これは、大学時代の知人から聞いた話だ。
彼はその出来事を思い出すたび、決まって言葉を選びながら、「あれは本当に洒落にならなかった」とだけ口にする。
大学一年の夏、彼はアルバイトをクビになり、昼夜の区別もつかない生活を送っていた。異様な蒸し暑さが続き、夜になっても空気は重く、布団に入っても眠りは浅かったという。
その夜、彼は奇妙な夢を見た。
自分の部屋に立っている。ただ立っているだけだ。何も起こらないはずの静かな時間の中で、不意に玄関のチャイムが鳴った。「ピンポーン」。妙に耳に残る音だった。
反射的に玄関を開ける。そこに立っていたのは、白い服が赤黒く染まった女だった。血に濡れた姿で、じっとこちらを見つめ、微笑んでいた。
その瞬間、彼は目を覚ました。
全身が汗で濡れていた。心臓の鼓動が異様に早く、外では雨が降っていたらしく、窓を叩く音がやけに大きく聞こえた。時計は午前三時を少し回っていた。
嫌な夢だった。二度と見たくないと思いながら、彼は布団の中で目を閉じたまま、雨音に意識を押し付けていた。
そのとき、また音がした。
「ピンポーン。」
一瞬、夢の続きを見ているのかと思った。しかし、音ははっきりと現実の距離感を伴っていた。彼の部屋に備え付けられていた、モニター付きのドアホンが反応する音だ。
ロフトから身を乗り出し、恐る恐るモニターを見ると、画面が点灯していた。映像は映っていない。ただ、誰かが呼び出したときと同じ状態だった。
再びチャイムが鳴る。
「ピンポーン。」
彼はしばらく動けなかった。だが、画面に何も映らないことが、逆に耐え難くなった。チェーンをかけたまま、ゆっくりとドアを開ける。
玄関先には誰もいなかった。濡れたアスファルトの匂いだけが漂い、雨に打たれた夜道が続いているだけだった。
安堵しかけた、そのときだった。
視線を感じて顔を上げると、少し離れた小道の先に、人影が立っていた。
白い服の女だった。
服は濡れ、色は暗く滲み、こちらを見ている。距離があるのに、表情だけははっきり分かった。夢の中と同じ、あの笑い方だった。
彼は声を出せなかった。ただドアを閉め、鍵をかけ、背中を扉に押し付けた。その夜は、イヤホンで音楽を流し続け、朝になるのを待つしかなかったという。
翌朝、外には何の痕跡もなかった。誰かが立っていた形跡も、血の跡も、濡れた足跡すらない。
それからしばらくして、アパートの前で、時々、動物の死骸を見かけるようになった。最初は気のせいだと思った。次第に、それを数えなくなった。
彼はこの話を、決して怖がるようには語らない。ただ淡々と、事実だけを並べる。
最後に、ぽつりと、こんなことを言った。
「夢には、もう出てこないんだ。でもさ、夜中にふと外を見ると、誰かが見てる気がする時がある」
それが外なのか、玄関なのか、モニターなのか。
そこまでは、彼も話さなかった。
(了)
[出典:58 本当にあった怖い名無し sage New! 2012/02/26(日) 22:31:30.68 ID:o/eaGjCH0]