も繋がらない。
胸騒ぎを抑えきれず、私は再び彼のアパートを訪ねた。夕暮れ時、空は赤黒く濁り、カラスの鳴き声が不吉に響いていた。
アパートの鉄階段を上ると、Nの部屋のドアには鍵がかかっていなかった。
ノブを回すと、重たい手応えと共にドアが開く。
「N、いるか?」
返事はない。
玄関に足を踏み入れた瞬間、異質な匂いが鼻腔を突いた。
それは前回の獣臭さとは違う。もっと無機質な、金属が錆びたような、あるいは古くなったゴムのような匂い。そして、微かに甘い、腐敗の予兆を含んだ香り。
部屋の中は、変貌していた。
壁という壁に、段ボール製の卵パックがびっしりと貼り付けられている。簡易的な防音壁だ。窓は黒いガムテープで目張りされ、外光は一切遮断されている。唯一の光源は、ちゃぶ台の上に置かれたノートパソコンのモニターだけだった。青白い光が、荒れ果てた部屋を寒々しく照らしている。
Nの姿はなかった。
ただ、部屋の中央に、一脚の椅子が置かれ、その上に高性能なICレコーダーが鎮座していた。赤い録音ランプは消えている。
私は靴を脱ぐのも忘れ、土足のまま畳に上がり込んだ。足裏にジャリッとした感触がある。床には砕けたプラスチック片や、引きちぎられた紙屑が散乱していた。
パソコンの画面を覗き込む。
テキストエディタが開かれたままで、そこには乱雑な文字が打ち込まれていた。
『笑ってはいけない』
『歯を見せるな』
『受信するな』
『共鳴したら終わり』
『俺は入り口だった』
そして、画面の最後には、一際大きなフォントでこう書かれていた。
『次は、これを読んでいるお前の番だ』
背筋が凍りつくのを感じた。
これは遺書か? それとも警告か?
私は椅子の上に置かれたICレコーダーに手を伸ばした。再生ボタンに指をかける。躊躇いが胸をよぎったが、Nの行方を知る手がかりはこれしかなかった。
指先に力を込める。
カチッ。
スピーカーから流れてきたのは、静寂だった。
いや、完全な無音ではない。衣擦れの音、荒い呼吸音、そして時折混じる湿った水音が聞こえる。誰かが、マイクのすぐそばで何かに耐えているような気配。
一分ほど、その不快な沈黙が続いた。
そして、唐突にNの声が響いた。
『……俺は、もう駄目だ。止められない』
声は震え、途切れがちだった。
『奴らは、俺たちの感情なんてどうでもいいんだ。俺たちが歯を剥き出しにして、喉を開いて、空気を震わせる。その物理現象だけを欲している。笑いは……笑いは、奴らを呼ぶためのビーコンだ』
ガタン、と何かが倒れる音がした。
『来るな! 入ってくるな! 俺の口を使うな!』
Nが絶叫する。
直後、ゴボッという音がして、絶叫が途切れた。まるで、口の中に大量の泥を詰め込まれたような、詰まった音。
続いて聞こえてきたのは、笑い声だった。
前編で聞いた、あのサンプリングされた笑い声ではない。
もっと生々しく、もっと暴力的な、人間の声帯の限界を超えた高音の笑い。
ケケケケケケケケケ、ヒギィ、アハハハハハハハハ!
呼吸の継ぎ目がない。吸気も呼気もなく、ただ延々と爆発的な破裂音が連続している。
それはNの声だった。だが、Nの意志はそこにはない。彼の身体という器を使って、別の何かが、この世界に音を撒き散らしている。
私はレコーダーを取り落とした。
床に落ちたレコーダーは、まだ回り続けている。
『……見つけた』
笑い声が止み、低い、しわがれた声が聞こえた。
それはNの声でも、人間のものでもなかった。
『次ハ、聞イテイル、オ前ダ』
プツン。
録音が終了した。
部屋に、完全な静寂が戻る。
いや、違う。
私の背後。
黒いガムテープで目張りされた窓の隙間から、微かな風切り音が聞こえる。
そして、私の右耳のすぐ後ろで、
――クスッ。
と、小さな、含み笑いが聞こえた。
私は弾かれたように振り返った。
誰もいない。
卵パックで覆われた灰色の壁が、無表情に私を見下ろしているだけだ。
だが、気配は消えない。うなじの産毛が逆立つような、冷たい視線が肌にまとわりついている。
私はパソコンもレコーダーもそのままに、Nの部屋を飛び出した。
階段を転げ落ちるように駆け下り、通りに出る。心臓が早鐘を打ち、呼吸がうまくできない。
逃げなければ。どこへ? 分からない。とにかく、あの部屋から、あの「声」から距離を取りたかった。
自宅に戻ったのは、深夜二時を回っていた。
鍵を二重にかけ、チェーンを掛け、さらにドアノブに椅子を立てかけた。カーテンを閉め切り、テレビをつけて音量を上げる。ニュースキャスターの無難な声と、天気予報の明るいジングルが部屋に満ちる。
それでようやく、少しだけ人心地がついた。
Nはどうなったのだろう。あの録音の後、彼はどこへ消えたのか。警察に通報すべきか? だが、何を話せばいい? 「友人が笑いに取り憑かれて消えた」などと話せば、私が狂ったと思われるだけだ。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干す。
冷たい水が食道を通る感覚で、高ぶった神経が少し鎮静化する。
ふと、テレビ画面に目が止まった。
深夜のバラエティ番組の再放送だ。ひな壇に座った芸人たちが、司会者の言葉に一斉に手を叩いて笑っている。
普段なら何気なく見過ごす光景。
だが、今の私には、それが異様な儀式に見えた。
彼らは一様に口を大きく開け、白い歯列を剥き出しにしている。目は笑っていない者もいる。それでも口元だけは、定規で引いたように吊り上がっている。
――ガハハハハハ!
テレビから流れる笑い声。
その音声の背後に、私は聞いてしまった。
あの「ノイズ」を。
笑い声と笑い声の隙間。コンマ数秒の空白に埋め込まれた、ジジッ、ジジッという、虫の羽音のような信号。
Nが言っていた通りだ。
世界中は、この信号で満ちている。
私はリモコンを掴み、テレビを消した。
プン、という音と共に画面が暗転し、部屋が静寂に包まれる。
その静寂の中で、私は自分の身体に起きている異変に気づいた。
顔が、熱い。
頬の筋肉が、ピクピクと痙攣している。
怖い。恐ろしい。Nの身に起きたことが、今まさに自分の身に起ころうとしている恐怖。
なのに、どうしてだろう。
腹の底から、熱い塊がせり上がってくる。
喉がムズムズする。
横隔膜が、小さく跳ねる。
――笑いたい。
そんな感情は微塵もないのに、身体機能としての「笑い」が、暴発寸前まで膨れ上がっている。
私は両手で口を覆った。
漏らしてはいけない。声を出してはいけない。音を出せば、それが合図になる。あいつらが、ここを特定する座標になる。
だが、止められない。
指の隙間から、空気が漏れる。
「……ふっ」
その小さな音は、静かな部屋の中で爆音のように響いた。
直後、部屋の空気が変わった。
気圧が急激に下がったように、耳がツンとする。
天井の隅、ベッドの下、クローゼットの隙間。あらゆる影が濃くなり、そこから視線を感じる。
一人ではない。
十、二十、いや百。
無数の「何か」が、私の部屋に雪崩れ込んできた気配。
私の意思とは無関係に、覆っていた手がゆっくりと外れた。
顎の関節が、バキリと音を立てて開く。
唇が左右に引き裂かれるように広がる。
鏡を見なくても分かる。私は今、Nと同じ顔をしている。
満面の、これ以上ないほどの笑顔。
私の喉から、乾いた音が転がり出た。
「あ、は……」
それは私の声ではなかった。
もっと古く、もっと野太い、見知らぬ誰かの声が、私の声帯を震わせていた。
絶望の中で、私は理解した。
これは「感染」ではない。
私たちは最初から、彼らのための「楽器」だったのだ。
人間が進化の過程で「笑い」という生理現象を獲得したのではない。彼らが、この次元に干渉するために、人間という種に「笑い」というバックドアを実装させたのだ。
だから、誰も逃れられない。
笑うことは、彼らを招き入れること。
そして私は今、盛大に彼らを歓迎している。
「アハハハハハハハハハハハハハ!」
私の口から、絶叫のような哄笑が噴き出した。
止まらない。息ができない。腹筋が千切れそうだ。
視界が涙で滲む中、私は部屋の隅に、ぼんやりと人影が立っているのを見た。
Nだった。
彼は首を傾げ、私を見つめている。その顔には、目も鼻もなく、ただ巨大な、三日月型の口だけが裂けていた。
Nの口が動く。声は聞こえないが、唇の動きで分かった。
『ようこそ』
私は笑い続けた。
肺の空気が尽き、心臓が悲鳴を上げても、この痙攣は止まらないだろう。
意識が薄れていく中で、私は奇妙な安堵を感じていた。
もう、怖がる必要はない。
私は「笑う側」になったのだから。
私の口から迸る笑い声は、やがて部屋の壁を越え、夜の街へと響き渡っていった。
誰かがそれを聞いて、つられて笑うのを待ちながら。
(了)