夜、薄闇を裂くようにして蛍光灯の明かりが街を漂白していた。
光は路面を白く削り、影だけがやけに濃く残る。眠れなかった。喉が焼けるように乾き、部屋の空気が薄く感じられた。時計は午前二時を少し回っていた。
近所のコンビニまで歩くことにした。車も人もほとんどいない。アスファルトは昼間の熱を失い、靴底越しに冷たさだけを伝えてくる。信号は無意味に赤と青を繰り返し、誰もいない交差点を律儀に支配していた。
角を曲がった瞬間、視界が裂けた。鋭い光。耳を抉るような急ブレーキ音。何かがこちらへ迫る。逃げるという判断すら間に合わなかった。身体が浮いたのか、地面が跳ね上がったのか、区別がつかない。世界が横倒しになり、蛍光灯の白が一面に広がった。
そこで途切れた。
次に目を開けたとき、白い天井があった。無機質な板目。規則的な染み。鼻の奥に消毒液の匂いが刺さる。身体は鉛のように重いのに、意識だけがやけに澄んでいる。事故だ、と理解した。死ななかったのだ、と。
ベッドから足を下ろすと、床の冷たさが直に伝わった。点滴の管も酸素マスクもついていない。ナースコールの位置がわからず、ふらつきながら廊下へ出た。
静まり返っている。夜勤の気配がない。電子音だけが遠くで規則正しく鳴っている。心電図の音だろうか。どこから聞こえているのか判然としない。
角を曲がると、見慣れた背中があった。従兄弟の家族だ。叔父、叔母、従妹。椅子に並んで座り、低い声で話している。僕の事故を聞いて来てくれたのだと思い、胸の奥が緩んだ。
「ありがとう、来てくれたんだね」
声をかけた。誰も反応しない。もう一度、名前を呼んだ。視線は一度もこちらを向かない。会話は途切れず続く。
「明日、会社に連絡しないと」
「保険はどうなってたかしら」
「まだ二十代だったのに」
「式場、空いてるかな」
言葉は淡々としていた。悲鳴も嗚咽もない。段取りの確認だけが進む。
「ちょっと待ってよ」
腕に触れようとした。指先が、すり抜けた。触れた感触がない。確かにそこにいるのに、こちらだけが空気のようだった。
廊下の突き当たりに、半開きのドアがある。自分の名前がプレートに書かれていた。妙な違和感を覚えながら、押し開けた。
ベッドがある。機械が並んでいる。酸素マスク。点滴。胸に貼られたパッド。規則的に上下する胸部。
そこに、僕が横たわっていた。
目は閉じられ、唇は青い。血の気がない。まるで、すでに終わっているもののように静かだった。
耳元で、先ほどの電子音が鳴っている。ピッ、ピッ、と。
廊下にいる僕と、ベッドの上の僕。そのどちらが本物なのか、考える余地はなかった。ただ、どちらかが余計なのだと直感した。
戻らなければ、と思った。身体に重なろうとした。けれど距離が測れない。近づいているはずなのに、わずかにずれていく。焦りが膨らむ。
そのとき、背後で声がした。
「まだ、話は終わってないよ」
振り返ると、廊下の椅子に座る叔母が、こちらを見ていた。確かに目が合った。けれど、その視線は僕を通り越して、ベッドのほうを見ているようでもあった。
「ちゃんと決めないとね」
何を、と聞き返したつもりだったが、声が出ない。口の動きだけが空を切る。
再び病室を見ると、ベッドの上の僕の胸が、わずかに動きを止めていた。電子音が、間延びする。ピ――――。
「今よ」
誰かがそう言った気がした。
その瞬間、強い光に引き戻された。
目を開けると、朝だった。窓の外が白んでいる。看護師が涙を浮かべている。医師が「峠は越えました」と告げる。心臓が止まりかけたらしい、と。
家族は安堵の表情を浮かべていた。叔母は僕の手を握り、「本当に良かった」と言った。その手は確かに温かい。
だが、指先に触れた感触が、あの夜と違っている気がした。
退院後、従兄弟の家族と顔を合わせた。誰も葬式の話などしていないと言う。そんな相談をするはずがない、と笑う。
あの廊下の会話を覚えているのは、僕だけだ。
それでも、ときどき確信する。あの夜、決められかけたのだと。僕がこちら側に残るかどうかを。
今も、病院の前を通ると、電子音が聞こえる気がする。夜のコンビニに向かう途中、交差点の角を曲がるとき、背後で誰かが囁く。
「次は、ちゃんと決めよう」
あのとき、戻れたのは偶然だったのか。それとも、誰かが手続きを間違えただけなのか。
生きているという実感が、ふと薄くなる夜がある。
そのたびに思う。
本当に戻ってきたのは、どちらなのだろうか。
(了)