中学生の頃の話だ。
あれが本当に起きた出来事なのか、眠っている間に見た夢なのか、今でも判断がつかない。ただ、触覚だけは残っている。皮膚の裏側を、微弱な電流がゆっくりなぞっていくような、あの嫌な感覚だけは。
俺は当時、見た目だけ少し悪ぶっていたが、実際は喧嘩一つできない臆病者だった。近所の不良連中とは距離を置き、いつも一緒にいたのは二人だけ。体ばかり大きくて中身が空っぽな達也と、犬の頭をした同級生の久間だった。
久間は、人間の胴体に犬の顔が乗っているような姿をしていた。理由を聞いた者はいないし、説明もなかった。人なのか動物なのか分からない、という事実だけが、なぜか自然に受け入れられていた。口を開くたび、語尾に「だニョ」とつけるのも同じだ。意味は不明だが、訂正する気にもならなかった。
放課後、達也の家でだらだらしていた時のことだ。金の話になった。
「楽して稼げる方法、ねえかな」
冗談半分で言った俺を、久間がじっと見た。鼻がひくりと動いた。
「あるだニョ」
そう言って、久間は上着の内側から金属の箱を取り出した。手のひらより一回り大きい程度の、無機質な箱だ。蓋を開けると、中には赤い丸いボタンが一つだけ埋め込まれていた。
「これを押すと、引き出しから百万円が出てくるだニョ」
達也が吹き出した。
「はあ? ガキの手品かよ」
久間は続けた。
「ただし、押した瞬間、お前の意識は遠くへ行くだニョ。どこかは言えない。そこに長くいる。とても長く」
「どのくらいだよ」
「五億年だニョ」
俺は笑った。達也も笑った。数字が大きすぎて、現実感がなかった。
「五億年が終わると、元の時間に戻るだニョ。その間のことは覚えていない。だから、押した人は、何もなかったと思うだニョ」
「じゃあノーリスクじゃん」
達也はそう言って、迷いなくボタンを押した。
軽い金属音が鳴り、机の引き出しが勝手に開いた。中には、帯で束ねられた札束がぎっしり詰まっていた。達也は目を輝かせ、札を掴み上げた。
「ほら見ろ! 本物だ!」
達也は面白がって何度もボタンを押した。そのたびに引き出しは札で膨らみ、部屋の床に紙幣が散らばっていった。俺も笑っていたが、胸の奥が落ち着かなかった。
久間は何も言わず、ただこちらを見ていた。
気づけば、俺はボタンの前に立っていた。赤い円が、妙に近くに感じられた。指を伸ばした瞬間、耳の奥で何かが弾けた。
視界が消えた。
暗い、という言葉でも足りなかった。色も、形も、上下もない。自分の体があるのかどうかも分からない。声を出したつもりが、音は返ってこなかった。代わりに、自分の中で何かが蠢く気配だけが続いた。
時間は測れなかった。だが、空腹も眠気も来ないことだけは、すぐに分かった。終わりが来ないことも。
最初は動こうとした。走ったつもりになり、腕を振り回し、壁を探した。何も触れなかった。叫んだ。喉があるのかどうかも分からないまま、叫び続けた。
やがて、声が変わった。意味のある言葉が減り、音だけが残った。何度も同じ音を繰り返し、繰り返していることに気づいて、また違う音を出した。どれも、すぐに区別がつかなくなった。
いつの間にか、思考が減った。何かを考えようとすると、途中で途切れる。途切れたことに気づくが、その理由が分からない。自分が何者だったのか、思い出そうとしても、輪郭だけが滑り落ちる。
ある時、理解した気がした。理解した、という感覚だけが残り、中身はなかった。その瞬間から、抵抗する気持ちが消えた。動こうともしなくなり、音も出さなくなった。ただ、そこにあった。
それがどれほど続いたのかは分からない。
突然、視界が裂けた。
机、床、札束、達也の顔。久間の犬の顔。すべてが、さっきまでと同じ位置にあった。俺は息を吸い、大声で笑った。理由はなかった。笑わずにはいられなかった。
引き出しの中の百万円を見て、胸が高鳴った。ボタンはまだそこにあった。赤い円は、何事もなかったように、静かだった。
俺はもう一度、ボタンを押した。
そして、また押した。
押すたびに、同じように戻ってきた。何も覚えていない。だが、回数を重ねるごとに、皮膚の内側に、微かな違和感が残るようになった。電気が走ったような感触が、消えずに溜まっていく。
久間は、何も言わなかった。ただ、俺の指先を見ていた。
今でも、ときどき思う。あの違和感は、どこから来ているのか。夢の名残か、気のせいか。それとも。
押したのは、あの時だけだったのか。
それとも、今も。
[出典:336 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/08/07(火) 00:15:31/五億年ボタン]