小学生の頃に見たことだから、思い違いかもしれない……
けれど、今になっても、あの夜の光景は頭から離れない。
家族と出かけた帰り、夜の九時を少し回った頃だった。人気の薄い駅のホームで電車を待っていた。母は買い物袋を抱え、父は新聞を丸めて手に持っていた。姉は退屈そうにあくびをして、黄色いラインの外に出ないように靴先で遊んでいた。
ふと視線を横に流したとき、少し離れた場所に奇妙な人影がしゃがみこんでいた。背丈は子供ほどなのに、顔だけはしわだらけの老人の顔。表情は無表情で、暗がりに溶けるように動かず座っている。誰も気に留めていないらしい。自分だけがその姿に目を奪われていた。
じっと見つめていると、爺さんは突然、前に腕を伸ばし、何かを掴むような仕草をした。指先は空をつかむみたいに動き、次の瞬間、紐を手繰るように手首を小さくクイッ、クイッと引いた。まるで透明の糸を操る人形遣いのようだった。
その奇妙な動作を繰り返すたびに、線路の向こう側がざわついた気がした。目を凝らすと、反対側のホームに若い女の人が立っていた。足取りがおぼつかなく、どこか放心したような顔。爺さんが手を引くたびに、女の人の体がわずかに前へ揺れた。まるで見えない糸に引っ張られているみたいに。
何度目かの動作のあと、女はじりじりと線路際に近づいていった。唇が震えているのが見えた。叫びたいのに声が出せない人間の顔。胸の奥がざわつき、指先が冷えた。
そこへ電車のライトが近づいてきた。金属音がホームに反響し、空気が震える。爺さんの動きが急に大きくなり、ぐっと手を引いた。その瞬間、女の人が糸に釣られる魚のようにスタタタッと線路の際に駆け寄った。
喉が勝手に悲鳴をあげた。振り返った家族や、周りの人が一斉にこちらを見た。次の瞬間、向こう側のホームから多くの悲鳴が重なって響き、ブレーキ音が甲高く鳴り響いた。
耳を塞ぎたくなる音とともに、電車が急停車した。ホームには赤い光が点滅し、騒然とした人の気配が溢れ出した。父が野次馬に混じって走っていき、戻ってきたときに言った。
「女の人が電車に接触して怪我をしたらしい。血はすごく流れていたが、意識はあるみたいで命には別状ないそうだ」
母は顔を青ざめさせ、「きっと自殺しようとしたけど思いとどまったのね」と呟いた。
だがその場で、あの爺さんを見ていたのは自分ひとりだった。振り返って探しても、もう姿はどこにもなかった。
「爺さん? そんな人いなかったよ」
姉が怪訝そうに言った。母も「そんな奇妙な人、見てたら私だって気づくはずでしょ」と笑い飛ばした。信じてもらえない。けれど、確かにあの夜、爺さんは紐を引いていたのだ。
あれから年月が経ち、大人になった今でも、電車に乗るたびにホームを見回してしまう。対面するホームの隅に、あの爺さんがしゃがみ込んでいて、こちらに向かって紐を引く姿を想像してしまう。
時々、ふと人の動きが不自然に見えることがある。誰も触れていないのに、足が勝手に前へ出てしまったような歩き方。そういう人を見つけると、背中を冷たい手でなぞられたような気分になる。
本当に爺さんが存在していたのか、それとも自分の幻覚だったのか。答えは出ない。けれど――、あの女の人が倒れた瞬間、爺さんの口がにやりと動いたのを確かに見た気がする。
その笑みだけは、思い違いではなかったと今でも思っている。
[出典:510 :本当にあった怖い名無し:2008/07/05(土) 11:16:05 ID:pTb+s4b/0]