高校一年の夏休みが明けて、まだ教室に暑さが残っていた頃だった。席に着いて間もなく、前の席の男が振り向いた。
「イトウって知ってる?」
「イトウ? 誰それ」
男はしばらく俺の顔を見ていた。
「何言ってんだよ。同級生だろ。お前の地元の友達だろ」
知らない、と答えた。冗談を言っている様子ではなかったが、俺には本当に心当たりがなかった。
数日後、また同じことを聞かれた。
「やっぱり知ってんだろ。アイツ、お前と仲良かったらしいじゃん」
「だから知らないって」
「しらばっくれるなよ」
そこから喧嘩になった。向こうは、昔からの友達を知らないふりをしている俺が気に入らないらしかった。俺には、会ったこともない人間との付き合いを認めろと言われているようにしか思えなかった。
帰宅して、小学校から中学校までの卒業アルバムを全部調べた。クラス写真だけでなく、委員会や部活のページ、巻末の名簿まで見たが、イトウという人間はいなかった。
その男とはそれきりほとんど口をきかなくなった。しばらくして、彼は転校した。
高校二年になったある日、部活で隣のクラスの奴に声をかけられた。
「なあ、イトウって知ってる? お前と同じ中学だったんだろ」
また、その名前だった。
「知らない」
「女だよ。背が低くてさ。友達の友達なんだけど、この前一緒にカラオケ行ったんだよ。ノリのいい奴」
女だということさえ、そのとき初めて知った。
「本当に知らないの?」
「知らない」
数日後、そいつが話しかけてきた。今度はイトウの話をしたがらないように見えた。
「あのさ。お前に会わせようと思ってたイトウ、いなくなったらしい」
「いなくなった?」
「家ごと。夜逃げみたいに、急に」
それ以上のことは、そいつも知らなかった。
その後、地元の友人から電話があった。
「イトウって同級生いたっけ?」
「いない。お前も聞かれたのか?」
少し黙ってから、そいつは「お前も?」と言った。
調べてみると、俺を含めた三人が、別々の高校で、別々の人間からイトウについて聞かれていた。聞き方まで似ていた。俺たちと同じ中学で、俺たちの知り合いだったはずだという。
同窓会でも名前を出してみたが、イトウを覚えている奴はいなかった。結婚して名字が変わったのではないか、連絡のつかない誰かではないか、という話も出たが、確かめようがなかった。
半年ほどして、幼馴染の従姉妹と会った。話の途中で、彼女は急に俺の顔を見た。
「ねえ、イトウって知ってる?」
俺はすぐには答えられなかった。
「……いないよ。そんな奴」
「だよね」
彼女はもう一度、「いないよね」と言った。
それからしばらく、イトウの名前を聞くことはなかった。
次に聞いたのは、大学卒業が近づいた頃だった。バイト先の同僚が、休憩中に何気なく言った。
「イトウって知ってる?」
俺は相手の顔を見た。
「背が低い女か」
「そう」
「俺と同じ中学だったって?」
「そうそう」
「俺と仲がよかった?」
そこで相手は笑った。
「なんだよ。やっぱ知り合いじゃん」
そいつはその場でイトウに電話をかけた。
呼び出し音のあと、女が出た。
「もしもしぃ」
俺が聞いたイトウの声は、それだけだった。
電話を切ったあと、番号を見せてくれと言ったが、同僚はなぜか嫌がった。その夜を境に、バイト先で俺への態度が変わった。挨拶をしても返事をされず、必要な連絡まで俺だけ後から知らされるようになった。やがて店長から、しばらく来なくていいと言われた。
その店は後になくなった。
高校一年のときの男は転校した。二年のときにイトウを紹介しようとした奴は、その後学校を辞めた。幼馴染の従姉妹とも、以前のようには話せなくなった。
それらがイトウと関係しているのかは分からない。関係があると考え始めたのは、俺のほうだったのかもしれない。
だから、彼女にはこの話をしていなかった。
イトウという名前も、一度も出していない。
それなのに昨夜、彼女が俺に聞いた。
「ねえ、イトウって知ってる?」
俺は答えなかった。
彼女は少し待ってから、不思議そうに首を傾げた。
「何、その顔」
そして笑った。
「昔、あんなに仲よかったじゃん」
[出典:36 :本当にあった怖い名無し:2007/08/25(土) 20:59:44 ID:v+Sa2shO0]