今でも、湿った羊毛と線香が混じったような匂いを嗅ぐと、内臓がずるりと下がる感覚に襲われる。
恐怖というより、生理的な拒絶に近い。喉の奥が引き攣り、身体が勝手に距離を取ろうとする。
幼い頃の私は、生きている人間より、死んだ者たちの方に好かれていたらしい。
そう言ったのは母だった。信心深いというより、土地に染みついた因習を疑わずに受け入れている人で、私が原因不明の高熱を出すたび、心配より先に妙に納得した顔をした。
「あんたは筋がいいからね」
氷嚢を替える母の手は冷たく、その感触に、私は決まって骨に触れられたような錯覚を覚えた。葬式の帰りや彼岸の墓参りの後、私は必ず熱を出した。風邪ではない。体の芯が鉛のように重くなり、関節の隙間に泥を詰め込まれた感覚が数日続く。
布団の中で天井の木目を数えていると、母は薬草を煎じた匂いの湯を持ってきて、枕元に座る。
「ご先祖様が触りたがってるんだよ。ありがたいことさ」
可愛がられている。その言葉を聞くたび、私の皮膚の上を無数の透明な手が這い回る想像が浮かんだ。熱を吸い、体温を奪い、どこか冷たい場所へ引きずり込もうとしている手だ。私はこの世とあの世の境目に置かれた、調整途中の何かのように感じていた。
私の部屋は、築五十年以上の古い家の二階にあった。夜になると柱や梁が低い音を立て、家全体が息をしているように感じられた。特に雨の日はひどい。湿気を含んだ畳が沈み、部屋が沼の底に沈んだような圧迫感に包まれる。
そんな夜、決まって同じ夢を見る。
私は自分の部屋の布団に寝ている。天井の染み、掛け布団の重み、遠くの雨音。すべてが現実と同じだ。ただ一つ、異常が起きる。
何の前触れもなく、畳一畳分の床が回転を始める。左右でも前後でもない。頭から足先へと貫く一本の軸を中心に、床が裏返ろうとする。世界そのものが、コインのように反転し始める。
ゴゴゴゴという低い音が響く。畳が擦れる音であり、同時に錆びた蝶番が軋む音でもあった。
回転は最初ゆっくりだ。頭が沈み、足が持ち上がる。血が頭に集まり、内臓が喉元まで迫る。私は布団にしがみつくが、落ちることはない。世界ごと回っているだけだ。
怖いのは落下ではない。裏側に何があるかを、身体が先に知っていることだった。光のない場所。湿った土の匂い。縁の下の闇。母の言う「触りたがるもの」たち。
回転が九十度に近づくと、私は必ず叫んで目を覚ました。
この夢は執拗に続いた。体調を崩す周期と重なり、回転は次第に速くなった。ギギギと震え、時にガクンと急に傾く。明晰夢だと気づいても、身体は動かない。ただ目覚めるために意識を引き剥がすしかなかった。
母に訴えても、「そのうち馴染むよ」と言うだけだった。
高学年になる頃、恐怖は少しずつ別のものに変わった。慣れと疲労と、奇妙な好奇心だ。毎回途中で終わることに、苛立ちすら覚えるようになった。
最後まで回ったら、どうなるのか。
その考えが頭から離れなくなった。逃げるから続くのではないか。いっそこちらから行けば終わるのではないか。
次は逃げない。そう決めて眠りにつく夜が増えた。
雨の夜だった。夢だとすぐ分かった。空気が重く、音が鈍い。
回転が始まる。本能が逃げろと叫ぶが、私は布団の縁を握り、耐えた。回転が進む。部屋が横倒しになり、照明が真横から照らす。九十度を超えた。
重力が反転する。
私は落ちたのではない。裏側へ、納められた。
音も光もない闇。だが匂いだけははっきりしていた。湿った土と線香と、長く閉じた場所の匂い。懐かしいようで、説明できない安心感があった。
狭い。私の体の形にぴったり合う空間だった。触れられる。撫でるのではない。位置を確かめ、数を数え、余分を削ぎ落とすような触れ方だ。冷たい手が、私の体温を均していく。
眠気が広がる。抗う理由が思い出せない。
気づくと朝だった。汗もなく、身体は妙に軽かった。胸の奥にあった焦げるような不安は消え、代わりに冷たい重石が腹の底に落ち着いていた。
それ以来、熱は出なくなった。墓地に行っても平気だった。線香の匂いで息が楽になる。味覚だけが、少し遠くなった。
母は私を見ると、「馴染んだね」と言った。それ以上は何も言わなかった。
大人になった今も、床が軋む音を聞くことがある。そのたびに、あの重石がわずかに動く。
床の下には、かつて途中で目覚めていた私が、まだ裏返りきらずに残っている気がする。いつかまた回転が始まる。その時は、今度こそ最後まで行くのだろう。
その時、どちらが表で、どちらが裏かは、もう問題ではない。
(了)
[出典:106 :本当にあった怖い名無し:2025/04/22(火) 00:21:18.71ID:lfMFPOkI0]