大学二年の春、ひとり暮らしを始めた。
街の中心から少し外れた、古びた鉄筋コンクリートのマンション。共用廊下には雨水の黒い筋が残り、夜になると蛍光灯は半分しか点かない。窓からは線路が見える。終電後もしばらく残る鉄の匂いと、遠ざかる振動。それが妙に落ち着いた。
引っ越し当日、隣のドアが開き、若い男が顔を出した。二十代前半のサラリーマン風。人懐っこい笑みで「よろしく」と言う。その背後に、制服姿の少年が立っていた。ブレザーのボタンを外し、視線を落としたまま小さく会釈する。
兄弟かと思った。深く考えなかった。
数日後の夜、ベランダで煙草を吸っていると、隣の部屋から声が漏れてきた。押し殺した吐息。笑いと、かすかな呻き。途切れずに続く湿った音。
理解した瞬間、煙を吸い込み、むせた。
それでも二人は変わらず、感じのいい隣人だった。
男は軽口を叩く。「昨日パチンコ行ってただろ。学生は勉強しろよ」。少年は無口だが、会えば必ず笑う。惣菜屋でバイトをしているらしく、売れ残りの唐揚げを包んでくれたこともあった。紙袋の油染みが指に移る感触まで覚えている。
一年近く、それが日常だった。
ある朝、玄関を開けると、隣のドアも同時に開いた。軽く笑って「おはようございます。狙いました?」と言いかけたところで、言葉が止まる。
立っていたのは見知らぬ女だった。
長い髪をひとつに束ねた、三十前後のOL風の女。怪訝そうにこちらを見る。
「すみません、□□さんかと思って」と言うと、女は吹き出した。
「□□で合ってるけど。何の冗談?」
□□は、あの男の名字だ。
女は言う。昔からここに一人で住んでいる。惣菜屋で働いている。ずっと。
背筋が冷えた。
唐揚げを差し出したのは、あの少年だったはずだ。
「気持ち悪いんだけど」
笑いながら、目だけが冷えていた。
大家に確認しても、「最初から□□さんは女性一人」と断言された。友人に話しても、「何言ってんだ。あの人に会いたくてお前の部屋来てたのに」と本気で呆れられた。
共用廊下で引っ越しの気配はなかった。大型のゴミも出ていない。だが男と少年の姿は、どこにもなかった。
煙草の匂いも、あの声も。
残っているのは、こちらの記憶だけだった。
女は次第にこちらを避けるようになった。視線を合わせようとすると、露骨に顔を逸らす。何かを隠しているというより、こちらの存在を迷惑がるような、そんな目だった。
やがて、部屋は空になった。
引っ越しのトラックは見ていない。ただ、ある夜を境にカーテンの隙間の明かりが消えた。
五年経った今でも、あの一年だけが、周囲と噛み合わない。
唐揚げの油が滲んだ紙袋の感触。ベランダ越しの吐息。軽口混じりの声。
あれが錯覚なら、あの油は誰のものだったのか。
あれが現実なら、今、隣に住んでいるのは誰だったのか。
この話を書いていて、ふと気づいた。
俺は、あの部屋の中を一度も見ていない。
声だけを聞き、匂いだけを受け取り、勝手に姿を結びつけていた。
もし、最初から――
いや、やめておく。
あなたは、隣人の顔を、本当に覚えているだろうか。
[出典:730 :本当にあった怖い名無し:2011/06/25(土) 18:14:15.43 ID:mWhCtW72O]