俺が生きてきた中で、間違いなく一番怖かった体験の話をする。
これは実際に起きた出来事だ。ただ、文章にすると、あのとき感じた恐怖とは少し違ってしまう気もする。それでも、書いておく。
時は1994年。俺は都内で学生をやっていて、休みになると地元の田舎に帰っては、昔からの仲間と朝まで遊び歩いていた。その日も、カラオケで女の子たちと盛り上がり、終電前に彼女たちを見送ったあと、男だけが残った。
誰かが言い出した。「肝試しでもやらねえ?」
向かったのは、地元で有名な廃墟の別荘だった。殺人があっただの、夜中に女が覗くだの、噂はいくらでもあったが、正直まともに信じてはいなかった。免許を取ったばかりで、四人も一緒にいれば、怖いものなんてない気がしていた。
深夜十二時過ぎ、山道を登って現地に着いた。車のライトを消すと、周囲は一瞬で闇に沈んだ。音もなく、輪郭もなく、ただ黒い。暗いというより、空っぽだった。
別荘は外から見ても荒れ果てていた。バリケードを壊して中に入ると、埃とカビの臭いが鼻についた。床には割れたガラス、壁には意味のない落書き。誰かが確かにここにいた痕跡だけが残っていた。
しばらく中を歩き回り、壊れた家具をいじり、写真を撮って、結局飽きた。戻ろう、ということになった。
車に乗り込んだとき、運転席の奴が肘でドアロックを押してしまい、全ドアに鍵がかかった。別に気にも留めず、そのまま車内で音楽をかけ、だらだら話していた。
そのとき、山の上から光が見えた。車のライトだった。
こんな時間に、こんな場所を下りてくる車があること自体がおかしい。全員が黙った。逃げたほうがいい、そう思ったはずなのに、誰も言葉にしなかった。
一本道を下ってきた車は、タクシーだった。
違和感が一気に積み重なった。深夜、山奥、廃墟の前。タクシーは俺たちの少し後ろで止まり、後部座席から二人を降ろした。そのまま、何事もなかったように走り去った。
残ったのは、赤いワンピースの女と、スーツ姿の男だった。
二人はしばらくこちらを見ていた。表情まではわからない。ただ、目が合っている感覚だけがあった。次の瞬間、二人はゆっくりと歩き出した。
男は運転席側へ、女は助手席側へ。迷いがなかった。
ドアノブを掴み、力任せに引き始めた。ガチャガチャという音が車内に響き、車体が揺れた。笑っているのか、怒っているのか、それすらわからなかった。ただ、絶対に開けてはいけないという感覚だけが全員に共有されていた。
誰かが叫んだ。「出るぞ!」
エンジンをかけ、アクセルを踏み込む。バックミラーに二人の姿が映った気がしたが、確認する余裕はなかった。
そのまま山を下り、明かりのついたファミレスに飛び込んで、ようやく息ができた。全員、しばらく無言だった。
何だったんだ、あれ。誰かがそう言いかけたとき、運転していた奴が口を開いた。
「あいつらさ……」
そこまで言って、言葉が止まった。
「……いや、いい」
誰も続きを聞かなかった。聞いてはいけない気がした。代わりに、誰かが無理やり話題を変え、コーヒーを注文した。
朝まで店を出ることはなかった。
家に帰って着替えたとき、ズボンが少し濡れていることに気づいた。涙は出なかった。ただ、身体が勝手に反応していた。
今でも、あの運転手が言いかけた言葉が何だったのか、誰も知らない。
そして、不思議なことに、思い出そうとすると、どうしても二人の顔だけが浮かばない。
まるで、最初から見ていなかったみたいに。
(了)