大学三年の春、正確には二年生になって間もない頃の話だ。
久しぶりに地元へ帰省し、家族への挨拶を済ませたあと、ふと昔よく遊んだ近所の山を歩いてみたくなった。少し肌寒く、ウイスキーのボトルを一本持って、口に含みながら山道へ入った。懐かしい景色は昔と変わらず、気持ちが緩んでいたのだと思う。
しばらく歩くと、茂みの奥から声がした。
「こっちに来て、飲まないか」
焚き火の揺れる明かりが見え、そのそばに男が一人いるのがわかった。酔いもあって警戒心は薄く、違和感を覚える前に足がそちらへ向いていた。男は焚き火の前で魚を焼いていた。
何となくウイスキーを差し出すと、男は目を輝かせて「こんなもん、見たことがない」と言った。やけに嬉しそうだった。代わりに焼き魚を勧められ、焚き火を挟んで一緒に飲み始めた。
男は昔の話を語り出した。この山で暮らしていた人々のこと、山菜を採りに来た親子のこと、転んだ子供を必死になだめる親の姿。どれも特別な話ではないのに、身振りや声色が妙に生々しく、情景がはっきり浮かんだ。子供が泣き止まず、親が「着物が破れた」と慌てる場面だけ、なぜか強く印象に残った。
気づけば魚は何匹も食べ終え、焚き火は小さくなっていた。男は急に言った。
「もう帰れ」
理由は言わなかった。別れ際、残りのウイスキーを渡そうとすると、男は無言で魚と山菜を大量に手渡してきた。そのとき、初めて男の顔を真正面から見た。
目が、ひとつしかなかった。
怖いと感じるべきだと思ったが、体は動かなかった。驚きよりも、どうして今まで気づかなかったのかという疑問の方が先に浮かんだ。男は何事もなかったように笑っていた。
家に戻り、台所で魚と山菜を広げていると、祖母がそれを見て一瞬だけ黙り込んだ。
「どこで、もらった」
山で会った男の話をすると、祖母は曖昧に笑った。何か言いかけて、結局何も言わなかった。
その夜、布団に入ってから男の話を思い返した。語られたのは、昔この山にいた人たちの何気ない日常ばかりだった。まるで見てきたものを、そのまま並べているような話し方だった。
翌朝、持ち帰った魚を焼こうとして気づいた。どれも腹が割かれておらず、内臓も残ったままだった。山菜も、今ではこの辺りで採れない種類が混じっていた。
それ以来、あの山には行っていない。
ウイスキーを持って行けば、また会える気がする。
そして次も、本当に「帰してもらえる」のかどうか、それだけが気になっている。
(了)