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長編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

押し入れの上段 rw+9,834-0106

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大学時代の友人と久々に飲んだ。

懐かしさに油断して気づけば終電はとっくに終わっていた。タクシーで帰るのも面倒で友人が「職場の後輩の部屋、泊めてもらえるかも」と言い出した。俺は軽い気持ちで頷いた。終電を逃した夜に必要なのは倫理じゃなく寝床だとそのときの俺は本気で思っていた。

着いたのは新築の3LDKマンションだった。オートロックのエントランス無駄に広いロビー磨かれた床。金持ちの家の出らしいという友人の説明がやけにしっくり来る。出迎えた男は初対面で目を合わせるのが下手な静かな男だった。声は小さく丁寧で笑い方も薄い。靴を揃える仕草だけが妙にきっちりしている。

「すみません。ここに布団を敷きます。僕の部屋は汚いので押し入れだけは開けないでくださいね」

そう言い残して男は奥の部屋へ消えた。

玄関脇の廊下に布団を敷いてもらい俺はそこに転がった。眠気はあるのに鼻が勝手に起きている。薄暗い廊下には防虫剤のツンとした匂いが漂っていた。その下に甘ったるい生臭さが混ざっている。生肉のような古い花瓶の水のような言葉にすると気持ちが悪くなる匂いだ。しかもそれが布団に染み付いている。布団をどけて床に鼻を近づけると匂いは床ではなく布団のほうから立っていた。

やめとけと理性が言った。けれど怖いもの見たさが勝った。人間の好奇心はだいたい自分の安全より先に走る。スマホのライトをつけ押し入れの襖に手をかけた。木の縁はべたついていた。汗なのか別の何かなのか分からない。

そっと開けた瞬間息が止まった。

上段に金色に雑に塗られたマネキンの腕と脚がブルーシートの上に積み重なっていた。塗料のムラが皮膚のように見え関節の切断面が妙に生々しい。圧縮パックには汚れたぬいぐるみと腐りかけた花が押し潰されている。花は色が死んでいるのに匂いだけは生きていた。防虫剤と消臭剤がやけくそみたいに撒かれ白い粒が雪みたいに散っている。

その奥には袋に入ったままのパンと乾ききった弁当が積み重なっていた。食べ物というより供え物に見える。空腹のためではなく別の理由で置かれている気配がした。

壁にも目が行った。黒いペンで描かれた幾何学模様がいくつも貼られている。マンダラに似ているが整然としていない。中心がずれていて線が途中で切れ何かを誤魔化すように塗り潰されている。写真もあった。僧侶のような男が炎の前で祈っている写真が何枚もある。どれも似た構図でどれも顔がはっきりしない。宗教というより儀式の記録だ。それも人に見せるためではなく自分に刷り込むための反復に見えた。

嫌な汗が背中に溜まった。閉めようとしたそのときだった。

足元の襖が音もなくゆっくりと動いた。

俺の体は固まった。足音はしない。けれど何かが布団の周囲を回っている。人が動くときの空気の撹拌だけが分かる。息を吸うたびあの甘ったるい生臭さが喉の奥に貼りついた。視線だけで押し入れを見ると開けたままの闇が口を開けている。俺はようやく自分が最悪のことをしたと理解した。開けるなと言われたものを開けた。相手がまともである保証はどこにもないのに。

気配が押し入れの前で止まった。襖をそっと閉め直すような気配がした。俺の指先が小刻みに震える。目を閉じたまま俺は寝たふりをした。いま目を開けたら終わる。理由は説明できないのに結論だけは確信だった。

次に気配は布団の頭側へ移動しじっと立った。

スー……スー……

呼吸音が聞こえる。距離が近い。顔に当たるほどだ。皮膚の上を冷たい空気がなぞる。俺はまぶたの裏に光を作らないよう必死で呼吸を殺した。酔いが一気に醒め心臓だけが酔っ払いみたいに暴れた。

そのままどれくらいの時間が過ぎたのか分からない。金属がわずかに擦れるような音がした。何かを持ち替えたのか置いたのか判断できない程度の音だった。それがかえって怖かった。

やがて気配はゆっくり離れ部屋の奥へ引いていった。ドアが閉まる音がした。俺は数十秒動けなかった。呼吸の音が自分のものだと確認してからようやく体を起こした。荷物をまとめる音が爆音に聞こえる。鍵を開ける音が世界に響く気がする。だが男は出てこなかった。

廊下の先に立っている姿を想像して足がすくんだ。けれどそこは暗く誰もいない。俺は玄関を抜けエレベーターを待たず階段で降りた。足がもつれる。踊り場の窓から外の街灯が見えたとき初めて現実に戻れた気がした。外へ出て最初に捕まえたタクシーに飛び乗り住所を告げた。声が裏返ったがそんなことを気にする余裕はなかった。

翌朝友人を叩き起こし「お前の後輩何者なんだ」と詰めた。友人は寝ぼけ顔でありえないことを言った。

「え? あいつ昨日の日雇い派遣で初めて来たやつだよ。帰りに勝手についてきてさ。断りそびれたんだよな」

俺は胃が冷えた。職場の後輩でもない。住所を知っている相手でもない。そんな男の家に俺は勝手に上がったことになる。

派遣元に問い合わせたが個人情報は開示できないの一点張りだった。警察にも相談した。だが実害がない証拠がないで終わった。男の電話番号は繋がらなくなり友人の職場にもそんな人間はいないことになった。気づけば俺の記憶の中で男の顔だけがどんどん薄くなる。それが一番怖かった。現実の出来事ほど時間に削られて消える。

それから三年が経った。俺は結婚し離婚し転職し二度引っ越した。あの夜のことは思い出しても意味がない出来事として頭の奥に沈めていた。怖い話は怖いままで終わるから成立する。現実はそうならない。現実は忘れた頃に続きを差し出してくる。

先月会社のデスクの滅多に開けない引き出しを整理していたときそれは出てきた。三年前に失くしたはずの名刺入れだ。革の角が少し擦れていて見覚えがある。触った瞬間あの廊下の匂いが一瞬だけ鼻の奥で蘇った。

中身は当時のまま残っていた。カード類も折れ癖も入れ方も。なのに俺の身元が分かるものだけが綺麗に抜かれていた。免許証のコピー住所のメモ家族の連絡先名刺も自分の部署が分かるものだけがない。盗むなら全部盗めばいい。抜くなら雑に抜けばいい。なのにこれは選別だ。要るものだけ持ちいらないものは戻した手つきだ。

俺は名刺入れを机の上に置きしばらく眺めた。これがどこから戻ってきたのか考えないようにした。考えたところで答えは出ないし答えが出たら出たでたぶん取り返しがつかない。

この三年間俺のことを誰かがずっと追っていたのかもしれない。追っていたのは男なのかそれとも押し入れの上段に積まれていた金色の手足がようやく持ち主を見つけたのか。どちらでも同じだ。どちらも俺の生活の外側から静かにこちらを覗いている。

あの夜目を開けなかったのは正解だった。目を開けたら俺はたぶんいまここにいない。

そしていまも分からない。あの男は俺が押し入れを開けたことに気づいたのか。気づいたからあそこに立っていたのか。それとも最初から立つ予定だったのか。

どっちでも嫌になるほど辻褄が合う。

[出典:47 :本当にあった怖い名無し:2016/09/15(木) 17:40:10.76 ID:5fAaBFJm0.net]

後日談:鍵の所在

あの夜のことは正直よく覚えていない。

飲みすぎたせいもあるし眠れなかったせいもある。ただ一つはっきりしているのは朝になって目を覚ましたとき部屋に誰もいなかったことだ。泊めたはずの友人も廊下に敷いた布団もきれいに消えていた。逃げるみたいにいなくなったんだなと思ったが不思議と腹は立たなかった。

それより気になったのは鍵だった。

玄関のチェーンは外れていた。オートロックのログを確認すると深夜に一度だけ解除されている。俺の操作じゃない。友人の操作でもない。そもそもあの時間俺は寝ていた。じゃあ誰が開けたのかと考えたところで答えは出ない。

問題はそのあとだ。

数日して管理会社から連絡が来た。部屋のスペアキーが一本足りないという。俺は心当たりがなかった。鍵は常に決まった場所に置いてある。触るのは俺だけだ。管理会社は合鍵業者のミスかもしれないと言っていたが声の調子は疑っていた。まあそうだろう。新築の三LDKで鍵が消えるなんて話信じられるわけがない。

それから変なことが続いた。

冷蔵庫の中身が微妙に減る。減り方がいやらしい。半分残した弁当の端だけがなくなっていたり食パンが一枚だけ減っていたりする。最初は自分で食べたんだと思った。でもレシートの数と合わない。気づくたびに背中が冷えた。

ある日帰宅すると押し入れの襖が少しだけ開いていた。

俺は閉めた記憶がない。でも開けた記憶もない。中を確認する気にはならなかった。代わりに防虫剤を買ってきて押し込んだ。匂いで分かるようにしておけばいいと思った。考えとしては間違っていなかったと思う。

数週間後友人から電話が来た。

「お前んとこの件だけどさ」

声が硬かった。酔っていない声だ。あの夜の話を避けていた俺は少し身構えた。

「あのとき泊まったあと変なことなかったか」

俺は嘘をついた。何もなかったと答えた。なぜか本当のことを言う気になれなかった。向こうもそれ以上突っ込まなかった。ただ一言だけ言った。

「俺さ最近鍵が合わないんだよ」

意味が分からなかった。聞き返すと友人は続けた。

「鍵穴に入るけど回らないことがある。逆に入らないのに回るときもある。合鍵作った覚えないんだけどさ」

その瞬間頭に浮かんだのは俺の部屋のスペアキーだった。足りなくなった一本。俺は何も言わなかった。沈黙が長引くと友人が笑った。

「気味悪いよな。まあ気のせいだと思うけど」

通話が終わってから俺は押し入れを見た。上段の奥防虫剤の粒が偏っている。誰かが触った形跡だった。布団を持ち上げると微かにあの匂いがした。甘ったるい生臭さ。消えたはずの匂い。

その夜夢を見た。

廊下に布団を敷いて誰かが寝ている。顔は見えない。代わりに名刺入れだけが置いてある。中身を確認すると要るものと要らないものが分けられている。選別だと思った瞬間目が覚めた。

目を開けると玄関のほうから音がした。

鍵が回る音だった。静かで迷いがない。俺の鍵だった。体が動かなかった。布団の中で呼吸を止めた。廊下を歩く気配が近づく。足音はしない。でも空気が動く。押し入れの前で止まった。

襖が開く音はしなかった。

代わりに何かが置かれる気配がした。重くない音だ。紙か革のような感触を想像したところで意識が途切れた。

朝起きると玄関のチェーンはかかっていた。鍵は元の場所にあった。押し入れの上段に名刺入れが置かれていた。見覚えのないものだ。中身を見る勇気はなかった。俺はそれを戻し襖を閉めた。

その日から俺は引っ越しを考えている。

理由は一つだ。この部屋にはもう鍵が合わない。俺の生活とこの部屋の間にズレが生じている。誰かがその隙間を使って出入りしている。

友人からはそれきり連絡がない。

ただ一度だけ知らない番号からメッセージが届いた。

「開けないでくれてありがとう」

誰の番号かは分からない。返信はしなかった。開けないほうがいいものはある。鍵も押し入れも記憶も同じだ。

元の持ち主

最初に気づいたのは軽さだった。

名刺入れを手に取った瞬間あれっと思った。革の感触は同じなのに中身の重さが違う。開いて確認すると名刺が減っていた。全部じゃない。会社名と部署が分かるものだけがきれいに抜かれている。個人用のカードや古い名刺は残っていた。

妙な抜き方だと思った。盗難なら財布ごと持っていく。悪戯なら雑に抜く。これは違う。必要な情報だけを選んでいる。俺は一瞬誰かに観察されている感覚を覚えたがすぐに打ち消した。考えすぎだ。仕事が忙しすぎる。そういうとき人は辻褄を怖い方向に結びがちだ。

数日後知らない番号から電話がかかってきた。

出ると無言だった。こちらが名乗る前に切れた。折り返すと繋がらない。その夜帰宅すると玄関の鍵が微妙に回りにくかった。差し込めるのに引っかかる。力を入れると回る。合鍵を作った覚えはない。管理会社に言おうと思ったが面倒で後回しにした。

それから名刺入れが戻ってきた。

正確には戻っていた。会社のデスクの引き出しの奥。滅多に開けない場所だ。確かに数日前そこを整理した。入っていなかった。なのにそこにある。位置も不自然じゃない。最初からそこにあったような置かれ方だ。

中身はさらに減っていた。

今度は個人が特定できるものがほとんど消えていた。免許証のコピー住所のメモ家族の連絡先。必要な情報だけが抜かれている。残っているのは古いポイントカードと期限切れの診察券。俺の生活から切り取れる部分だけが丁寧に回収されていた。

ここでようやくおかしいと認めた。

警察に行こうか迷ったがやめた。説明できない。盗まれたわけでも壊されたわけでもない。ただ戻ってきただけだ。戻ってきたものをどう被害として申告すればいいのか分からない。

その夜夢を見た。

薄暗い廊下に布団が敷いてある。誰かが寝ている。顔は見えない。ただ名刺入れだけが胸の上に置かれている。中身を開くとカードが一枚ずつ剥がされ別の箱に移されていく。箱にはラベルが貼られている。要不要。俺は声を出そうとするが喉が動かない。

目が覚めると部屋に匂いがあった。

甘ったるい生臭さ。腐った花の水の匂い。ありえない。窓は閉まっている。冷蔵庫も異常はない。数分で消えた。気のせいだと思おうとしたがその匂いは記憶に引っかかり続けた。

翌日会社で上司に呼ばれた。

人事異動の話だった。理由は言われなかった。ただ俺のポジションが急に不要になったらしい。名刺を差し替える必要があると言われた瞬間背中に冷たいものが走った。不要。要らない。誰が決めた。誰が選別した。

帰宅すると玄関のチェーンが外れていた。

鍵はかかっている。チェーンだけが外れている。誰かが内側から外した形だ。俺はその場で動けなくなった。部屋に入るのが怖い。でも入らないという選択肢もない。

押し入れの襖が少し開いていた。

見覚えのない布が見えた。ブルーシートだった。触れる前から分かった。開けてはいけない。でも名刺入れがそこに関係していると直感した。俺は襖を閉め引き返した。その夜はビジネスホテルに泊まった。

翌朝名刺入れがポケットに入っていた。

持ち出した覚えはない。ホテルの部屋で確認すると中身はほぼ空だった。最後に残っていたのは一枚の名刺。俺のものじゃない。名前も会社も知らない。裏に手書きで書いてあった。

「持ち主確認済」

その瞬間理解した。

名刺入れは俺のものじゃなくなった。俺は一時的な保管場所だった。情報を移し替えるための通過点。選別が終わった以上役目は終わりだ。だから戻ってきた。不要になったから。

それ以来俺は名刺を持たなくなった。

身分証も最低限しか携帯しない。住所も誰にも教えていない。だが意味はない。選別はもう済んでいる。要るものは持っていかれた。要らないものとして俺が残っただけだ。

最近気づいたことがある。

知らない人からやけに親切にされる。名前を知られている気がする。でも名乗られることはない。みんな俺を「分かっている前提」で扱う。まるで名刺を交換した後の関係みたいだ。

あの名刺入れは今どこにあるのか分からない。

ただ一つ確かなのは次の持ち主がいるということだ。
選別は一度で終わらない。終わったように見えるだけだ。

作り手

最初は名刺入れを作るつもりなんてなかった。

革細工を始めた理由は単純だ。仕事を辞めたあと時間が余った。指先を動かしていないと考えすぎてしまう性格だった。何か形に残るものがよかった。財布は難しい。鞄は大きすぎる。だから名刺入れにした。それだけだ。

革は端材だった。元は何だったか覚えていない。鞣しの具合が妙に柔らかく手に吸いつくような感触だった。型紙も適当だ。寸法を測るのが面倒で目分量で切った。縫い目は揃っていない。完璧とは程遠い出来だった。

それでも捨てる気にはならなかった。

理由は分からない。ただ完成したそれを机の上に置いた瞬間このままにしておくのはよくないと思った。誰かに使ってもらったほうがいい。そうしないと何かが滞る。そんな感覚だった。

最初の持ち主は俺自身だった。

名刺なんてほとんど使っていなかったが入れてみた。すると妙にしっくり来た。必要なものと不要なものの区別がはっきりする。入れる名刺を選ぶとき自然と考えている自分に気づいた。この人とは続く。この人とは終わる。言葉にしない判断が指先に集約される。

ある日一枚抜いた。

理由はない。ただ入れておく必要がないと思った。次の日その相手から連絡が来た。仕事が打ち切りになったと告げられた。偶然だと思った。偶然だと言い聞かせた。

それが何度か続いた。

抜いた名刺の相手から順番に関係が切れる。連絡が途絶える。部署が変わる。引っ越す。消える。俺は名刺入れを閉じた。怖くなった。だが捨てられなかった。燃やす気にもならない。刃物を入れる気にもならない。

だから手放した。

知り合いに譲った。理由は言わなかった。ただ革細工の試作品だと言った。相手は喜んだ。似合っていた。名刺入れは人を選ばない。人が勝手に合わせてくる。

それから俺の生活は少しずつ軽くなった。

人間関係が減った。仕事も減った。必要最低限になった。代わりに時間が増えた。悪くなかった。ただ夜になると時々あの名刺入れの感触を思い出す。革の重み。中身の配置。抜いたときの抵抗のなさ。

ある晩夢を見た。

長い廊下の先に棚がある。上段にいくつもの名刺入れが積まれている。どれも色も形も違うが縫い目だけが同じだ。雑で歪んでいる。俺の癖だった。誰かがそれらを一つずつ開き中身を整理している。要るものと要らないものに分けている。

目が覚めたとき理解した。

俺は作っただけだ。使い方を決めたわけじゃない。けれど最初に「区別できる形」を与えたのは俺だ。名刺入れは情報を守る道具だと思われている。でも本当は違う。あれは選ぶための器だ。入れた瞬間にもう選別は始まっている。

数年後知らない番号から一度だけ電話がかかってきた。

出る前に切れた。折り返すと繋がらない。留守電に短い音声が残っていた。声ではなかった。革が擦れる音だった。指でなぞるような音。俺はそれを聞いて笑ってしまった。まだ使われている。役目は終わっていない。

今でも時々思う。

もし最初にあれを作らなければ何も起きなかったのか。答えはたぶん違う。別の形で現れただけだ。箱でも帳簿でも押し入れでもよかった。たまたま俺は革を選んだ。それだけだ。

名刺入れは増え続けているだろう。

誰かが直し誰かが持ち誰かが手放す。そのたびに中身が整えられる。生活が軽くなる者もいれば消える者もいる。悪意はない。意志もない。ただ区別するだけだ。

俺はもう作らない。

でも作ったことを後悔してはいない。選別は人間が最初からやっている。名刺入れはそれを分かりやすくしただけだ。押し入れの上段に置かれるものが増えただけだ。

最後に一つだけ確かなことがある。

あの名刺入れには底がない。
入れたものは必ずどこかへ行く。
戻ってくるとしたらそれはもう「要らなくなったあと」だ。

(了)

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