陽炎の轍
今でも、夏の終わりに特有の、あの甘く饐えたような草の匂いを嗅ぐと、掌がじっとりと湿ってくる。
あれは十数年前、私がまだ二十代半ばの頃のことだ。地方の営業回りで、私は使い古された社用車を走らせていた。時刻は午後六時を回ったあたり。西日は、視界を黄金色に焼き尽くすような暴力的な輝きを放ち、アスファルトからはゆらゆらと立ち上る陽炎が、行く先の景色を歪めていた。
カーエアコンの効きは悪く、窓を開けても入ってくるのは熱風ばかり。首筋を伝う汗が、シャツの襟を不快に湿らせる。私はひどく疲弊していた。連日の無理なスケジュールと、終わりの見えない山道。地図を確認しようにも、当時は今ほど携帯電話の電波も安定しておらず、自分が今、どの県境を越えようとしているのかさえ曖昧になっていた。
ふと、視界の端に巨大な影が差した。それは、鬱蒼とした森を切り拓いた先に突如として現れた。
周囲に民家も街灯も見当たらない、隔離されたような場所に、その建築物は鎮座していた。
赤茶けたレンガ造りの、三階建ての洋館。正面には「Hotel」という文字が、錆びついた鉄細工の看板に刻まれている。建物の外壁には、太い蔦が血管のように絡みつき、夕闇に沈みかけた窓ガラスは、内部の光を拒絶するように黒々と光っていた。
私は迷わず、車をそのエントランスへと滑らせた。今夜はここで泥のように眠りたい。その一心だった。
エンジンを切ると、世界は耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。ただ、遠くで蜩の鳴き声が、途切れることなく空気を震わせている。
車外へ出ると、アスファルトの熱気が靴の裏を通じて伝わってきた。それと同時に、どこからともなく、むせるような花の香りが漂ってくる。それは、墓前に供えられた百合が数日を経て腐り始めたような、甘美でいて、どこか腐敗を感じさせる重い香りだった。
私は重い足取りで、重厚な木製の扉の前に立った。
真鍮のドアノブは、西日の熱を吸ってひどく熱いのではないかと危惧したが、触れてみると、氷のように冷たかった。その落差に、指先がピリリと痺れる。
扉は、私の力を待たずして、ひとりでに内側へと吸い込まれるように開いた。
ロビーの空気は、外の熱気が嘘のように冷え切っていた。冷房の風ではない。石造りの地下室に足を踏み入れたときのような、肌の表面から体温を奪っていく、澱んだ冷気。
正面の受付カウンターには、一人の女性が立っていた。
彼女は、床まで届くような長い黒髪を、丁寧に後ろで束ねていた。服装は古風なメイド服に似ていたが、その生地は、月の光を吸ったビロードのように鈍い光沢を放っている。
彼女の肌は、陶器を通り越して、死者の硬直を思わせるほどに白かった。
「お待ちしておりました」
その声は、鼓膜を震わせるのではなく、直接、脳の芯に響くような低く滑らかな響きを伴っていた。
私は不意に、言いようのない羞恥心に襲われた。汗で汚れ、皺の寄ったスーツに、疲れ果てた顔。この端正で静謐な空間に、自分がひどく汚らわしい異物として存在しているような、そんな居心地の悪さを感じたのだ。
私は視線を落とし、小刻みに震える指を隠すように、カウンターに置かれた宿泊名簿を手に取った。
名簿の紙は、指先に吸い付くような不思議な質感だった。既に何人もの名前が記されているが、どれも筆跡が妙に似通っており、まるで同一人物が何十年もかけて書き連ねたかのようだった。
女性は、重い真鍮の鍵を私に差し出した。
「四百二十号室。最上階の、一番奥のお部屋でございます」
鍵を受け取る際、彼女の指先が私の掌を掠めた。
その感触は、肉というよりも、磨き上げられた冷たい石に近い。私は反射的に手を引っ込めそうになったが、彼女の瞳が私を射抜くように見つめていたため、辛うじて踏みとどまった。
彼女の瞳は、底知れない沼のように深い。その奥に、自分が飲み込まれていくような錯覚を覚える。
「どうぞ、存分にお寛ぎください。ここは、皆様の望みがすべて叶う場所でございますから」
彼女は口角をわずかに上げ、微笑んだ。しかし、その頬の筋肉は、機械仕掛けの人形のように強張っており、感情の温度は微塵も感じられない。
私は会釈もそこそこに、背後にある古びたエレベーターへと急いだ。
エレベーターの扉は、蛇の皮が擦れるような低い音を立てて閉まった。
上昇する際、胃の腑が持ち上がるような独特の浮遊感とともに、妙な音が聞こえてきた。
それは、複数の男女が遠くで囁き合うような、あるいは、何百匹もの羽虫が薄い膜を叩いているような、微細なノイズだった。
私は耳を塞ぎたくなったが、自分の指が、鍵に付いたキーホルダーを強く握りしめていることに気づいた。キーホルダーは、透明な樹脂の中に、枯れ果てた一輪の砂漠のバラが閉じ込められたデザインだった。
エレベーターが四階で止まり、扉が開いたとき。
廊下に立ち込めていたのは、先ほどよりも一層濃い、あの饐えた花の匂いだった。
鏡の中の饗宴
四階の廊下は、驚くほど長かった。
等間隔に配置された燭台型の壁灯が、弱々しいオレンジ色の光を投げかけている。しかし、その光は床の深い絨毯に吸い込まれ、足元は常に不確かな闇に沈んでいた。
絨毯は、沈丁花の模様が織り込まれた深いワインレッド。一歩踏み出すごとに、足首まで埋まるのではないかと思うほどに柔らかく、そして、どこか湿っている。まるで、生き物の肉の上を歩いているような、厭な弾力があった。
自分の足音が、全く聞こえない。それがこれほどまでに不安を煽るものだとは、思いもしなかった。
私は四百二十号室を探して歩き続けた。
途中、いくつかの部屋のドアが開いていた。
その隙間から漏れ聞こえてくるのは、氷をグラスに落とす涼やかな音や、上品な笑い声、そして、蓄音機から流れているような、ひどく掠れたジャズの旋律。
中を覗き見たいという衝動と、決して見てはいけないという本能的な拒絶が、胸の中で激しく衝突する。
ある部屋の前を通り過ぎようとした瞬間、扉がふわりと開いた。
そこには、真珠のネックレスを何重にも首に巻き付けた、痩せ細った老婦人が立っていた。
彼女のドレスは白く、しかし経年劣化で黄ばみ、裾には泥のような黒いシミが点在している。
「素敵なダンスでしょう?」
彼女は、何もいない空間を指差して笑った。
彼女の指は、皮が透けて骨の形が露わになっており、爪は黒く変色している。
私は会釈もできず、ただ目を逸らして、小走りに廊下を突き進んだ。
ようやく辿り着いた四百二十号室の扉は、他の部屋よりも一回り大きく、重厚だった。
鍵を差し込み、回す。
カチリ、という乾いた金属音が静寂に響き、扉がゆっくりと開いた。
室内は広大だった。
天井には、巨大なクリスタルのシャンデリアが吊るされ、その無数の破片が、部屋中に星屑のような光を散らしている。
しかし、何よりも目を引いたのは、天井一面に張り巡らされた鏡だった。
ベッドに横たわれば、自分の姿が真上から見下ろされることになる。私はその配置に、言いようのない悪寒を覚えた。まるで、自分という存在が、常に天からの視線に監視されているような、剥製にされて展示されているような心地がしたのだ。
私は脱ぎ捨てたスーツを椅子にかけ、バスルームへと向かった。
浴槽に湯を張ろうと蛇口を捻ると、最初に出てきたのは、鉄錆の混じった赤黒い液体だった。
それがやがて透明に変わるまで、私はただ立ち尽くして、排水口へと吸い込まれていく水の渦を見つめていた。
湯気とともに立ち上がる香りは、やはり、あの廊下で嗅いだ花の匂い。
私は湯船に身を沈めたが、どれだけ温まっても、芯にある震えが止まらない。
ふと、窓の外に目をやった。
カーテンの隙間から見える景色は、真っ暗闇だった。街灯も、遠くの街の灯りも、何一つ見えない。ただ、自分の顔が窓ガラスに映り込み、背後の豪華な客室と、天井の鏡が重なり合って、無限の奥行きを作り出している。
風呂から上がり、ガウンを羽織ってベッドに腰を下ろしたときだ。
部屋の隅に置かれたサイドボードの上に、銀のトレイが置かれていることに気づいた。
そこには、冷やされたシャンパンのボトルと、二つのグラス。そして、小さなカードが添えられていた。
『今夜の主役へ。どうぞ、渇きを癒してください』
私は自分が、いつの間にか極度の喉の渇きを覚えていることに気づいた。
ボトルのコルクを抜く。
シュパッ、という小気味よい音がしたはずなのに、その音は、部屋の四隅に吸い込まれて消えた。
グラスに注がれた液体は、黄金色を通り越して、琥珀色に輝いている。
一口含んでみる。
それは驚くほど甘く、同時に、喉を焼くような強烈な酒精を伴っていた。
味はシャンパンそのものだが、後味に、微かな、しかし確かな金属の風味が残る。
舌の上に残ったその感触を確かめようとして、私は、自分が鏡の中の自分と目が合っていることに気づいた。
天井の鏡。
そこには、ベッドに座ってグラスを傾ける私が映っている。
しかし、おかしい。
鏡の中の私は、笑っていた。
今の私は、決して笑ってなどいない。むしろ、得体の知れない不安に顔を歪めているはずだ。
それなのに、鏡の中の私は、白い歯を見せて、愉悦に満ちた表情で私を見下ろしている。
私はグラスを床に落とした。
分厚い絨毯は、ガラスの割れる音さえも許さなかった。ただ、シャンパンの液体が黒いシミとなって、じわじわと広がっていく。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
コン、コン、コン。
規則正しく、しかし力強い打突音。
「お食事の用意が整いました、旦那様」
先ほどの、あの冷たい肌をした女性の声だった。
出口の無い円環
私は導かれるままに、一階の大広間へと向かった。
そこには、夢のような光景が広がっていた。
長いテーブルには、見たこともないような豪華な料理が所狭しと並べられている。大皿に盛られた熟れた果実、湯気を立てる肉料理、色とりどりの菓子。
その周囲を、数十人の男女が囲んでいた。
彼らは皆、最高級のタキシードやドレスを纏っているが、その衣服はどれも、どこか古臭く、埃を被っている。
男たちの顔は一様に青白く、女たちの唇は、不自然なほど鮮やかな紅が引かれている。
彼らは手に手にナイフとフォークを持ち、一心不乱に肉を切り分けていた。
カチカチ、カチカチ。
銀のナイフが皿を叩く音が、広間に鳴り響く。
その音は次第に熱を帯び、まるで何かの儀式の鼓動のように聞こえ始めた。
「さあ、あなたも。主役が来なくては始まりません」
中央の席に座る男が、私に手招きをした。
彼はこのホテルのオーナーだろうか。豊かな髭を蓄え、彫りの深い顔立ちをしているが、その瞳には光が一切宿っていない。
私は、彼の前の皿を見て、息を呑んだ。
そこにあるのは、まだ僅かに震えている、巨大な獣の肉だった。
彼は銀のナイフを突き立て、力任せにそれを切り裂こうとする。
しかし、どれほど鋭い刃を立てても、肉は傷一つ付かず、ただ鈍い音を立てるだけだった。
「殺せないのだよ」
彼は笑いながら、私に囁いた。
「私たちは、この獣を殺すために集まった。だが、ナイフでは足りない。いくら刻んでも、こいつは死なないんだ」
周囲の客たちが一斉に、ガチガチと歯を鳴らし始めた。
それは笑い声のようでもあり、あるいは飢えた獣の唸り声のようでもあった。
私はたまらず、その場を逃げ出した。
背後で、あの甘ったるい花の匂いが、爆発したように濃くなる。
ロビーへ走り、正面の大きな扉に手をかけた。
開かない。
先ほど、あれほど滑らかに私を迎え入れた扉は、今は巨大な岩壁のように微動だにしない。
私は必死でドアノブを回し、肩で扉を突いたが、跳ね返されるだけだった。
「お客様、どうなさいました?」
いつの間にか、背後にあの受付の女性が立っていた。
彼女の背後には、先ほどの晩餐の客たちが、影のようにうごめきながら集まってきている。
「帰してくれ! ここは……ここはおかしい!」
私は叫んだ。自分の声が、自分のものではないように高く、震えている。
女性は、哀れみを見るような目で私を見つめた。
「お忘れですか。ここには『チェックアウト』という概念はございますが、お帰りの手続きはございませんのよ」
彼女は、細長い指で私の胸元を指差した。
「あなたは既に、手続きを済ませておいでです」
私は自分の手元を見た。
握りしめていたはずの、あの砂漠のバラのキーホルダー。
その中のバラが、ゆっくりと、しかし確実に、色鮮やかな大輪の花を咲かせていた。
それと同時に、私の指先から感覚が消えていく。
見れば、自分の肌が、彼女たちと同じ、透き通るような白磁の色へと変化していた。
血管の青みは消え、爪は黒く、硬質に変質していく。
脳裏に、激しいノイズが走った。
それは、これまでこのホテルを訪れ、二度と外に出ることのなかった者たちの、何千もの記憶の断片だった。
ふと、外から車のライトが差し込むのが見えた。
一台の、酷く汚れた社用車が、エントランスに滑り込んでくる。
車から降りてきたのは、汗をかき、疲れ果て、どこか羞恥心を抱えた顔をした、一人の若い男だった。
私は、その男の顔を知っている。
いや、知っているどころではない。それは、数時間前の、私自身だ。
男は重い足取りで、正面の扉へと歩み寄ってくる。
私は、自分が内側から扉を開こうとしていることに気づいた。
いや、身体が勝手に動くのだ。
私は微笑んでいた。
鏡の中で見た、あの邪悪な、しかし至福に満ちた笑みを浮かべて。
「お待ちしておりました」
私の口から出たのは、自分の声ではなく、あの滑らかで冷酷な、ホテルの響きだった。
扉が開く。
外から吹き込んできた熱風は、一瞬で氷のような冷気に塗り替えられた。
男は、私の肌の白さに見惚れたような、怯えたような、複雑な表情を浮かべて立っている。
「どうぞ、存分にお寛ぎください。ここは、皆様の望みがすべて叶う場所でございますから」
私は彼に、重い真鍮の鍵を差し出した。
その指先が、男の掌に触れる。
冷たい。
男は一瞬、眉をひそめたが、すぐに私の後ろにある、豪華絢爛な地獄へと足を踏み入れた。
私は扉を静かに閉める。
カチリ。
その音とともに、外の世界の音は一切途絶えた。
今夜もまた、新しい主役を迎えて、鏡の中の饗宴が始まる。
私は受付のカウンターに戻り、次の客が来るのを待つために、姿勢を正した。
鼻を突くのは、あの甘く饐えた、狂おしいほどの花の匂い。
私はもう、その匂いを不快だとは思わなくなっていた。
[出典:Hotel California by Eagles]