これは俺が大学三年の時の話。
夏休みも間近にせまり、大学の仲間五人で海に旅行に行こうって計画を立てたんだ。
計画段階で、仲間の一人がどうせなら海でバイトしないかって言い出して、俺も夏休みの予定なんて特になかったから二つ返事でOKを出した。
そのうち二人は、なにやらゼミの合宿があるらしいとかで、バイトはNGってことに。
結局、五人のうち三人が海でバイトすることにして、残り二人は旅行として俺達の働く旅館に泊まりに来ればいいべ、って話になった……
それで、まずは肝心の働き場所を見つけるべく、三人で手分けして色々探してまわることにした。
ネットで探してたんだが、結構募集してるもんで、友達同士歓迎っていう文字も多かった。
俺達はそこから、ひとつの旅館を選択した。
もちろんナンパの名所といわれる海の近く。そこはぬかりない。
電話でバイトの申し込みをした訳だが、それはもうトントン拍子に話は進み、途中で友達と二日間くらい合流したいという申し出も、
「その分いっぱい働いてもらうわよ」
という女将さんの一言で難なく決まった。
計画も大筋決まり、テンションの上がった俺達は、そのまま何故か健康ランドへ直行し、その後友達の住むアパートに集まって、風呂上りのツルピカンの顔で、ナンパ成功時の行動などを綿密に打ち合わせた。
そして仲間うち三人(俺含む)が旅館へと旅立つ日がやってきた。
初めてのリゾートバイトな訳で、緊張と期待で結構わくわくしてる僕的な俺がいた。
旅館に到着すると、二階建ての結構広めの民宿だった。
一言で言うなら、田舎のばーちゃんち。
◯◯旅館とは書いてあるけど、まあ民宿だった。◯◯荘のほうがしっくりくるかんじ。
入り口から声をかけると、中から若い女の子が笑顔で出迎えてくれた。
ここでグッとテンションが上がる俺。
旅館の中は、客室が4部屋、みんなで食事する広間が一つ、従業員住み込み用の部屋が二つで計七つの部屋があると説明され、俺達ははじめ広間に通された。
しばらく待っていると、若い女の子が麦茶を持ってきてくれた。
名前は「美咲ちゃん」といって、この近くで育った女の子だった。
それと一緒に入ってきたのが女将さんの「真樹子さん」。
恰幅が良くて笑い声の大きな、すげーいい人。もう少し若かったら俺惚れてた。
あと旦那さんもいて、計六人でこの民宿を切り盛りしていくことになった。
ある程度自己紹介とかが済んで、女将さんが言った。
「客室はそこの右の廊下を突き当たって左右にあるからね。
そんであんたたちの寝泊りする部屋は、左の廊下の突き当たり。
あとは荷物置いてから説明するから、ひとまずゆっくりしてきな」
友達の溝口と柴田が、ふと疑問に思ったことを聞いた。
「二階じゃないんですか?客室って」
すると女将さんは、笑顔で答えた。
「違うよ。二階は今使ってないんだよ」
俺達は、今はまだシーズンじゃないからかな?って思って特に気に留めてなかった。
そのうち開放するんだろ、くらいに思って。
部屋について荷物を下ろして、部屋から見える景色とか見てると、本当に気が安らいだ。
これからバイトで大変かもしれないけど、こんないい場所でひと夏過ごせるのなら全然いいと思った。
ひと夏のあばんちゅーるも期待してたしね。
そうして俺達のバイト生活が始まった。
大変なことも大量にあったが、みんな良い人だから全然苦にならなかった。
やっぱ職場は人間関係ですな。
一週間が過ぎたころ、友達の一人がこう言った。
「なあ、俺達良いバイト先見つけたよな」
「ああ、しかもたんまり金はいるしな」
友達二人が話す中俺も、
「そーだな。でももーすぐシーズンだろ?忙しくなるな」
「そういえば、シーズンになったら二階は開放すんのか?」
「しねーだろ。二階って女将さんたち住んでるんじゃないのか?」
俺と溝口は「え、そうなの?」と声を揃える。
「いやわかんねーけど。でも最近女将さん、よく二階に飯持ってってないか?」
と友達が言った。
「知らん」
「知らん」
柴田は夕時、玄関前の掃き掃除を担当しているため、二階に上がる女将さんの姿をよく見かけるのだという。
女将さんはお盆に飯を乗っけて、そそくさと二階へ続く階段に消えていくらしい。
その話を聞いた俺達は、「へ~」「ふ~ん」みたいな感じで、別になんの違和感も抱いていなかった。
それから何日かしたある日、いつもどおり廊下の掃除をしていた俺なんだが、見ちゃったんだ。客室からこっそり出てくる女将さんを。
女将さんは基本、部屋の掃除とかしないんだ。そうゆうのするのは全部美咲ちゃん。
だから余計に怪しかったのかもしれないけど。
はじめは目を疑ったんだが、やっぱり女将さんで、その日一日もんもんしたものを
抱えていた俺は、結局黙っていられなくて友達に話したんだ。
すると、溝口が言ったんだよ、
「それ、俺も見たことあるわ」
「おい、マジか。なんで言わなかったんだよ」
「それ、俺ないわ」
「じゃー黙れ」
「だってなんか用あるんだと思ってたし、それに、疑ってギクシャクすんの嫌じゃん」
「確かに」
俺達はそのとき、残り一ヶ月近くバイト期間があった訳で。
三人で、見てみぬふりをするか否かで話し合ったんだ。
そしたら柴田が
「じゃあ、女将さんの後ろつけりゃいいじゃん」
ていう提案をした。
「つけるってなんだよ。この狭い旅館でつけるって現実的に考えてバレるだろ」
「まあ、ね」
「なんで言ったんだよ」
「……」
三人で考えても埒があかなかった。
来週には残りの二人がここに来ることになってるし、何事もなく過ごせば楽しく過ごせるんじゃないかって思った。
だけど俺ら男だし。三人組みだし?ちょっと冒険心が働いて、「なにか不審なものを見たら報告する」ってことでその晩は大人しく寝たわけ。
そしたら次の日の晩、柴田がひとつ同じ部屋の中にいる俺達をわざとらしく招集。
お前が来いや!!と思ったが渋々柴田のもとに集まる。
「おれさ、女将さんがよく二階に上がるっていったじゃん?あれ、最後まで見届けたんだよ。
いつも女将さんが階段に入っていくところまでしか見てなかったんだけど、昨日はそのあと出てくるまで待ってたんだよ」
「そしたらさ、五分くらいで降りてきたんだ」
「そんで?」
「女将さんていつも俺らと飯くってるよな?それなのに盆に飯のっけて二階に上がるってことは、誰かが上に住んでるってことだろ?」
「まあ、そうなるよな……」
「でも俺らは、そんな人見たこともないし、話すら聞いてない」
「確かに怪しいけど、病人かなんかっていう線もあるよな」
「そそ。俺もそれは思った。でも五分で飯完食するって、結構元気だよな?」
「そこで決めるのはどうかと思うけどな」
「でも怪しくないか?お前ら怪しいことは報告しろっていったじゃん?だから報告した」
語尾がちょっと得意げになっていたので俺と溝口はイラっとしたが、そこは置いておいて、確かに少し不気味だなって思った。
「二階にはなにがあるんだろう?」
みんなそんな想いでいっぱいだったんだ。
次の日、いつもの仕事を早めに済ませ、俺と溝口は柴田のいる玄関先へ集合した。
そして女将さんが出てくるのを待った。
しばらくすると女将さんは盆に飯を載せて出てきて、二階に上がる階段のドアを開くと、奥のほうに消えていった。ここで説明しておくと、二階へ続く階段は、玄関を出て外にある。
一階の室内から二階へ行く階段は俺達の見たところでは確認できなかった。
玄関を出て壁伝いに進み角を曲がると、そこの壁にドアがある。
そこを開けると階段がある。わかりずらかったらごめん。
とりあえずそこに消えてった女将さんは、柴田の言ったとおり五分ほど経つと戻ってきて、お盆の上の飯は空だった。そして俺達に気づかないまま、一階に入っていった。
「な?早いだろ?」
「ああ、確かに早いな」
「なにがあるんだ?上」
「知らない。見に行く?」
「ぶっちゃけ俺、今ちょーびびってるけど?」
「俺もですけど?」
「とりあえず行ってみるべ」
そう言って三人で二階に続く階段のドアの前に行ったんだ。
「鍵とか閉まってないの?」
という溝口の心配をよそに、俺がドアノブを回すと、すんなり開いた。
「カチャ」
ドアが数センチ開き、左端にいた柴田の位置からならかろうじて中が見えるようになったとき、
「うっ」
柴田が顔を歪めて手で鼻をつまんだ。
「どした?」
「なんか臭くない?」
俺と溝口にはなにもわからなかったんだが、柴田は激しく匂いに反応していた。
「おまえ、ふざけてるのか?」
溝口はびびってるから、柴田のその動作に腹が立ったらしく、でも柴田はすごい真剣に
「いやマジで。匂わないの?ドアもっと開ければわかるよ」と言った。
俺は、意を決してドアを一気に開けた。
モアっと暖かい空気が中から溢れ、それと同時に埃が舞った。
「この埃の匂い?」
「あれ?匂わなくなった」
「こんな時にふざけんなよ。俺、なにかあったら絶対お前置いてくからな。今心に決めたわ」
とびびる溝口は悪態をつく。
「いやごめんって。でも本当に匂ったんだよ。なんていうか…生ゴミの匂いっぽくてさ」
「もういいって。気のせいだろ」
そんな二人を横目に俺はあることに気づいた。
廊下が、すごい狭い。
人が一人通れるくらいだった。
そして電気らしきものが見当たらない。外の光でかろうじて階段の突き当たりが見える。
突き当たりには、もうひとつドアがあった。
「これ、上るとなるとひとりだな」
「いやいやいや、上らないでしょ」
「上らないの?」
「上りたいならお前行けよ。俺は行かない」
「おれも、むりだな」
溝口が柴田をどつく。
「結局行かねーのかよ。んじゃー、俺いってみる」
「本気?」
「俺こういうの、気になったら寝れないタイプ。寝れなくて真夜中一人で来ちゃうタイプ。それ完全に死亡フラグだろ?だから、今行っとく」
訳のわからない理由だったが、俺の好奇心を考慮すれば、今溝口と柴田がいるこのタイミングで確認するほうがいいと思ったんだ。
でも、その好奇心に引けを取らずして恐怖心はあったわけで。
とりあえず俺一人行くことになったが、なにか非常事態が起きた場合は絶対に、俺を置いて逃げたりせず、真っ先に教えてくれっていう話になったんだ。
ただし、何事もないときは、急に大声を出したりするなと。
もしそうしてしまったときは、命の保障はできないとも伝えた。俺のね。
そんでソロソロと階段を上りだす俺。
階段の中は、外からの光が差し込み、薄暗い感じだった。
慎重に一段ずつ階段を上り始めたが、途中から、「パキっ…パキっ」と音がするようになった。
何事かと思い、怖くなって後ろを振り返り、二人を確認する。
二人は音に気づいていないのか、じっとこちらを見て親指を立てる。
「異常なし」の意味を込めて。
俺は微かに頷き、再度二階に向き直る。
古い家によくある、床の鳴る現象だと思い込んだ。
下の入り口からの光があまり届かないところまで上ると、好奇心と恐怖心の均衡が怪しくなってきて、今にも逃げ帰りたい気分になった。
暗闇で目を凝らすと、突き当たりのドアの前に何かが立っている…かもしれないとか、そういう「かもしれない思考」が本領を発揮しだした。
「パキパキパキっ……」
この音も段々激しくなり、どうも自分が何かを踏んでいる感触があった。
虫か?と思った。背筋がゾクゾクした。
でも何かが動いている様子はなく、暗くて確認もできなかった。
何度振り返ったかわからないが、途中から下の二人の姿が逆光のせいか薄暗い影に見えるようになった。ただ親指はしっかり立てていてくれた。
そしてとうとう突き当たりに差し掛かったとき、強烈な異臭が俺の鼻を突いた。
俺は柴田とまったく同じ反応をした。
「うっ」
異様に臭い。生ゴミと下水の匂いが入り混じったような感じだった。
なんだ?なんだなんだなんだ?……そう思って当たりを見回す。
その時、俺の目に飛び込んできたのは、突き当たり踊り場の角に大量に積み重ねられた飯だった。
まさにそれが異臭の元となっていて、何故気づかなかったのかってくらいに
蝿が飛びかっていた。
そして俺は、半狂乱の中、もうひとつあることを発見してしまう。
二階の突き当たりのドアの淵には、ベニヤ板みたいなのが無数の釘で打ち付けられていて、その上から大量のお札が貼られていたんだ。
さらに、打ち付けた釘に、なんか細長いロープが巻きつけられてて、くもの巣みたいになってた。
俺、正直お札を見たのは初めてだった。
だからあれがお札だったと言い切れる自信もないんだが、大量のステッカーでもないだろうと思うんだ。
明らかに、なにか閉じ込めてますっていう雰囲気全開だった。
俺はそこで初めて、自分のしたことは間違いだったんだと思った。
「帰ろう」
そう思って踵を返して行こうとしたとき、突然背後から
「ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ」
という音がしたんだ。
ドアの向こう側で、なにか引っかいているような音だった。
そしてその後に、
「ひゅー…ひゅっひゅー」
不規則な呼吸音が聞こえてきた。
このときは本当に心臓が止まるかとおもった。
そこに誰かいるの?誰?誰なの?←俺の心の中
あの時の俺は、ホラー映画の脇役の演技を遥かに逸脱していたんじゃないかと思う。
そのまま後ろを見ずに行けばいいんだけど、あれって実際できないぞ。
そのまま行く勇気もなければ、振り返る勇気もないんだ。
そこに立ちすくむしかできかった。
眼球だけがキョロキョロ動いて、冷や汗で背中はビッショリだった。
その間も
「ガリガリガリガリガリガリ」
「ひゅー…ひゅっひゅー」
って音は続き、緊張で硬くなった俺の脚をどうにか動かそうと必死になった。
すると背後から聞こえていた音が一瞬やんで、シンっとなったんだ。
ほんとに一瞬だった。瞬きする間もなかったくらい。
すぐに、「バンっ!」って聞こえて
「ガリガリガリガリガリガリ」って始まった。
信じられなかったんだけど、それはおれの頭の真上、天井裏聞こえてきたんだ。
さっきまでドアの向こう側で鳴っていたはずなのに、ソレが一瞬で頭上に移動したんだ。
足がブルブル震えだして、もうどうにもできないと思った。
心の中で、助けてって何度も叫んだ。
そんな中、本当にこれも一瞬なんだけど、視界の片隅に動くものが見えた。
あのときの俺は動くものすべてが恐怖で、見ようか見まいかかなり躊躇したんだが、意を決して目をやると、それは溝口と柴田だった。
下から何か叫びながら手招きしている。
そこでやっと溝口と柴田の声が聞こえてきた。
「おい!早く降りてこい!!」
「大丈夫か?」
この瞬間一気に体が自由になり、我に返った俺は一目散に階段を駆け下りた。
あとで二人に聞いたんだが、俺はこの時目を瞑ったまま、一段抜かししながらものすごい勢いで降りてきたらしい。
駆け下りた俺は、とにかく安全な場所に行きたくて、そのまま溝口と柴田の横を通りすぎ
部屋に走っていったらしい。この辺はあまり記憶がない。
恐怖の記憶で埋め尽くされてるからかな。
部屋に戻ってしばらくすると溝口と柴田が戻ってきた。
「おい、大丈夫か?」
「なにがあったんだ?あそこになにかあったのか?」
答えられなかった。というか、耳にあの音たちが残っていて、思い出すのが怖かった。
すると溝口が慎重な面持ちで、こう聞いてきた。
「お前、上で何食ってたんだ?」
質問の意味がわからず聞き返した。
すると溝口はとんでもないことを言い出した。
「お前さ、上についてすぐしゃがみこんだろ?俺と柴田で何してんだろって目を凝らしてたんだけど、なにかを必死に食ってたぞ。というか、口に詰め込んでた」
「うん…。しかもさ、それ……」
溝口と柴田は揃って俺の胸元を見つめる。
なにかと思って自分の胸元を見ると、大量の汚物がくっついていた。
そこから、食物の腐ったような匂いがぷんぷんして、俺は一目散にトイレに駆け込み、胃袋の中身を全部吐き出した。
なにが起きているのかわからなかった。
俺は上に行ってからの記憶はあるし、あの恐怖の体験も鮮明に覚えている。
ただの一度もしゃがみこんでいないし、ましてやあの腐った残飯を口に入れるはずがない。
それなのに、確かに俺の服には腐った残飯がこびりついていて、よく見れば手にも、ソレを掴んだ形跡があった。
気が狂いそうになった。
俺を心配して見に来た溝口と柴田は、「何があったのか話してくれないか?ちょっとお前尋常じゃない」
と言った。
俺は恐怖に負けそうになりながらも、一人で抱え込むよりはいくらかましだと思い、さっき自分が階段の突き当たりで体験したことをひとつひとつ話した。
溝口と柴田は、何度も頷きながら真剣に話を聞いていた。
二人が見た俺の姿と、俺自身が体験した話が完全に食い違っていても、最後までちゃんと聞いてくれたんだ。それだけで、安心感に包まれて泣きそうになった。
少しホッとしていると、足がヒリヒリすることに気づいた。
なんだ?と思って見てみると、細かい切り傷が足の裏や膝に大量にあった。
不思議におもって目を凝らすと、なにやら細かいプラスチックの破片ようなものが所々に付着していることに気づいた。
赤いものと、ちょっと黒みのかかった白いものがあった。
俺がマジマジと見ていると、「何それ?」といって柴田はその破片を手にとって眺めた。
途端、「ひっ」といってそれを床に投げ出した。
その動作につられて溝口と俺も体がビクってなる。
「なんなんだよ?」
「それ、よく見てみろよ」
「なんだよ?言えよ恐いから!」
「つ、爪じゃないか?」
瞬間、三人共完全に固まった。
「……」
俺はそのとき、ものすごい恐怖のそばで、何故か冷静にさっきまでの音を思い返していた。
(ああ、あれ爪で引っかいてた音なんだ…)
どうしてそう思ったかわからない。
だけど、思い返してみれば繋がらないこともないんだ。
階段を上るときに鳴っていた「パキパキ」っていう音も、何かを踏みつけていた感触も、床に大量に散らばった爪のせいだったんじゃないか?って。
そしてその爪は、壁の向こうから必死に引っかいている何かのものなんじゃないか?って。
きっと、膝をついて残飯を食ったとき、恐怖のせいで階段を無茶に駆け下りたとき、床に散らばる爪の破片のせいでケガをしたんだろう。
でも、そんなことはもうどうでもいい。
確かなことは、ここにはもういられないってことだった。
俺は溝口と柴田に言った。
「このまま働けるはずがない」
「わかってる」
「俺もそう思ってた」
「明日、女将さんに言おう」
「言っていくのか?」
「仕方ないよ。世話になったのは事実だし、謝らなきゃいけないことだ」
「でも、今回のことで女将さん怪しさナンバーワンだよ?
もしあそこに行ったって言ったらどんな顔するのか俺見たくない」
「バカ。言うはずないだろ。普通にやめるんだよ」
「うん、そっちのほうがいいな」
そんなこんなで、俺たちはその晩のうちに荷物をまとめ、男なのにむさくるしくて申し訳ないが、あまりの恐怖のため、布団を二枚くっつけてそこに三人で無理やり寝た。
めざしのように寄り添って寝た。
誰一人、寝息を立てるやつはいなかったけど。
そうして明日を迎えることになるんだ。
次の日、誰もほとんど口をきかないまま朝を迎えた。
沈黙の中、急に携帯のアラームが鳴った。
いつも俺達が起きる時間だった。
柴田の体がビクンってなって、相当怯えているのが伺えた。
柴田は根がすごく優しいヤツだから、前の晩俺に言ったんだ。
「ごめんな。俺なんかよりお前のほうが全然怖い思いしたよな。それなのに俺がこんなんでごめん。助けに行かなくて本当ごめん」
俺はそれだけで本当に嬉しくて目頭が熱くなった。
でもよくよく考えてみると、「俺なんかより怖い思い」ってなんだ?
実際に恐怖の体験をしたのは俺だし、溝口も柴田も下から眺めていただけだ。
もしかしてあれか?俺の階段を駆け下りる姿がマズかったか?
普通に考えて、俺の体験談が恐ろしかったってことか?
少し考えて、俺も大概、恐怖に呑まれて相手の言葉に過敏になりすぎてると思った。
こんな時だからこそ、早く帰ってみんなで残りの夏休みを楽しくゆっくり過ごそうと、そればかりを考えるようにした。
だがその後の柴田の怯えようは半端なかった。
俺達がたてる音一つ一つに反応したり、俺の足の傷を食い入るようにじっと見つめたり、明らかに様子がおかしかった。
溝口も普段と違う柴田を見て、多少びびりながらも心配したんだろう、
「おい、大丈夫か?寝てないから頭おかしくなってんのか?」
と問いかけながら柴田の肩を掴んだ。
すると柴田は急に、「うるさいっ!!」と叫び、溝口の腕をすごい勢いで振り払ったんだ。
溝口と俺は一瞬沈黙した。
「おい、どうしたんだよ?」
溝口は急のできごとに驚いて声を出せずにいた。
「大丈夫かだって?大丈夫なわけねーだろ?俺もこいつも死ぬような思いしてんだよ。何にもわかってねーくせに心配したふりすんな!!」
溝口を睨み付けながらそう叫んだ。
何を言ってるんだろうと思った。
柴田の死ぬ思いってなんだ?俺の話を聞いて恐怖してたわけじゃないのか?
溝口と柴田は仲間内でも特に仲が良かったんだが、その関係も溝口が柴田をいじる感じで、どんな悪ふざけにも柴田は怒らず調子を合わせていた。
だから柴田が溝口に声を荒げる場面なんか見たことなかったし、もちろん当の本人溝口もそんな経験なかったんだと思う。
溝口はこれも見たことないくらいにオロオロしていた。
俺は疑問に思ったことを柴田に問いかけた。
「死ぬ思いってなんだ?お前ずっと下にいたろ?」
「いたよ。ずっと下から見てた」
そして少し黙ってから下を向いて言った。
「今も見てる」
「……」
今も?
え、何を?
俺は訳がわからない。
全然わからないんだが、よくある話で、柴田の気が狂ったんだと思った。
何かに取り憑かれたんだと。
そんな思いをよそに、柴田は震える口調で、でもしっかりと喋りだした。
「あの時、俺は下にいたけど、でもずっと見てたんだ」
「上っていく俺だよな?」
「違うんだ…いや、初めはそうだったんだけど。
お前が階段を上りきったくらいから、見え出したんだ」
「…うん」
本当はこのとき、俺の心の中は聞きたくないという気持ちが大半を占めていた。
でも柴田は、もうこれ以上一人で抱えきれないという表情で、まるで前の日の自分を見ているようだったんだ。
あのとき、俺の話を最後までちゃんと聞いてくれた溝口と柴田、あれで自分がどれだけ救われたかを考えると、俺には聞かなくちゃならない義務があるように思えた。
「何が、見えたんだ?」
「……」
柴田はまた少し黙りこみ、覚悟したように言った。
「影…だと思う」
「影?」
「うん。初めはお前の影だと思ってたんだ。
けど、お前がしゃがみこんで残飯を食っている間にも、ずっと影は動いてたんだ。
お前の影が小さくなるのはちゃんと見えたし、自分らの影も足元にあった」
「それでそれ以外に動き回る影が……」
「三つ…いや四つくらいあった」
俺は、全身にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。
どうかこれが柴田の冗談であってくれと思った。
しかし、今目の前にいる柴田はとてもじゃないが冗談を言っているように見えなかった。
むしろ、冗談という言葉を口に出したとたんに殴りかかってくるんじゃないかってくらいに真剣だった。
「あそこには、俺しかいなかった」
「わかってる」
「そもそも、あのスペースに人が四十五人も入って動き回れるはずない」
あの階段は人が一人通れる位のスペースだったんだ。
「あれは人じゃない。それ位わかるだろ」
「……」
「それに、どう考えても人じゃ無理だ」
柴田はポツリと言った。
「どういうことだ?」
「全部、壁に張り付いてた」
「え?」
「蜘蛛みたいに、全部壁の横とか上に張り付いてたんだ。それで、もぞもぞ動いてて、それで、それで……」
自分の見た光景を思い出したのか、柴田の呼吸が荒くなる。
「落ち着け!深呼吸しろ。な?大丈夫だみんないる」
柴田はしばらく興奮状態だったが、落ち着きを取り戻してまた話しだした。
「あれは人じゃない。いや、元から人じゃないんだけど、形も人じゃない。いや、人の形はしてるんだけど、違うんだ」
柴田が何を言いたいのかなんとなくわかった俺は、
「人間の形をしたなにかが、壁に張り付いてたってことか?」
と聞いた。
柴田は黙って頷いた。
口から飛び出そうなくらいに心臓の鼓動が激しくなった。
とっさに、柴田が見たのは影じゃないと思った。
影が横や上の天井を動き回るのは不自然だ。
仮にそれが影だったとしても、確実にそこに何かがいたから影ができたんだ。
それくらいバカの俺でもわかる。
ということは、俺は自分の周りで這い回る何かに気づかず、しかも腐った残飯をモリモリと食べていたってことなのか?
あの音は…?
あのガリガリと壁を引っかく音は、壁やドアの向こう側からじゃなくて、俺のいる側のすぐそばで鳴っていたということか?
あの呼吸音も?
恐怖のあまり頭がクラクラした。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、柴田は傍に立っていた溝口に向き直り、
「ごめん、さっきは取り乱して。悪かった」
と謝った。
「いや、大丈夫…こっちこそごめんな」
溝口もすかさず謝った。
その後なんとなく気まずい雰囲気だったが、俺は平静を保つのに必死だった。
無意味に深呼吸を繰り返した。
そんな中溝口が口を開いた。
「お前さ、さっき今も見てるっていったけど」
柴田は溝口が言い終わらないうちに答えた。
「ああ、ごめん。あれはちょっと、錯乱してたんだわ。ははっごめん、今は大丈夫」
そういった柴田の笑顔は、完全に作り笑いだった。
明らかに無理した笑顔で、目はどこか違うところを見ているようだった。
関係ないんだが、このとき何故かものすごい印象的だったのは、柴田の目の下がピクピクいってたことだ。
こんなん何人かに一人はよくあることだよな?
だけど無理して笑う人の目の下ピクピクは、結構くるものがあるぞ。
話を戻すと、溝口と俺はそれ以上聞かなかった。
臆病者だと思われても仕方ない。だけど怖くて聞けなかったんだ。
ちょっと考えてみろ、ここまで話した柴田が敢えて何かを隠すんだぞ。
絶対無理だろ。聞いたら、俺の心臓砕け散るだろ。
それこそ俺が発狂するわ。
少しの沈黙のあと、広間のほうから美咲ちゃんが朝飯の時間だと俺達を呼んだ。
三人で話している間に結構な時間が過ぎていたらしい。
正直、食欲などあるはずもなく。
だが不審に思われるのは嫌だったし、行くしかないと思った。
俺はのっそりと立ち上がり、二人に言った。
「なるべく早いほうがいいよな。朝飯食い終わったら言おう」
「そうだな」
「俺、飯いいや。溝口さ、ノートPCもってきてたよな?ちょっと、貸してくれないか?」
「いいけど、朝飯食えよ」
「ちょっと調べたいことがあるんだ。あんまり時間もないし、悪いけど二人でいってきて」
「了解。美咲ちゃんに頼んでおにぎり作ってもらってきてやるよ」
「うん、ありがと」
「パソコンは俺のカバンの中に入ってる。勝手に使っていいよ。ネットも繋がるから」
そう言って俺達はそのまま広間に行った。
後から考えると、辞めるその日の朝飯食うってどうなの?
他人がやってたら絶対突っ込むくせして、俺らふっつーに食べたんだが。
広間に着くと、女将さんが俺らを見て、更には俺の足元をみて、満面の笑顔で聞いてきたんだ。
「おはよう、よく眠れた?」って。
そんな言葉、初日以来だったし、昨日のこともあったからすごい不気味だった。
びびった俺は直立不動になってしまったわけだが、溝口が、「はい。すみません遅れて」
と返事をしながら俺のケツをパンと叩いた。
体がスっと動いた。
いつも人一倍びびってた溝口に助け舟を出してもらうとは思わなかったから、正直驚いた。
そして柴田が体調不良のためまだ部屋で寝ていることを伝え、美咲ちゃんにおにぎりを作ってもらえるよう頼んだ。
「あ、いいですよ。それより柴田くん、今日は寝てたほうがいいんじゃ」
美咲ちゃんは心配そうにそう言った。
溝口と俺は、得に何も言わず席についた。
”もう辞めるから大丈夫”とは言えないからな。
朝飯を食っている間、女将さんはずっとニコニコしながら俺を見てた。
箸が完全に止まってるんだ。「俺、ときどき飯」みたいな。
美咲ちゃんも旦那さんもその異様な光景に気づいたのか、チラチラ俺と女将さんを見てた。
溝口は言うまでもなく、凝固。
凄まじく気分の悪くなった俺達は朝飯を早々に切り上げて、女将さん達に話をするため、部屋に柴田を呼びに行った。
部屋に戻る途中、柴田の話し声が聞こえてきた。
どうやらどこかに電話をしているようだった。
俺達は電話中に声をかけるわけにもいかなかったので、部屋に入り座って電話が終わるのを待った。
「はい、どうしても今日がいいんです。……はい、ありがとうございます!はい、はい、必ず伺いますのでよろしくお願いします」
そう言って電話を切った。
どうやら柴田は、ここから帰ってすぐどこかへ行く予定を立てたらしい。
俺も溝口も別に詮索するつもりはなかったんで何も聞かず、すぐに柴田を連れて広間に向かった。
広間に戻ると美咲ちゃんが朝飯の片付けをしていた。
女将さんはいなかった。
俺はふと思った。
あそこに行ってるんじゃないか?って。
盆に飯のっけて、二階への階段に消えていったあの女将さんの後姿がフラッシュバックした。
きっとあの時持って行った飯は、あの残飯の上に積み重ねてあったんだろう。
そうして何日も何日も繰り返して、あの山ができたんだろうな。
(一体あれは何のためなんだ?)
俺の頭に疑問がよぎった。
けど、そんなこと考えるまでもないとすぐに思い直した。
俺は今日で辞めるんだ。ここともおさらばするんだ。すぐに忘れられる。
忘れなきゃいけない。心の中で自分に言い聞かせた。
溝口が女将さんの居場所を美咲ちゃんに尋ねた。
「女将さんならきっと、お花に水やりですね。すぐ戻ってきますよ」
そう言って美咲ちゃんは、柴田の方を見て、
「柴田くん、すぐおにぎり作るからまっててね」
と笑顔で台所に引っ込んだ。
俺達は女将さんが戻ってくるのを待った。
しばらくすると女将さんは戻ってきて、仕事もせずに広間に座り込む俺達を見て
「どうしたのあんたたち?」
とキョトンとした顔をしながら言った。
俺は覚悟を決めて切り出した。
「女将さん、お話があるんですけどちょっといいですか?」
女将さんは「なんだい?深刻な顔して」と俺達の前に座った。
「勝手を承知で言います。俺達、今日でここを辞めさせてもらいたいんです」
溝口と柴田もすぐ後に、「お願いします」と言って頭を下げた。
女将さんは表情ひとつ変えずにしばらく黙っていた。
俺はそれがすごく不気味だった。
眉ひとつ動かさないんだ。まるで予想していたかのような表情で。
そして沈黙の後、
「そうかい。わかった、ほんとにもうしょうがない子たちだよ~」
と言って笑った。
そして給料の話、引き上げる際の部屋の掃除などの話を一方的に喋り、用意ができたら声をかけるようにと俺達に言ったんだ。
拍子抜けするくらいにすんなり話が通ったことに、三人とも安堵していた。
だけど、心のどこかでなんかおかしいと思う気持ちもあったはずだ。
話が決まったからには俺達は即行動した。
荷物は前の晩のうちにまとめてある。
あとは部屋の掃除をするだけで良かった。
バイトを始めてから、仕事が終われば近くの海で遊んだり、疲れてる日には戻ってすぐに爆睡だったんで、部屋にいる時間はあまりなかったように思う。
だから男三人の部屋といえど、元からそんなに汚れているわけでもなかった。
そんなこんなで、一時間ほどの掃除をすれば部屋も大分綺麗になった。
準備ができたということで、俺達は広間に戻り、女将さんたちに挨拶をすることにした。
広間に着くと女将さんと旦那さん、そして悲しそうな顔をした美咲ちゃんが座っていた。
俺達は三人並んで正座し、
「短い間ですが、お世話になりました。勝手言ってすみません」「ありがとうございました」
と言って頭を下げた。
すると女将さんが腰を上げて、俺達に近寄りこう言った。
「こっちこそ、短い間だったけどありがとうね。これ、少ないけど……」
そう言って茶封筒を三つ、そして小さな巾着袋を三つ手渡してきた。
茶封筒は思ったよりズッシリしてて、巾着袋はすごく軽かった。
そして後ろから美咲ちゃんが、「元気でね」といってちょっと泣きそうな顔しながら言うんだ。
そして、「みんなの分も作ったから」って、三人分のおにぎりを渡してくれた。
おいおい止めてくれ。泣いちゃうよ俺!
そう思ってあんまり美咲ちゃんの顔を見れなかった。
前日で死にそうな思いしたのにまさかのセンチって思うだろ?
だけど、実際すげー世話になった人との別れって、その時はそういうの無しになるものなんだわ。
挨拶も済んで、俺達は帰ることになった。
行きは近くのバス停までバスを使って来たんだが、帰りはタクシーにした。
旦那さんが車で駅まで送ってくれるって話も出たんだが、柴田が断った。
そして美咲ちゃんに頼んでタクシーを呼んでもらった。
タクシーが到着すると、女将さんたちは車まで見送りに来てくれた。
周りから見ればなんとなく感動的な別れに見えただろうが、実際俺達は逃げ出す真っ最中だったんだよな。
タクシーに乗り込む前に、俺は振り返った。
かろうじて見えた二階への階段のドア。目を凝らすと、ほんの少し開いてるような気がして思わず顔を背けた。
そして三人とも乗り込み、行き先を告げた後すぐ車が動き出した。
旅館から少し離れると、急に柴田が運転手に行き先を変更するよう言ったんだ。
運転手になにかメモみたいなものを渡して、ここに行ってくれと。
運転手はメモを見て怪訝な顔をして聞いてきた。
「大丈夫?結構かかるよ?」
「大丈夫です」
柴田はそう答えると、後部座席でキョトンとしている溝口と俺に向かって
「行かなきゃいけないとこがある。お前らも一緒に」
と言った。
俺と溝口は顔を見合わせた。考えてることは一緒だったと思う。
(どこへ行くんだ…?)
だが、朝の柴田の様子を見た後だったんで、正直気が引けて何も聞けなかった。
またキレ出すんじゃないかとびびってたんだ。
しばらく走っていると運転手さんが聞いてきた。
「後ろ走ってる車、お客さんたちの知り合いじゃない?」
え?と思って振り返ると、軽トラックが一台後ろにぴったりくっついて走っていた。
そして中から手を振っていたのは、旦那さんだった。
俺達は何か忘れ物でもしたのかと思い、車を止めてもらえるよう頼んだ。
道の端に車が止まると、旦那さんもそのまますぐ後ろに軽トラを止めた。
そして出てくると俺達のところに来て、「そのまま帰ったら駄目だ」と言った。
「帰りませんよ。こんな状態で帰れるはずないですから」
柴田と旦那さんはやけに話が通じあっていて、溝口と俺は完全に置いてけぼりを食らった。
「え、どういうこと?」
なにがなにやらわからんかったので素直に質問した。
すると旦那さんは俺のほうを向き、まっすぐ目を見つめて言った。
「おめぇ、あそこ行ったな?」
心臓がドクンって鳴った。
(なんで知ってんの?)
この時は本気で怖かった。
霊的なものじゃなくて、なんていうか大変なことをしてしまったっていう思いがすごくて。
俺は、「はい」と答えるだけで精一杯だった。
すると旦那さんはため息をひとつ吐くと言った。
「このまま帰ったら完全に持ってかれちまう。なぁんであんなとこ行ったんだかな。まあ、元はと言えば俺がちゃんと言わんかったのが悪いんだけどよ」
おい、持ってかれるってなんだ。勘弁してくれよ。
ここから帰ったら楽しい夏休みが待ってるはずだろ?
不安になって溝口を見た。溝口は驚くような目で俺を見ていた。
さらに不安になって柴田を見た。
すると柴田は言うんだ。
「大丈夫。これから御祓いに行こう。そのためにもう向こうに話してあるから」
信じられなかった。
憑かれていたってことか?何だよ俺死ぬのか?この流れは死ぬんだよな?なんであんなとこ行ったんだって?行くなと思うなら始めから言ってくれ。
あまりの恐怖で、自分の責任を誰か他の人に転嫁しようとしていた。
呆然としている俺を横目に、旦那さんは話を進めた。
「御祓いだって?」
「はい」
「おめぇ、見えてんのか」
「……」
「おい、見えてるって……」
「ごめん。今はまだ聞かないでくれ」
俺は思わず柴田に掴みかかった。
「いい加減にしろよ。さっきから何なんだよ!」
旦那さんが割って入る。
「おいおい止めとけ。おめぇら、逆に柴田に感謝しなきゃならねぇぞ」
「でも、言えないってことないんじゃないすか?」
「おめぇらはまだ見えてないんだ。一番危ないのは柴田なんだよ」
俺と溝口は揃って柴田を見た。
柴田は、困ったような顔をしてそこにいた。
「どうして柴田なんですか?実際にあそこに行ったのは俺です」
「わかってるさ。でもおめぇは見えてないんだろ?」
「さっきから見えてるとか見えてないとか、なんなんですか?」
「知らん」
「はぁ!?」
トンチンカンなことを言う旦那さんに対して俺はイラっとした。
「真っ黒だってことだけだな、俺の知ってる情報は」
「だがなぁ……」
そう言って旦那さんは柴田を見る。
「御祓いに行ったところで、なんもなりゃせんと思うぞ」
柴田は、疑いの目を旦那さんに向けて聞いた。
「どうしてですか?」
「前にもそういうことがあったからだな。でも、詳しくは言えん」
「行ってみなくちゃわからないですよね?」
「それは、そうだな」
「だったら」
「それで駄目だったら、どうするつもりなんだ?」
「……」
「見えてからは、とんでもなく早いぞ」
早いという言葉が何のことを言っているのか俺にはさっぱりわからなかった。
だが、旦那さんがそういった後、柴田は崩れ落ちるようにして泣き出したんだ。
声にならない泣き声だった。俺と溝口は、傍で立ち尽くすだけで何もできなかった。
俺達の異様な雰囲気を感じ取ったのか、タクシーの窓を開けて中から運転手が話しかけてきた。
「お客さんたち大丈夫ですか?」
俺達三人は何も答えられない。
柴田に限っては道路に伏せて泣いてる始末だ。
すると旦那さんが運転手に向かってこう言った。
「あぁ、すまんね。呼び出しておいて申し訳ないんだが、こいつらはここで降ろしてもらえるか?」
運転手は、「え?でも……」と言って俺達を交互に見た。
その場を無視して旦那さんは柴田に話しかける。
「俺がなんでおめぇらを追いかけてきたかわかるか?事の発端を知る人がいる。その人のとこに連れてってやる。もう話はしてある。すぐ来いとのことだ」
「時間がねぇ。俺を信じろ」
肩を震わせ泣いていた柴田は、精一杯だったんだろうな、顔をしわくちゃにして声を詰まらせながら言った。
「おねが…っ…します……」
呼吸ができていなかった。
男泣きでもなんでもない、泣きじゃくる赤ん坊を見ているようだった。
昨日の今日だが、柴田は一人で、何かものすごい大きなものを抱え込んでいたんだと思った。
あんなに泣いた柴田を見たのは、後にも先にもこの時だけだ。
柴田のその声を聞いた俺は、運転手に言った。
「すいません。ここで降ります。いくらですか?」
その後、俺達は旦那さんの軽トラに乗り込んだ。
といっても、俺と溝口は後の荷台なわけで。
乗り心地は史上最悪だった。
旦那さんは俺達が荷台に乗っているにも関わらず、有り得んほどにスピードを出した。
溝口から軽く女々しい悲鳴を聞いたが、スルーした。
どれくらい走ったのか分からない。
あんまり長くなかったんじゃないかな。
まあ正直、それどころじゃないほど尾てい骨が痛くて覚えていないだけなんだが。
着いた場所は、普通の一軒家だった。
横に小さな鳥居が立っていて石段が奥の方に続いていた。
俺達の通されたのはその家の方で、旦那さんは呼び鈴を鳴らして待っている間、俺達に「聞かれたことにだけ答えろ」と言った。
「おめぇら、口が悪いからな。変なこと言うんじゃねぇぞ」
俺は思った。
この人にだけは言われる筋合いがないと。
少し待つと、家から一人の女の人が出てきた。
年は20代くらいの普通の人なんだけど、額の真ん中にでっかいホクロがあったのがすごく印象的だった。
その女の人に案内されて通されたのは家の一角にある座敷だった。
そこには一人の坊さん(僧って言うのか?)と、一人のおっさん、一人のじいさんが座っていた。
俺達が部屋に入るなり、おっさんが「禍々しい」と呟いたのが聞こえた。
「座れ」
旦那さんの掛け声で俺達は、坊さんたちが並んで座っている丁度向かい側に三人並んで座った。
そして旦那さんがその隣に座った。
するとじいさんは口を開いた。
「◯◯旅館の旦那、この子ら全部で三人かね?」
「えぇ、そうなんですわ。この柴田って奴は、もう見えてしまってるんですわ」
旦那さんがそう言った瞬間、おっさんとじいさんは顔を見合わせた。
すると坊さんが口を開いた。
「旦那さん、堂に行ったというのは彼ですか?」
「いえ。実際行ったのはこいつです(俺のこと)」
「ふむ」
「柴田は下から覗いていただけらしいんです」
「そうですか」
そして少し黙ったあと坊さんは柴田に聞いたんだ。
「あなたは、この様な経験は初めてですか?」
柴田が聞き返す。
「この様な経験?」
「そうです。この様に、霊を見たりする体験です」
「え…ないです」
「そうですか。不思議なこともあるものです」
「…お、俺」
柴田が何か喋ろうとしていた。
そこにいた全員が柴田を見た。
「はい」
「俺、…死ぬんでしょうか?」
そう言った柴田の腕は、正座した膝の上で突っ張っているのに、ガクガクと震えていた。
すると坊さんは静かに答えた。
「そうですね。このままいけば、確実に」
柴田は言葉を失った様子だった。
震えが急に止まって、畳を一点食い入るように見つめだした。
それを見た溝口が口を挟んだ。
「死ぬって」
「持って行かれるという意味です」
意味を説明されたところで俺達はわからない。
何に何を持って行かれるのか。
更に坊さんは続けた。
「話がわからないのは当然です。あなたは、堂へ行った時に何か違和感を感じませんでしたか?」
坊さんが堂といっているのは、どうやらあの旅館の二階の場所らしかった。
それで俺は答えた。
「音が聞こえました。あと、変な呼吸音が。
二階のドアにはお札の様なものが沢山貼ってありました」
「そうですか。気づいているかも知れませんがあそこには、人ではないものがおります」
あまり驚かなかった。事実、俺もそう思っていたからだ。
「恐らくあなたは、その人ではないものの存在を耳で感じた。本来ならば人には感じられないものなのです。誰にも気づかれず、ひっそりとそこにいるものなのです」
そう言うと、坊さんはゆっくりと立ち上がった。
「柴田くん、今は見えていますか?」
「いえ。ただ音が、さっきから壁を引っかく音がすごくて」
ん「ここには入れないということです。幾重にも結界を張っておきました。
その結界を必死に破ろうとしているのですね」
「しかし、皆がいつまでもここに留まることは出来ないのです。今からここを出て、お堂へ行きます。柴田くん、ここから出ればまたあのものたちが現れます」
「また苦しい思いをすると思います。でも必ず助けますから、気をしっかり持って付いて来てくださいね」
柴田はカクカクと首を縦に振っていた。
そうして、坊さんに連れられて俺達はその家を出てすぐ隣の鳥居をくぐり、石段を登った。
旦那さんは家を出るまで一緒だったが、おっさんたちと何やら話をした後、坊さんに頭を下げて行ってしまった。
知ってる人がいなくなって一気に心細くなった俺達は、三人で寄り添うように歩いた。
特に柴田は、目を左右に動かしながら背中を丸めて歩いていて、明らかに憔悴しきっていた。
だから俺達はできる限り、柴田を真ん中にして二人で守るように歩いた。
石段を上り終わる頃、大きな寺が見えてきた。
だが坊さんはそこには向かわず、俺達を連れて寺を右に回り奥へと進んだ。
そこにはもう一つ鳥居があり、更に石段が続いていた。
鳥居をくぐる前に坊さんが柴田に聞いた。
「柴田くん、今はどんな感じですか?」
「二本足で立っています。ずっとこっちを見ながら、付いてきてます」
「そうか、もう立ちましたか。よっぽど柴田くんに見つけてもらえたのが嬉しかったんですね。ではもう時間がない。急がなくてはなりませんね」
そして石段を上り終えると、さっきの寺とは比べ物にならない位小さな小屋がそこにあり、坊さんはその小屋の裏へ回ると、俺達を呼んだ。
俺達も裏へ回ると坊さんは、ここに一晩入り、憑きモノを祓うのだと言った。
そして、中には明りが一切ないこと、夜が明けるまでは言葉を発っしてはならないことを伝えてきた。
「もちろん、携帯電話も駄目です。明りを発するものは全て。食ったり寝たりすることもなりません」
どうしても用を足したくなった場合はこの袋を使用するようにと、変な布の袋を渡された。
俺は目を疑った。
(布って…)
だが坊さん曰く、中から液体が漏れないようになっているらしい。
信じ難かったが、そこに食いついてもしょうがないので大人しくしといた。
その後俺達に、竹の筒みたいなものに入った水を一口ずつ飲ませ、自分も口に含むと俺達に吹きかけてきた。
そして小さな小屋の中に入るように言った。
俺達は順番に入ろうとしたんだが、柴田が入る瞬間、口元を押さえて外に飛び出して吐いたんだ。
突然のことで驚いた俺達だったが、坊さんが慌てた様子で聞いてきた。
「あなたたち、堂に行ったのは今日ではないですよね?」
「え?昨日ですけど」
「おかしい、一時的ではあるが身を清めたはずなのに、お堂に入れないとは」
言ってる意味がよく分からなかった。
すると坊さんは柴田のヒップバッグに目をつけ、「こちらに滞在する間、誰かから何かを受け取りましたか?」
と聞いてきた。
俺は特に思い浮かばず、だが溝口が言ったんだ。
「今日給料もらいましたけど」
当たり前すぎて忘れてた。
そういえば給料も貰いものだなって妙に感心したりして。
「あ、あと巾着袋も」
「おにぎりも。もらい物に入るなら」
給料を貰った時に女将さんにもらった小さな袋を思い出した。
そして美咲ちゃんには朝、おにぎりを作って貰ったんだった。
坊さんはそれを聞くと、柴田に話しかけた。
「柴田くん、それのどれか一つを今、持っていますか?」
「おにぎりはデカイ鞄の方に入れてありますけど、給料と袋は、今持ってます」
柴田はそう言ってバッグからその二つを取り出した。
坊さんは、まず巾着袋を開けた。
すると一言、「これは……」と言って俺達に見えるように袋の口を広げた。
中を覗き込んで俺達は息を呑んだ。
そこには、大量の爪の欠片が詰まっていたんだ。
俺の足に張り付いていたものと一緒だった。見覚えのある、赤と黒ずんだものだった。
柴田は、その場ですぐまた吐いた。
俺もそれに釣られて吐いた。
周辺が汚物の匂いでいっぱいになり、坊さんも顔を歪めていた。
坊さんは、柴田の持ち物を全て預かると言い、俺達二人も持ち物を全て出すように言った。
俺は、携帯と財布を坊さんに手渡し、旅行鞄の方に入っている巾着袋を処分してもらえるよう頼んだ。
坊さんは頷き、再度柴田に竹筒の水を飲ませ、吹きかけた。
そして俺達三人がお堂の中に入ると、「この扉を開けてはなりません。皆、本堂のほうにおります。明日の朝まで、誰もここに来ることはありません」
「そして、壁の向こうのものと会話をしてはなりません。このお堂の中でも言葉を発してはなりません。居場所を教えてはなりません」
「これらをくれぐれもお守りいただけますよう、お願いします」
そう言って俺達の顔を見渡した。
俺達は頷くしかなかった。
この時既に言葉を発してはならない気がして、怖くて何も言えなかったんだ。
坊さんは俺達の様子を確認すると、扉を閉め、そのまま何も言わず行ってしまった。
お堂の中はひんやりしていた。
実際ここで飲まず食わずでやっていけるのかと不安だったが、これなら一晩くらいは持ちそうだと思った。
建物自体はかなり古く、壁には所々に隙間があった。といっても結構小さいものだけど。
まだ昼時ということもあり、外の光がその隙間から入り、溝口と柴田の顔もしっかり確認できた。
顔を見合わせても何も喋ることができないという状況は、生まれて初めてだった。
「大丈夫だ」という意味を込めて俺が頷くと、溝口も柴田も頷き返してくれた。
しばらくすると、顔を見合わせる回数も少なくなり、終いにはお互い別々の方向を向いていた。
喋りたくても喋れないもどかしさの中、後どれくらいの時間が残っているのか見当も付かない俺達は、ただただ呆然とその場にいることしかできなかったんだ。
途方もない時間が過ぎていると感じているのに、まだ外は明るかった。
すると溝口がゴソゴソと音を立て出した。
何をしているのかと思い、あまり大きな音を出す前に止めさせようと思って溝口の方に向き直ると、溝口は手に持った紙とペンを俺達に見せた。
こいつは、坊さんの言うことを聞かずに密かにペンを隠し持っていたのだ。
そして紙は、板ガムの包み紙だった。まあメモ用紙なんて持っているはずない俺達なので、きっとそれしか思い浮かばなかったんだろう。
(こいつ何やってんだよ…)
一瞬そう思った俺だが、意思の疎通ができないこの状況で極限に心細くなっていた所為もあり、溝口の取った行動に何も言う事が出来なかった。
むしろ、ひとつの光というか、上手く説明できないんだが、とにかくすごく安心したのを覚えてる。
溝口はまず自分で紙に文字を書き、俺に渡してきた。
”みんな大丈夫か?”
俺は溝口からペンを受け取り、なるべく小さく、スペースを空けるようにして書き込んだ。
”俺は今のところ大丈夫、柴田は?”
そして柴田に紙とペンを一緒に手渡した。
”俺も今は平気。何も見えないし聞こえない。”
そして溝口に紙とペンが戻った。
こんな感じで、俺達の筆談が始まったんだ。
溝口”ガム残り四枚。外紙と銀紙で八枚。小さく文字書こう”
俺”OK。夜になったらできなくなるから今のうちに喋る”
柴田”わかった”
溝口”今何時くらい?”
俺”わからん”
柴田”五時くらい?”
溝口”ここ来たの一時くらいだった”
俺”なら四時くらいか”
柴田”まだ三時間か”
溝口”長いな”
こんな感じで他愛もない話をして一枚目が終わった。
すると溝口が書いてきた。
溝口”文字でかい”
俺は謝る仕草を見せた。
すると溝口は俺にペンを渡してきたので、
俺”腹減った”
と書き込み柴田に渡した。
そして柴田が何も書かずに溝口に紙を渡した。
すると溝口は
溝口”俺も”
と書いて俺に渡してきた。
あれだけ心細かったのに、いざ話すとなるとみんな何も出てこなかった。
俺は、日が沈む前に言っておかなければならないことを書いた。
俺”何があっても、最後までがんばろうな”
柴田”うん”
溝口”俺、叫んだらどうしよう”
俺”なにか口に突っ込んどけ”
柴田”突っ込むものなんてないよ”
溝口”服脱いでおくか”
俺”てか、何も起きない、そう信じよう”
柴田は俺の書いた言葉にはノーコメントだった。
俺も書いたあと、自分で何を言ってるんだろうと思った。
坊さんは、何も起きないとは一言も言っていなかった。
むしろ、これから何が起こるのかを予想しているような口ぶりで俺達にいくつも忠告をしたんだ。
そう考えると俺達は、一刻も早く時間が過ぎてくれることを願っている一方で、本当の本当は、夜を迎えるのがすごく怖かったんだ。
夜だけじゃない、あの時ああしてる時間も、本当は怖くてしょうがなかった。
唯一の救いが、互いの存在を目視できるということだっただけで。
俺の一言で空気が一気に重くなった。
俺はこの空気をどうにかしようと、柴田の持っていた紙とペンをもらい、
”何か喋れ時間もったいない”
と書いて溝口に渡した。他人任せもいいとこ。
溝口は一瞬困惑したが、少し考えて書き出し、俺に渡してきた。
溝口”じゃあ、帰ったら何するか”
俺”いいね。俺はまずツタヤだな”
柴田”なんでツタヤ?”
俺”DVD返すの忘れてた”
溝口”どんだけ延泊!?”
まあ嘘だった。どうにかして気を紛らわせたかったからなんでもいいやって適当に書いた。
結果、雰囲気はほんの少しだが和み、溝口も柴田もそれぞれ帰ったら何をするかを書いた。
少しずつだが、ゆっくりと俺達は静かな時間を過ごした。
そして残りの紙も少なくなった頃、柴田はある言葉を紙に書いた。
柴田”俺は坊さんに言われたことを必ず守る。死にたくない”
俺も溝口も、最後の言葉を見つめてた。
俺は「死にたくない」なんて言葉、生まれてこの方本気で言ったことなんかない。
きっと溝口もそうだろう。
死ぬなんて考えていなかったからだ。
死を間近に感じたことがないからだ。
それを、今目の前で心の底から言うヤツがいる。
その事実がすごく衝撃的だった。
俺は柴田の目をしっかりと見つめ、頷いた。
その後は特に何も話さなかったが、不思議と孤独感はなかった。
お互いの存在を感じながら、俺達は日が暮れるのを感じていた。
何もせずにいると蝉の鳴き声がうるさくて、でも徐々に耳が慣れて気にならなくなった。
でも、なんか違和感なんだ。よく耳を凝らすとなにか他の音が聞こえるんだ。
さらに耳を凝らすと、段々その音がクリアに聞こえるようになった。
俺は考えるより先に確信した。
あの呼吸音だって。
柴田を見た。薄暗くて分かりづらかったが、柴田に気づいている気配はなかった。
柴田には聞こえないのか?そういえば柴田って呼吸音について言ってたっけ?もしかしてあれは聞いたことがないのか?それとも単に気づいていないだけか?
頭の中で色々な考えが浮かんだ。
すると硬直する俺の様子に気づいた柴田が、周りをキョロキョロと見回し始めた。
この状況の中で、神経が過敏にならないはずがなかった。俺の異変にすぐ気づいたんだ。
すると、柴田の視線が一点に止まった。
俺の肩越しをまっすぐ見つめていた。
白目が一気にデカくなり、大きく見開いているのがわかった。
溝口も柴田の様子に気が付き、柴田の見ている方を見ていたが何も見つけられないようだった。
俺は怖くて振り返れなかった。
それでも、あの呼吸音だけは耳に入ってくる。
ソレがすぐそこにいることがわかった。動かず、ただそこで「ひゅーっひゅーっ」といっていた。
しばらく硬直状態が続くと、今度は俺達のいるお堂の周りを、ズリズリとなにか引きずるような音が聞こえ始めたんだ。
溝口はこの音が聞こえたらしく、急に俺の腕を掴んできた。
その音は、お堂の周りをぐるぐると回り、次第に呼吸音が「きゅっ……きゅえっ……」っていう何か得体の知れない音を挟むようになった。
俺には音だけしか聞こえないが、ソレがゆっくりとお堂の周りを徘徊していることは分かった。
溝口の腕から心臓の音が伝わってくるのを感じた。
柴田を確認する余裕がなかったが、固まってたんだと思う。
全員微動だにしなかった。
俺は恐怖から逃れるために、耳を塞いで目を瞑っていた。
頼むから消えてくれと、心の中でずっと願っていた。
どれくらい時間が経ったかわからない。ほんの数分だったかも知れないし、そうでないかも知れない。
目を開けて周りを見回すと、お堂の中は真っ暗で、ほぼ何も見えない状態だった。
そしてさっきまでのあの音は、消えていた。
恐怖の波が去ったのか、それともまだ周りにいるのか、判断がつかず動けなかった。
そして目の前に広がる深い闇が、また別の恐怖を連れて来たんだ。
目を凝らすが何も見えない。
「いるか?」「大丈夫か?」の掛け声さえ出せない。
ただ溝口はずっと俺の腕を握ってたので、そこにいるのが分かった。
俺はこの時猛烈に柴田が心配になった。
柴田は明らかに何かを見ていた。
暗がりの中で、柴田を必死に探すが見えない。
俺は、溝口に掴まれた腕を自分の左手に持ち直し、溝口を連れて柴田のいた方へソロソロと歩き出した。
なるべく音を立てないように、そして溝口を驚かせないように。
暗すぎて意思の疎通ができないんだ。
誰かがパニックになったら終わりだと思った。
どこにいるか全くわからないので、左手に溝口の腕を持ったまま、右手を手前に伸ばして左右にゆっくり振りながら進んだ。
すると指先が急に固いものに当たり、心臓がボンっと音を立てた。
手に触れたそれは、手触りから壁だということがわかった。
おかしい、柴田のいた方角に歩いてきたのに柴田がいない。
俺は焦った。さらに壁を折り返してゆっくりと進んだ。だがまた壁に行き着いた。
途方に暮れて泣きそうになった。
「柴田どこだ」の一言を何度も飲み込んだ。
どうしていいかわからなくなり、その場に立ち尽くしたまま溝口の腕を強く握った。
すると、今度は溝口が俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出したんだ。
まず、溝口は壁際まで行くと、掴んだ俺の腕を壁に触らせた。
そしてそのままゆっくりと壁沿いを移動し、角に着いたら進路を変えてまた壁沿いに歩く。
そうやっていくうちに、前を歩く溝口がぱたりと止まった。そして、俺の腕をぐいっと引っ張ると、何か暖かいものに触れさせた。
それは、小刻みに震える人の感触だった。
柴田を見つけたと思った。
でもすぐ後に、(これは本当に柴田なのか?)という疑問が芽生えた。
よく考えたら溝口もそうだ。ずっと近くにいたが、実際俺の腕を掴んでいるのは溝口なのか?
俺は暗闇のせいで、完全に疑心暗鬼に陥っていた。
俺が無言でいると、溝口はまた俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出した。
俺はゆっくりとついていった。
すると、ほんの僅かだが、視界に光が見えるようになった。
不思議に思っていると、部屋にある隙間から少しだけ月の明かりが入ってきているのが目に入った。
溝口はそこへ俺達を連れて行こうとしているのだと思った。
何故気づかなかったのか、今思っても不思議なんだ。
暗闇に目が慣れるというのを聞いたことがあったけど、恐怖に呑まれてそれどころじゃなかった。
ほんとに真っ暗だったんだ。
とにかく、その時俺はその光を見て心の底から救われた気持ちになった。
そして溝口に感謝した。
後から聞いたんだが、
「俺は見えもしなかったし、聞こえもしなかった。なんか引きずってる音は聞こえたんだけどな。でもそのおかげで、お前達よりは余裕があったのかも」
と言っていた。
大した奴だって思った。
光の下に来ると、溝口の反対側の手に柴田の腕が握られているのが見えた。
月明かりで見えた柴田の顔は、汗と涙でぐっしょり濡れていた。
何があったのか、何を見たのか、聞くまでもなかった。
夜は昼と違って、すごく静かで、遠くで鈴虫が鳴いていた。
俺達はしばらくそこでじっとしていた。
恥ずかしながら、三人で互いに手を取り合う格好で座った。ちょうど円陣を組む感じで。
あの状態が一番安心できる形だったんだと思う。
そして何より、例え僅かな光でも、相手の姿がそこに確認できるだけで別次元のように感じられたんだ。
しばらくそうしていると、とうとう予想していたことが起きた。
溝口が催したのだ。
生理現象だから絶対に避けられないと思っていた。
溝口は自分のズボンのポケットから坊さんに貰った布の袋をゴソゴソと取り出すと、立ち上がって俺達から少し離れた。
静寂の中、溝口の出す音が響き渡る。
なんか、まぬけな音に若干気が抜けて、俺も柴田も顔を見合わせてニヤっとした。
その瞬間だった。
「柴田くん」
一瞬にして体に緊張が走る。
するとまた聞こえた。
俺達がお堂に入った扉のすぐ外側からだった。
「柴田くん」
俺達は声の主が誰か一瞬で分かった。
今朝も聞いた、美咲ちゃんの声だった。
「柴田くんおにぎり作ってきたよ」
こちらの様子を伺うように、少し間を空けながら喋りかけてくる。
抑揚が全くなく、機械のようなトーンだった。
柴田の手にぐっと力が入るのが分かった。
「柴田くん」
「……」
しばらくの沈黙の後、突然関を切ったように、
「柴田くんおにぎり作ってきたよ」
「いらっしゃいませ~」
「おにぎり作ってきたよ」
「柴田くん」
「いらっしゃいませ~」
「おにぎり作ってきたよ」
と同じ言葉を何度も何度も繰り返すようになった。
尋常じゃないと思った。
恐かった。美咲ちゃんの声なのに、すげー恐かった。
坊さんはお堂には誰も来ないと俺達に言っていた。
そしてこの無機質な喋り方だ。
扉の外にいるのは、絶対に美咲ちゃんじゃないと思った。
気づくと溝口が俺達の側に戻り、俺と柴田の腕を掴んだ。
力が入ってたから、こいつにも聞こえてるんだと思った。
俺達は三人で、お堂の扉の方を見つめたまま動けなかった。
その間もその声は繰り返し続く。
「いらっしゃいませ~」
「柴田くん」
「おにぎり作ってきたよ」
そしてとうとう、扉がガタガタと音を出して揺れ始めた。
おい、ちょ、待て。
扉の向こうのヤツは扉をこじ開けて入ってくるつもりなんだと思った。
俺は扉が開いたらどうするかを咄嗟に考えた。
(全速力で逃げる、坊さんたちは本堂にいるって言ってたからそこまで逃げて…おい本堂ってどこだ)
とか。もうここからどうやって逃げるかしか考えてなかった。
やがてそいつは、ガンガンと扉に体当たりするような音を立てだした。
無機質な声で喋りながら。
そしてそのまま少しずつ、お堂の壁に沿って左に移動し始めたんだ。
一定時間そうした後にまた左に移動する。その繰り返しだった。
(何してるんだ…?)
不思議に思っていると、俺はあることに気づいた。
俺達のいる壁際には隙間が開いている。
そしてそいつは今そこにゆっくりと向かっている。
(もし隙間から中が見えたら?)
(もし中からアイツの姿が見えたら?)
そう考えると居ても立ってもいられなくなり、俺は二人を連れて急いで部屋の中央に移動した。
移動している。ゆっくりと、でも確実に。
心臓の音さえ止まれと思った。
ヤツに気づかれたくない。
いや、ここにいることはもう気づかれているのかもしれないけど。
恐怖で歯がガチガチといい始めた俺は、自分の指を思いっきり噛んだ。
そして俺は、隙間のある場所に差し掛かったそいつを見た。
見えたんだ。月の光に照らされたそいつの顔を、今まで音でしか感じられなかったそいつの姿を。
真っ黒い顔に、細長い白目だけが妙に浮き上がっていた。
そして体当たりだと思っていたあの音は、そいつが頭を壁に打ち付けている音だと知った。
そいつの顔が、一瞬壁の隙間から消える。
外でのけぞっているんだろう。
そしてその後すぐ、ものすごい勢いで壁にぶち当たるんだ。
壁にぶち当たる瞬間も、白目をむき出しにしてるそいつから、俺は目が離せなくなった。
金縛りとは違うんだ、体ブルブル動いてたし。
ただ見たことのない光景に、目を奪われていただけなのかも知れないな。
あの勢いで頭を壁にぶつけながら、それでも淡々と喋り続けるそいつは、完全に生きた人間とはかけ離れていた。
結局、そいつは俺達が見えていなかったのか、隙間の場所でしばらく頭を打ち付けた後、さらにまた左へ左へと移動していった。
俺の頭の中で、残像が音とシンクロし、そいつが外で頭を打ち付けている姿が鮮明に想像できた。
正直なところ、そいつがどれくらいそこに居たのかを俺は全く覚えていない。
残像と現実の区別がつけられない状態だったんだ。
後から聞いた話だと、そいつがいなくなって静まりかえった後、三人ともずっと黙っていたらしい。
溝口は警戒したから。
柴田は恐怖のため動けなかったから。
そして俺は残像の中で延長戦が繰り広げられていたから。
そんで溝口が俺を光の場所へ連れていこうと腕を掴んだ時、体の硬直が半端なくて一瞬死んだと思ったらしい。
本気で死後硬直だと思ったんだって。
柴田は柴田で、恐怖で歯を食いしばりすぎて、歯茎から血を流してた。
溝口だけは、やっぱり姿を見ていなかった。
あと、そいつはそこから遠ざかって行く時カラスのように「ア゛ーっア゛ー」と奇声を発していたらしい。
その声は、溝口だけが聞いていたんだけど。
そいつの二度の襲来によって、その後の俺達の緊張の糸が緩むことはなかった。
ただ、神経を張り巡らせている分体がついていかなかった。
みんな首を項垂れて、目を合わすことは一切無かった。
柴田は、催したものをそのまま垂れ流していたが、溝口と俺はそれを何とも思わなかった。
あんなに夜が長いと思ったのは生まれて初めてだ。
憔悴しきった顔を見たのも、見せたのも、もちろん人でないものの姿を見たのも。
何もかも鮮明に覚えていて、今も忘れられない。
お堂の隙間から光が差し込んできて、夜が明けたと分かっても、俺達は顔を上げられずそこに座っていた。
雀の鳴き声も、遠くから聞こえる民家の生活音も、すべてが俺の心臓に突き刺さる。
ここから出て生きていけるのか、本気でそう思ったくらいだ。
本格的に太陽の光が中に入りこんできた頃、遠くからこっちに近づいてくる足音が聞こえた。
俺達は完全に身構え体制に入った。
足音はすぐ近くまで来ると、お堂の裏へ回り入り口の前で止まった。
息を呑んでいると、ガタガタっと音がし、「キィーッ」と音を立てて扉が開いた。
そこに立っていたのは、坊さんだった。
坊さんは俺達の姿を見つけると、一瞬泣きそうな顔をして、
「よく、頑張ってくれました」
と言った。
あの時の坊さんの目は、俺一生忘れないと思う。
本当に本当に優しい目だった。
俺は、不覚にも腰を抜かしていた。
そして、いい年こいてわんわん泣いた。
坊さんは、俺達の汗と尿まみれのお堂の中に迷わず入って来て、そして俺達の肩を一人一人抱いた。
その時坊さんの僧衣?から、なんか懐かしい線香の香りがして、(ああ、俺達、生きてる)
って心の底から思った。
そこでまた俺子供のように泣いた。
しばらくしても立ち上がれない俺を見て、坊さんはおっさんを呼んできてくれた。
そして二人に肩を抱えられながら、前日に居た一軒家に向かった。
途中、行く時に見た大きな寺の横を通ったんだが、その時俺達三人は叫び声を聞いた。
低く、そして急に高くなって叫ぶ人の声だった。
家の玄関に着くと耳元で溝口が囁いた。
「さっきのあれ、女将さんの声じゃね?」
まさかと思ったが、確かに女将さんの声に聞こえなくもなかった。
だが俺はそれどころじゃないほど疲れていたわけで。
早く家に上げて欲しかったんだが、玄関に出てきた女の人がすげー不快そうに俺達を見下しながら、「すぐお風呂入って」
って言うんだわ。
まーしょうがない。だって俺達有り得んくらい臭かったしね。
そして俺達は、三人仲良く風呂に入った。
まあ怖かった。
いきなり一人になる勇気はさすがになかった。
風呂を上がると見覚えのある座敷に通され、そこに三枚の布団が敷いてあった。
「まず寝ろ」ということらしかった。
ここは安全だという気持ちが自分の中にあったし、極限に疲れていたせいもあった。
というか、理屈よりまず先に体が動いて、俺達は布団に顔を埋めてそのまま泥のように眠った。
俺は眠りに入る中で、まったくもってどうでもいいことを思った。
(起きたらあいつらに、俺達が帰るって電話しなきゃな。)
旅行の準備満タンでスタンバイする友達二人は、俺達が今こうして死にそうな思いをしていたことを知らない。
もちろん、旅行計画がオジャンになることも。
そういえば、お堂から出る時俺は柴田に聞いたんだ。
「柴田、もう、見えないよな?」
すると柴田は、確かな口調で答えた。
「ああ、見えない。助かったんだ。ありがとう」
おれはその最後の一言を聞いて、柴田が小便を垂らしたことは内緒にしておいてやろうと思った。
俺達は助かったんだ。その事実だけで、十分だった。
その後目を覚ました俺達は、事の真相を坊さんに聞かされることになる。
そして、人間の本当の怖さと、信念の強さがもたらした怪奇的な現実を知るんだ。
柴田の見たもの、俺の見たもの、溝口の聞いたもの。
それを全て知って、俺達は再び逃げ出す決心をする。
後日談
あの後、俺達は死んだように眠り、坊さんの声で目を覚ました。
「皆さん、起きれますか?」
特別寝起きが悪い溝口をいつものように叩き起こし、俺達は坊さんの前に三人正座した。
「皆さん、昨日は本当によく頑張ってくれました。
無事、憑き祓いを終えることができました」
そう言って坊さんは優しく笑った。
俺達は、その言葉に何と言っていいか分からず、曖昧な笑顔を坊さんに向けた。
聞きたいことは山ほどあったのに、何も言い出せなかった。
すると坊さんは俺達の心中を察したのか、「あなたたちには、全てお話しなくてはなりませんね。お見せしたい物があります」
と言って立ち上がった。
坊さんは家を出ると、俺達を連れて寺の方に向かった。
石段を上る途中、柴田はキョロキョロと辺りを警戒する仕草を見せた。
それにつられて俺も、昨日見たアイツの姿を思い出して同じ行動を取った。
それに気づいた坊さんは、俺達に聞いた。
「もう大丈夫のはずです。どうですか?」
「大丈夫…何も見えません」
「俺も平気です」
その返事を聞くと坊さんはにっこりと笑った。
大きな寺に着くと、ここが本堂だと言われた。
坊さんの後ろに続いて寺の横にある勝手口から中に入り、さっきまで居た座敷とさほど変わらない部屋に通された。
坊さんは俺達にここで少し待つように言うと、部屋を出て行った。
柴田は落ち着かないのか貧乏揺すりを始めた。
暫くすると、坊さんは小さな木箱を手に戻って来た。
そして俺達の対面に腰を下ろすと、「今回の事の発端をお見せしますね」
と言って箱を開けた。
三人で首を伸ばして箱の中を覗き込んだ。
そこには、キクラゲがカサカサに乾燥したような、黒く小さい物体が綿にくるまれていた。
何だこれ?
よく見てみるが分からない。
だがなんとなく、どっかで見たことのある物だと思った。
俺は暫く考え、咄嗟に思い出した。
昔、俺がまだ小さい頃、母親がタンスの引き出しから大事そうに木の箱を持ってきたことがあった。
そして箱の中身を俺に見せるんだ。すげー嬉しそうに。
箱の中には綿にくるまれた黒くて小さな物体があって、俺はそれが何か分からないから母親に尋ねたんだ。
そしたら母親は言ったんだ。
「これはねぇ、へその緒って言うんだよ。お母さんと、あんたが繋がってた証」
俺は子供心に(なんでこんなの大事そうにしてるんだろ?)って思った。
目の前にあるその物体は、あの時に見た臍の緒に似ているんだと思った。
「これ何ですか?」
「これは、臍の緒ですよ」
というか似てるもなにも臍の緒だった。
「俺初めて見たかも」
「おれ見たことある」
「俺も」
「みなさん親御さんに見せてもらったのでしょう。
こういうものは、大切に取っておく方が多いですから」
「この臍の緒も、それはそれは大切に保管されていたものなのです」
俺たちは黙って坊さんの話を聞いていた。
「母親の胎内では、親と子は臍の緒で繋がっております。
今ではその絆や出産の記念にと、それを大切にする方が多いですが、臍の緒には色々な言い伝えがあり、昔はそれを信じる者も多かったのです」
「言い伝え?」
「そうです。昔の人はそういう言い伝えを非常に大切にしておりました。今となっては迷信として語られるだけですが」
そう前置きをして坊さんは臍の緒に関する言い伝えを教えてくれた。
主に”子を守る”という意味を持っているが、解釈は様々。
”子が九死に一生の大病を患った際に煎じて飲ませると命が助かる”とか”子に持たせるとその子を命の危険から守る”というのがあって、親が子供を想う気持ちが込められているところでは共通しているらしい。
俺たちはその話を聞いて、「へぇ~」なんて間抜けな返事をしていた。
坊さんは一息入れると、微かに口元を上げて言った。
「ひとつ、この土地の昔話をしてもよろしいですか?
今回の事に関わるお話として聞いいただきたいのです」
俺達は坊さんに頷いた。
ここから、坊さんの話が始まる。
結構長くて、正確には覚えてない、所々抜け落ち部分があるかも。
「この土地に住む者も、臍の緒に纏わる言い伝えを深く信じておりました。
土地柄、ここでは昔から漁を生業として生活する者が多くおりました。
漁師の家に子が生まれると、その子は物心がつく頃から親と共に海に出るようになります。
ここでは、それがごく普通のしきたりだったようです」
「漁は危険との隣り合わせであり、我が子の帰りを待つ母親の気持ちは、私には察するに余りありますが、それは深く辛いものだったのでしょう。母親達はいつしか、我が子に御守りとして臍の緒を持たせるようになります」
「海での危険から命を守ってくれるように、そして行方のわからなくなったわが子が、自分の元へと帰ってこれるようにと」
「帰ってくる?」
俺は思わず口を挟んだ。
「そうです。まだ体の小さな子は波にさらわれることも多かったと聞きます。
行方の分からなくなった子は、何日もすると死亡したことと見なされます。
しかし、突然我が子を失った母親は、その現実を受け入れることができず、何日も何日もその帰りを待ち続けるのだそうです」
「そうしていつからか、子に持たせる臍の緒には、”生前に自分と子が繋がっていたように、子がどこにいようとも自分の元へ帰ってこれるように”と、命綱の役割としての意味を孕むようになったのだと言います」
皮肉な話だと思った。
本来海の危険から身を守る御守りとしての役割を成すものが、いざ危険が起きたときの命綱としての意味も持ってる。
母親はどんな気持ちで子どもを送り出してたんだろうな。
「実際、臍の緒を持たせていた子が行方不明になり無事に帰ってくることはなかったそうです」
「しかしある日、”子供が帰ってきた”と涙を流して喜ぶ一人の母親が現れます。これを聞いた周囲の者はその話を信用せず、とうとう気が狂ってしまったかと哀れみさえ抱いたそうです。
何故なら、その母親が海で子を失ったのは三年も前のことだったからです」
「どこかに流れついて今まで生きてたとかじゃないんですか?」
「そうですね。始めはそう思った者もいたようです。そして母親に子供の姿を見せてほしいと言い出した者もいたそうなのです」
「それで?」
「母親はその者に言ったそうです。”もう少ししたら見せられるから待っていてくれ”と」
どういう意味だ?
帰って来たら見せられるはずじゃないのか?
俺はこの時、理由もなく鳥肌が立った。
「もちろんその話を聞いて村の者は不審に思ったそうですが、子を亡くしてからずっと伏せっていた母親を見てきた手前、強く言うことができずそのまま引き下がるしかできなかったそうです」
「しかし次の日、同じ事を言って喜ぶ別の母親が現れるのです。そしてその母親も、子の姿を見せることはまだできないという旨の話をする。村の者達は困惑し始めます」
「前日の母親は既に夫が他界し、本当のところを確かめる術が無かったのですが、この別の母親には夫がおりました。そこで村の者達は、この夫に真相を確かめるべく話を聞くことになったそうです」
「するとその夫は言ったそうです。”そんな話は知らない”と。母親の喜びとは反対に、父親はその事実を全く知らなかったのです。村人達が更に追求しようとすると、”人の家のことに首を突っ込むな”とついには怒りだしてしまったそうです」
まあ、そうだよな。
何にせよ周りの人に家の中のことをごちゃごちゃ聞かれたらいい気はしないだろうな、なんて思ったりもした。
「その後何日かするとある村の者が、最初に子が戻ってきたと言い出した母親が、昨晩子共を連れて海辺を歩く姿を見たと言い出します。
暗くてあまり良く見えなかったが、手を繋ぎ隣にいる子供に話しかけるその姿は、本当に幸せそうだったと。
この話を聞いた村の者達は皆、これまでの非を詫びようと、そして子が戻ってきたことを心から祝福しようと、母親の家に訪ねに行くことにしたそうです」
「家に着くと、中から満面の笑顔で母親が顔を出したそうです。村の者達はその日来た理由を告げ、何人かは頭を下げたそうです。
すると母親は、”何も気にしていません。この子が戻って来た、それだけで幸せです”と言いながら、扉に隠れてしまっていた我が子の手を引き寄せ、皆の前に見せたそうです」
「その瞬間、村の者達はその場で凍りついたそうです」
「……」
「その子の肌は、全身が青紫色だったそうです。そして体はあり得ない程に膨らみ、腫れ上がった瞼の隙間から白目が覗き、辛うじて見える黒目は左右別々の方向を向いていたそうです。
そして口から何か泡のようなものを吹きながら母親の話しかける声に寄生を発していたそうです。それはまるでカラスの鳴き声のようだったと聞きます。
村の者達は、子供の奇声に優しく笑いかけ、髪の抜け落ちた頭を愛おしそうに撫でる母親の姿を見て、恐怖で皆その場から逃げ出してしまったのだそうです」
「散り散りに逃げた村の者達はその晩、村の長の家に集まり出します。
何か得体の知れないものを見た恐怖は誰一人収まらず、それを聞いた村の長は自分の手には負えないと判断し、皆を連れてある住職の元へ行くことにします。
その住職というのが、私のご先祖に当たる人物らしいのですが……」
「相談を受けた住職は、事の重大さを悟りすぐさま母親の元に向かいます。
そして母親の横に連れられた子を見るや、母親を家から引きずり出し寺へと連れて帰ったそうです。
その間も、その子は住職と母親の後をずっと付いてきて奇声を発していたのだとか」
「寺に着くとまず結界を強く張った一室に母親を入れ、話を聞こうとします。
しかし、一瞬でも子と離れた母親は、その不安からかまともに話をできる状態ではなかったと聞きます。
ついには子供を返せと、住職に向かってものすごい剣幕で怒鳴り散らしたのだそうです」
「それでどうなったんですか?」
「子を想う母は強い。住職が本気で押さえ込もうとしたその力を跳ね飛ばし、そのまま寺を飛び出してしまったのだそうです」
坊さんは少し情けなそうな顔をしてそう言った。
「その後、村の者と従者を何人か連れて母親の家に行きましたが、そこに母と子の姿はなかったそうです。
そして家の中には、どこのものかわからない札が至る所に貼り付けられ、部屋の片隅には腐った残飯が盛られ異臭が立ち込めていのだとか」
この時俺は思った。あの旅館の二階で見たものと同じだと。
「そこに居た皆は同じことを思いました。母親は子を失った悲しみから、ここで何かしらの儀を行っていたのだと。
そして信じ難いことだが、その産物としてあのようなモノが生まれたのだと。その想いを悟った村の者達は、母親の行方を村一丸になって捜索します」
「住職はすぐさま従者を連れ、もう一人の母親の家に向かいますが、こちらも時既に遅しの状態だったそうです。
得体の知れないモノに語りかけ、子の名前を呼ぶ母親に恐怖する父親。その光景を見た住職は、経を唱えながらそのモノに近づこうとしますが、子を守る母親は住職に白目を向き、奇声を発しながら威嚇してきたのだそうです」
現実味のない話だったのに、なぜかすごく汗ばんだ。
「村の者は恐れ、一歩も近寄れなかったと言います。しかし住職とその従者は臆することなくその母親とそのモノに近づき、興奮する母親を取り押さえ寺へ連れ帰ります。
暴れる母親を抱えながら、背後から付いて来るモノに経を唱え、道に塩を盛りながら少しずつ進んだのだそうです」
「寺に着くと住職は母親をお堂へ連れて行き、体を縛りその中に閉じ込めたのだそうです」
「そんなことを……」
溝口が哀れみの声を出した。
「仕方がなかったのです。親と子を離すのが先決だった、そうしなければ何もできなかったのでしょう」
坊さんがしたことではないが、溝口は坊さんから顔を背けた。
少しの沈黙の後、坊さんは続けた。
「母親の体には自害を防ぐための処置が施されたようですがその詳細は分かりません。
その後、お堂の周りに注連縄を巻きつけ、住職達はその周りを取り囲むようにして座り経を唱え始めたそうです。中から母親の呻き声が聞こえましたが、その声が子に気づかれぬよう、全員で大声を張り上げながら経を唱えたそうです」
「住職達が必死に経を唱える中、いよいよ子の姿が現れます。
子は親を探し、お堂の周りをぐるぐると回り始めます。
何を以って親の場所を捜すのか、果たして経が役目を成すのかもわからない状態で、とにかく住職達は必死に経を唱えたのです」
そこで坊さんは一息ついた。
「それで、どうなったんですか?」
柴田の声は恐る恐るといった感じだった。
「お堂の周りを回っていたそのモノは、次第に歩くことを困難とし、四足歩行を始めたそうです。
その後、四肢の関節を大きく曲げ、蜘蛛のように地を這い回ったそうです。
それはまるで、人間の退化を見ているようだったと。
その後、なにやら呻き声を上げたかと思うとそのモノの四肢は失われ、芋虫のような形態でそこに転がっていたのだとか」
「そしてそのモノは夜が明けるにつれて小さくすぼみ、最終的に残ったのが、臍の緒だったのです」
俺は、坊さんの話に聞き入っていた。
まるで自分達の話に毛が生えて、昔話として語られているような感覚だった。
すると溝口が聞いたんだ。
「え、もしかしてその臍の緒って……」
すると坊さんは静かに答えた。
「今朝、お堂奥の岩の上に転がっていたものです」
「マジかよ……」
柴田は呆然として呟いた。
「なんで?なんで俺達なんですか?」
「詳しくはわかりません。この寺には、代々の住職達の手記が残されていますが、母親でない者にこのような現象が起きた事例は見当たりませんでした」
「何より、肝心の母親の行った儀式について。これがまだ謎に包まれたままなのです」
「母親に聞かなかったんですか?」
「聞かなかったのではなく、聞けなかったのです」
ポカンとしていると坊さんはまた話し始めた。
「住職達がお堂を開け中を確認すると、疲れ果ててぐったりした母親がいたそうです。子を求めて一晩中叫んでいたのでしょう。
すぐさま母親を外に運びだし手当てをしましたが、目を覚ました時には、母親は完全に正気を失っておりました。
二度も子を失った悲しみからなのか、はたまた何か禍々しいモノの所為なのか、それも分かりかねますが」
「そして村の者が捜索していたもう一人の母親ですが、一晩経を読み上げ疲れ果てた住職達の元に、発見の知らせが届いたそうです。
近海の岸辺に遺体となって打ち上げられていたと。母親は体中を何かに食い破られており、それでいて顔はとても幸せそうだったとあります。
何が起きたのかはわかりませんが、住職の手記にはこうありました。”子に食われる母親の最後は、完全な笑顔だった”と」
信じられないような話なんだが、俺達は坊さんの話す言葉一つ一つをそのまま飲み込んだ。
「遺体となって見つかった母親の家は、村の者達による話し合いで取り壊されることとなり、その際に家の中から母親の書いたものらしいメモが見つかったそうです」
そう言って坊さんはそのメモの内容を俺達に説明してくれた。
簡単に言うと、儀式を始めてからの我が子を記録した成長記録のようなものだったそうだ。
どんな風に書かれていたのかは憶測でしかないんだが、内容は覚えているので以下に書く。
我が子の成長記録
○月◯日 堂の作成を開始する
◯月◯日 変化なし
○月◯日 我が子が、帰ってくる
○月◯日 移動が困難な状態
○月◯日 手足が生える
○月◯日 はいはいを始める
○月◯日 四つ足で動き回る
○月◯日 言葉を発する
○月◯日 立つ
この成長記録に、母親の心情がビッシリと書き連ねてあったらしい。
ちなみに、もう一人の母親は、屋根裏に堂を作っていたらしく、父親はその存在に全く気づいていなかったのだそうだ。
「私もすべてを理解しているとは言えませんが、この母親の成長記録と住職の手記を見比べると、そのモノは自分の成長した過程を遡るようにして退化していったと考えられませんか?」
確かにその通りだと思った。
そして坊さんは、それ以上の言及を避けるように話を続けた。
「これ以降手記には、非常に稀ですが同じような事象の記述が見られます。だがその全てに、母親達がいつどのようにしてこの儀を知るのかが明記されていないのです。それは全ての母親が、命を落とす若しくは、話すこともままならない状態になってしまったことを意味しているのです」
坊さんは早期に発見できないことを悔やんでいると言った。
「今回の現象は初めてのことで、私自身もとても戸惑っているのです。何故母親ではないあなたがそのモノを見つけてしまったのか。子の成長は母親にしか分からず、共に生活する者にもそれを確認することはできないはずなのです」
そんなデタラメな話有りなのか?と思った。
そして柴田が、話の核心を知ろうと、恐る恐る質問した。
「あの、母親って、…もしかして女将さんなんですか?」
坊さんは少し黙り、答えた。
「その通りです」
「真樹子さんは、この村出身の者ではありません。善次郎さん(旦那さんの名前)に嫁ぎこの村にやってきました。息子を一人儲け、非常に仲の良い家族でした」
そう言って話してくれた坊さんの話の内容は、大方予想が付いていたものだった。
女将さんの一人息子は、数年前のある日海で行方不明になったそうだ。
大規模な捜索もされたが、結局行方は分からなかったらしい。
悲しみに暮れた女将さんは、周囲から慰めを受け、少しずつだが元気を取り戻していったそうだ。
旅館もそれなりに繁盛し、周囲も事件のことを忘れかけた頃、急に旅館が二階部分を閉鎖することになったんだって。
周りは不振に思ったが、そこまで首を突っ込むことでもないと、別段気にすることはなかったそうだ。
そしてこの結果だ。
女将さんは、どこから情報を得たのか不明だが、あの二階へ続く階段に堂を作り上げそこで儀式を行っていた。
そしてその産物が俺達に憑いてきたという訳だが、ここがこれまでの事例と違うのだと坊さんは言った。
本来儀式を行った女将さんに憑くはずの子が、第3者の俺達に憑いたんだ。
考えられる違いは、女将さんは息子に臍の緒を持たせていなかったということ。
そこの村の人達は、昔からの風習で未だに続けている人もいるらしいが、女将さんはその風習すら知らなかった。
これは旦那さんが証言していたらしい。
そして妙な話だが、旅館の二階を閉鎖したというのに、バイトを三人も雇った。
旦那さんも初めは反対したそうだが、女将さんに「息子が恋しい。同年代くらいの子達がいれば息子が帰ってきたように思える」と泣きつかれ、渋々承知したそうなんだ。
これは坊さんの憶測なんだが、女将さんは初めから、帰ってきた息子が俺達を親として憑いていくことを知っていたんではないかということだった。
結局これらのことを俺達に話した後坊さんはこう言った。
「あなた達をあのお堂に残したこと、本当に申し訳なく思います。しかし、私は真樹子さんとあなた達の両方を救わなければならなかった。
あなた達がここにいる間、私達は真樹子さんを本堂で縛り、先代が行ったように経を読み上げました。あのモノがお堂へ行くのか、本堂へ来るのか分からなかったのです」
つまり、俺達に憑いてきてはいるが、これまでの事例からいくと母親の女将さんにも危険が及ぶと、坊さんはそう読んでいたってことだ。
俺は、別に坊さんが謝ることじゃないと思った。
それにこの人は命の恩人だろ?と思って柴田を見ると、肩を震わせながら坊さんを睨み付けて言ったんだ。
「納得いかない。自分の息子が帰ってくりゃ人の命なんてどーでもいいのか?」
「……」
「全部吐かせろよ!なんでこんな目に遭わせたのか、それができないなら俺が直接会って聞いてやる」
「旦那さんだって知ってたんだろ?それなのに何で言わなかったんだ?」
「善次郎さんは知らなかったのです」
「嘘つくな。知ってるようなこと言ってたんだ」
「この話は、この土地には深く根付いています。善次郎さんが知っていたのは伝承としてでしょう」
坊さんが嘘を吐いているようには見えなかった。
だが柴田の興奮は収まりきらなかったんだ。
「ふざけんじゃねーぞ。早く会わせろ。あいつらに会わせろよ!」
俺達は柴田を取り押さえるのに必死だった。
坊さんは微動だにせず、柴田の怒鳴り声を静かに聞いていた。
そして、
「この話をすると決めた時点で、あなた達には全てをお見せしようと思っておりました。真樹子さんのいる場所へ案内します」
と言って立ち上がったんだ。
坊さんの後を付いて、しばらく歩いた。本堂の中にいるかと思っていたんだが、渡り廊下みたいなのを渡って離れのような場所に通された。
近づくにつれて、なにやら呻き声と何人かの経を唱える声が聞こえてきた。
そして、その声と一緒に、
バタンッバタン
という音が聞こえた。かなりでかかった。
離れの扉の前に立つと、その音はもうすぐそこで鳴っていて、中で何が起きているのかと俺は内心びくびくしていた。
そして坊さんが離れの扉を開けると、そこには女将さん一人とそれを取り囲む坊さん達が居た。
俺達は全員、言葉を発することができなかった。
女将さんは、そこに居たというか…なんか跳ねてた。エビみたいに。うまく説明できないんだが。
寝た状態で、畳の上で、はんぺんみたいに体をしならせてビタンビタンと跳ねていたんだ。
人間のあんな動きを俺は初めてみた。
そして時折苦しそうにうめき声を上げるんだ。
俺は怖くて女将さんの顔が見れなかった。
正直、前の晩とは違う、でもそれと同等の恐怖を感じた。
呆然とする俺達に坊さんは言った。
「この状態が、今朝から収まらないのです」
すると溝口が耐え切れなくなり、「俺、ここにいるのキツイです」と言ったので、一旦外に出ることになった。
音を聞くことさえ辛かった。
つい昨日の朝に見た女将さんの姿とは、まるで別人の様になっていた。
そこから少し離れたところで俺達は坊さんに尋ねた。
憑き物の祓いは成功したのではないかと。
「確かに、あなた達を親と思い憑いてきたものは祓うことができたのだと思います。現にあなた達がいて、ここに臍の緒がある。しかし……」
すると急に柴田が言ったんだ。
「そうか…俺が見たのは、一つじゃなかったんだ」
初めは何のことを言ってるのかわからなかったんだが、そのうちに俺もピンときた。
柴田はあの時、二階の階段で複数の影を見たと言っていなかったか?
「一つではないのですか?」
坊さんは驚いたように聞き返し、柴田がそうだと答えるのを見ると、また少し黙った。
そして暫く考え込んでいたかと思うと急に何かを思い出したような顔をして、俺達に言ったんだ。
「あなた達は鳥居の家に行ってください。そしてあの部屋を一歩も出ないでください。後で人を行かせます」
ポカンとする俺達を置いて、坊さんはそのまま女将さんのいる離れの方に走って行った。
俺達は急に置いてけぼりを食らい、暫く無言で突っ立っていた。
すると離れの方から、複数の坊さんが大きな布に包まった物体を運び出しているのが見えた。
その布の中身がうねうねと動いて、時折痙攣しているように見えた。
あの中にいるのは女将さんだと全員が思った。
そのままお堂の方に運ばれていく様を、俺達は呆然と見ていたんだ。
ふとお互い顔を見合わせると、途端に怖くなり、俺たちは早足で家に向かった。
そこからは、説明することが何も無いほど普通だった。
家に行って暫くすると、別の坊さんがやって来て「ここで一晩過ごすように」と言われた。
そしてその坊さんは俺たちの部屋に残り、微妙な雰囲気の中四人で朝を迎えたというわけ。
次の朝
早めに目が覚めた俺達がのん気にテレビを見ていると、坊さんがやって来た。
俺達は坊さんの前に並んで話を聞いた。
坊さんは俺達の憑き祓いは完全に終わったと言った。
昨日言っていた通り、俺達に憑いてきたモノは一匹で、それは退化を遂げて消滅したのを確認したんだと。
俺達はそれを聞いて安堵した。
しかし坊さんはこう続けた。
女将さんを救うことができなかったと。
泣きそうなのか怒っているのか、なんとも言えない表情を浮かべてそう言った。
死んだのかと聞くと、そうではないと言うんだ。
俺はその言葉から、女将さんが跳ね回っている姿を思い出した。
(ずっとあの状態なのか…?)
恐る恐るそれを聞くと、坊さんは苦い顔をしただけで、肯定も否定もしなかった。
女将さんの今の状態は、憑きものを祓うとかそういう次元の話ではなく、何かもっと別のものに起因してるんだって。
詳しくは話してくれなかったんだが、女将さんが行った儀式は、この地に伝わる「子を呼び戻す儀」と似て非なるものらしい。
どこかでこの儀の存在と方法を知った女将さんは、息子を失った悲しみからこれを実行しようと試みる。
だが肝心の臍の緒は自分の手元にあったわけだ。
こっからは坊さんの憶測なんだが、女将さんはこれを試行錯誤しながら完成系に繋げたんじゃないかということだった。
自分の信念の元に。そしてそこから得た結果は、本来のものとは別のものだった。
堂には複数のモノがおり、そこに息子さんがいたかは分からないと。
坊さんが言ってた。
この儀の結末は、非常に残酷なものでしかないんだと。
それを重々承知の上で、母親達は時にその禁断の領域に足を踏み入れてしまう。
子を失う悲しみがどれ程のものなのか、我々には推し量ることしかできないが、心に穴の開いた母親がそこを拠り所としてしまうのは、いつの時代にもあり得ることなのではないかと。
柴田は、女将さんのこれからを執拗に聞いていたが、坊さんは何も分からないの一点張りで、俺たちは完全に煙に巻かれた状態だった。
俺達が坊さんと話終えると、部屋に旦那さんが入ってきた。
俺は正直ぎょっとした。
顔が土色になって、明らかにやつれ切った顔をしてたんだ。
そして、俺達の前に来ると泣きながら謝って来た。
泣きすぎて何を言ってるのかは全部聞き取れなかったんだけど、俺達は旦那さんのその姿を見て誰も何も言えなかった。
俺達に申し訳ないことをしたと泣いているのか、それとも女将さんの招いた結果を思って泣いているのか、どっちだったんだろうな。
今となってはわかんねーな。
その後、俺達は何度も坊さんに確認した。
これ以降俺達の身には何も起きないのか?と。
すると坊さんは困ったような顔をしながら「大丈夫」だと言った。
その後、坊さんの所にタクシーを呼んでもらって俺達は帰ることになった。
一応、昨日の朝俺を家まで運んでくれたおっさんが駅まで同乗してくれることになったんだが。
このおっさんがやたら喋る人で、それまでの出来事で気が沈んでる俺達の空気を一切読まずに一人で喋くりまくるんだ。
そんでこのおっさんは「それにしても、子が親を食うなんて、蜘蛛みたいな話だよなぁ」と言ったんだ。
俺達は胸糞悪くなって黙ってたんだけど、おっさんは一人で続けた。
「お前達、ここで聞いた儀法は試すんじゃねーぞ。自己責任だぞ」
そう言って笑うんだ。
俺達の気持ちを和らげようとして言ってるのか本気でアホなのかわかんなかったけど、一つ確かなことがあった。
俺達は、坊さんに真実を隠されて教えられたんだ。
儀の方法は、その結果と一緒にこの地に伝わってるんだ。
このおっさんが知ってて坊さんが知らないはずないだろ?
そう思うと、これだけの体験をさせといて、結局は大事なところを隠して話されたことにすげーショックを受けた。
坊さんを信用していた分、なんか怒りにも似たものが湧き上がってきたんだ。
タクシーが駅に着くと、おっさんが金を払うと言ったが俺達は断った。
早くこの場所から逃げ出したい、その一心だった。
坊さんが「大丈夫」と言った一言も、全部嘘に思えてきた。
それでも俺達には、あの寺に戻る勇気はなくて、帰りの電車をただただ無言で待つことしかできなかったんだ。
その後、帰って来てからは、なんともない。
まあ、なんともないからここに書き込めてるわけだけど。
「もう二度とあの場所へは行かない」
三人で話してると必ず一回はその言葉が出てくるくらい、俺達にとってトラウマになった出来事だったんだ。
あと、柴田はあれから蜘蛛を見るのがどうもダメらしい。
成長過程のアイツの姿を見てるからね。
俺はと言うと、今は普通に社会人やってます。
若干暗闇が苦手になったくらい。
人間のど元過ぎれば熱さ忘れるって、あながち間違いじゃないかもしれないな。
本当の本当に後日談なんだが、その話を残りの友達二人に話したんだ。
二人とも俺達三人の様子を見て、一応信じてはくれたんだけど。
でもそいつらその後に、興味半分で旅館に電話を掛けてみたんだって。(最低だろ)
そしたら、電話に出たのは普通のおばさんだったらしい。
そいつら俺達に言うんだよ。女将さんか確認しろって。そんで、後ろでカラスが異様に鳴いてるって言うんだ。
絶対無理だと思った。女将さんが無事でも無事じゃなくても、俺にはその後を知る勇気なんか出なかった。
(完)