徳島の山奥に住んでいた頃の話だ。
十歳の私にとって、祖母と二人で山菜を採りに出かけるのは特別な行事ではなかった。春になると当たり前のように山へ入り、祖母の背中を追って歩いた。柔らかな陽射しが枝葉の隙間から落ち、川の匂いと湿った土の匂いが混じる。祖母は腰に手ぬぐいを巻き、草籠を背負い、無駄のない足取りで山道を進んでいく。その背中は小さかったが、迷いがなかった。
息が上がり、額に汗が滲み始めた頃、祖母は足を止めて言った。
「ここらで一服しよ」
祖母が腰を下ろすと、私は待ちきれずに周囲を歩き回った。子供の足でも踏み込める細い獣道があり、木漏れ日が揺れていた。その道を辿ると、草が胸の高さほどに伸びた場所に出た。
そこで、足が止まった。
草むらの奥に、バラックのような小屋がいくつか見えた。二軒か三軒。どれもトタン板を寄せ集めただけの粗末な造りで、錆びた壁には穴が空き、窓らしき場所には古い布が垂れ下がっていた。人の気配はあるのに、生活の音がしない。風が吹くたび、布が擦れる音だけがしていた。
胸の奥がざわついた。理由は分からない。ただ、長く居てはいけない場所だと、身体が先に理解していた。
その時、背後に気配を感じた。
振り返ると、茂みの暗がりに三人の男が立っていた。身長は揃っていないのに、体つきは妙に似ていた。ずんぐりとした胴体、短い首、丸刈りの頭。ぎょろりと大きな目が、こちらをじっと見ている。顔の作りまで不自然に似通っていて、兄弟というより、同じ型で作られた人形のようだった。
誰も声を出さない。
次の瞬間、三人は同時に頬を膨らませた。
「ふぅーっ……」
湿った息が一斉に吐き出された。音というより、圧だった。空気が押し寄せ、草がざわりと揺れた。意味は分からない。ただ、吸ってはいけないものだと直感した。
「ふぅーっ……ふぅーっ……」
息は止まらない。三人は同じ動作を繰り返し、じりじりと距離を詰めてくる。陽の光に晒されたその顔は、人間の表情をしていなかった。何かを伝えようとしているようで、何も伝わらない。理解を拒む、空っぽの顔だった。
恐怖が喉まで込み上げ、私は叫んだ。泣き声が山に響いた。泣きながら後ずさりする私に向かって、三人は息を吐き続ける。山の静けさが、呼吸の音で歪んでいく。
その瞬間、背後から顔を掴まれた。
硬い手が口を塞ぎ、鼻を押さえつける。息ができない。視界が白くなり、必死に暴れた。耳元で低い声がした。
「息、止めれ」
祖母だった。
祖母は私を抱え込むようにして、口と鼻を塞いだまま走り出した。酸素が途切れ、胸が焼けるように痛む。意識が遠のきかける中、視界の端に、まだこちらを追ってくる三人の姿が映った。頬を膨らませたまま、同じ顔で、同じ動作で、息を吐き続けている。
山道に出たところで、祖母はようやく手を離した。肺に空気が流れ込み、私は咳き込みながら地面に転がった。祖母はその場に座り込み、肩を震わせて泣いていた。
理由は分からなかった。ただ、祖母が泣くほどのことが起きたのだと、それだけは伝わってきた。
家に戻り、祖父にすべてを話した。途中で祖父は祖母を見た。次の瞬間、祖母の頬に強烈な平手が飛んだ。乾いた音が部屋に響き、祖母は壁に倒れ込んだ。
「余計なことをするな」
祖父はそれだけ言い、私を見なかった。

その夜、祖母に何が起きたのかを聞こうとした。祖母は赤く腫れた目で首を振るだけだった。何も言わない。何も言えないようだった。
夕食の支度をしている最中、祖父が背後から近づき、祖母の首筋を拳で殴った。祖母は悲鳴をあげ、床に崩れ落ちた。私は声も出ず、その場に立ち尽くしていた。
それ以降、あの山の話は家の中で消えた。
大人になって、ふと思う。あの三人が何をしていたのか。あの息は、ただの風だったのか。祖母が私の呼吸を止めたのは、なぜあれほど必死だったのか。
答えは分からない。
ただ一つ確かなのは、あの時、吸ってはいけないものがあったという感覚だけだ。
春先、強い風が吹く日がある。山の方角から風が流れてくると、耳の奥であの音が蘇る。
「ふぅーっ……ふぅーっ……」
呼吸の音。頬を膨らませた三つの顔。あの時、もし一息でも吸い込んでいたら、今の私はここにいない気がする。どこかの茂みの奥で、同じように息を吐き続けていたのではないか。誰かが近づくのを、じっと待ちながら。
そう考えると、無意識に息を浅くしている自分に気づく。
呼吸は、生きるためのものだったはずなのに、今もどこか信用できないままだ。
(了)