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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

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小学生の頃の記憶だから、当てにならないと言われればそれまでだ。

けれど、あの夜のホームの匂いと、喉の奥に貼りついた鉄の味だけは、今も消えない。

家族で出かけた帰りだった。夜九時過ぎ。利用客の少ない駅のホームは、蛍光灯の白さだけが浮いていた。母は買い物袋を提げ、父は丸めた新聞を持ち、姉は黄色い線の内側で靴先を揺らしていた。

その少し先、柱の陰にしゃがみ込む影があった。

体つきは子どもほど小さい。だが、顔だけが深く刻まれた皺に覆われている。目は細く、瞬きもせず、ただ前を見ている。誰も気づいていない。視線を向けているのは、どうやら自分だけだった。

目が合った気がした。

次の瞬間、そいつは腕を前に差し出した。何もない空間をつまむように指を閉じる。手首を小さく引く。クイ、と。

もう一度。クイ、と。

透明な糸を手繰っているようだった。

その動きに合わせるように、線路を挟んだ向こう側で、若い女がふらりと揺れた。最初は気のせいかと思った。だが、もう一度、手首が引かれると、女の足がわずかに前へ出た。

顔は青ざめ、焦点が定まらない。抵抗しているのか、従っているのか分からない。だが確実に、少しずつ線路際へ寄っていく。

クイ。

女の体が前に傾く。

クイ。

今度ははっきりと一歩。

胸の奥がざわつき、声が出なかった。叫ばなければと思うのに、喉が固まる。

電車のライトが闇を割った。風圧が頬を打つ。金属の軋みが近づく。

そのとき、影の動きが大きくなった。腕をぐっと引く。

女が糸に釣られた魚のように駆け出した。

悲鳴が勝手に喉を裂いた。周囲がこちらを振り向く。次の瞬間、向こう側のホームで別の悲鳴が重なった。ブレーキ音が鋭く空気を裂く。

電車は急停止し、赤いランプが点滅した。

父が様子を見に行き、戻ってきて言った。「接触したが命に別状はないらしい」

母は青ざめ、「思いとどまったのね」と呟いた。

だが、自分は見ていた。

あの影を。

振り返ると、しゃがんでいた場所は空だった。

「そんな人いなかったよ」

姉はそう言い、母も笑った。

誰も見ていない。誰も覚えていない。

それでも、自分は確かに見た。

あの影が、最後にこちらを見たことを。

糸を引く手を止め、ゆっくりと顔だけを向けたことを。

そして、ほんのわずかに、口元が動いたことを。

それ以来、ホームに立つと無意識に探してしまう。柱の陰、ベンチの下、広告板の裏。

誰かがふと前のめりになったとき、足が不自然に出たとき、胸の奥が冷える。

もしかすると、糸は向こう側だけではないのかもしれない。

今こうして思い出しているあいだも、どこかで誰かが、こちらを見ている気がする。

次に手首を引かれるのが、自分でないと言い切れる理由はない。

[出典:510 :本当にあった怖い名無し:2008/07/05(土) 11:16:05 ID:pTb+s4b/0]

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