引っ越したのは、保育所に通い始めたばかりの頃だったと思う。
段ボールの匂いがする新しい家に着くなり、母に言われた。
「今日から、女の子になってね」
言葉の意味は、よくわからなかった。でも、母がそう言うのなら、そうなんだろうと納得した。子どもなんてそんなものだ。疑う理由も、疑う余裕もない。
保育所では、名前も変わらなかったけど、服装も髪型も完全に「女の子」になっていった。髪を伸ばすように言われ、切る機会もなく、卒園する頃には腰まで届いていた。
不思議なことに、まわりの大人たちは誰もそれを疑問に思わなかったようだった。むしろ、保育所の子どもたちも先生も、「女の子」として私を受け入れてくれた。同年代の女の子が少なかったからか、妙にモテた。同い年の女子はたしか四人くらいしかいなかったから、私の「女の子らしさ」は珍しく見えたのかもしれない。
ただ一つ、引っかかることがあった。
姉が、男の子の服を着るようになっていた。
昔は、長い髪をリボンで結んでいたはずなのに、気づけば刈り上げていて、ランドセルには缶バッジがついていて、誰もそれを咎めなかった。母は何も言わなかった。ただ、私にだけ、毎日フリルのついた服を着せた。買い物に出れば「お姫様みたい」と声をかけられ、母は満足げに笑っていた。
小学校に入ってからは、周囲の反応が二極化した。ある教師は「女の子」として私を扱い、ある教師は「男子」として出席を取った。友達の中には、入学前からの子もいたから、「あれ、君って男だったの?」と驚かれたこともある。
でも私は、もうどっちでもよかった。スカートは履き慣れていたし、髪を切るなんて考えられなかった。自分が誰なのか、よくわからなくなっていた。
ある日から、姉がいなくなった。何の前触れもなかった。ただ、母との二人きりの生活がはじまっただけだった。
そして、その生活は、徐々に奇妙になっていった。
朝、目が覚めると、知らないドレスがベッドの上に置かれていた。ティアラもあった。鏡の前でポーズを取らされ、「きれいね、〇〇ちゃん」と、姉の名前で呼ばれることが増えた。私はもう、姉の代わりだった。
学校に行かない日が増えた。母と映画を観に行ったり、公園でピクニックをしたり。楽しかったはずなのに、なんだか息が詰まるようだった。まるで檻の中で飼われているペットみたいだった。
何よりも、私が「私」として存在していない気がした。
その奇妙な生活が、いつ終わったのかは覚えていない。気づいたら、祖父母の家で暮らしていた。母はいなかった。姉もいなかった。
ただ、髪だけは長いままだった。誰も切れとは言わなかったし、自分でも切りたくなかった。スカートもまだ履いていた。男の子の格好に、違和感があった。鏡に映る自分の姿に、「誰?」と尋ねたくなるような、そんな毎日。
でも、徐々に取り戻していった。自分が「男の子」だという感覚を。祖母が用意してくれたジーンズを穿き、祖父に連れられて散髪に行った。そのとき、鏡の中の自分が泣いていた。無意識に泣いていた。
小四の冬、転校した。そのタイミングで、完全に「男」として生きるようになった。
母との生活も再開した。以前のような奇行はなく、落ち着いた様子だった。
だから、軽い気持ちで聞いてみたのだ。
「ねえ、なんであの頃、女の子にしたの?」
母は、ぽつりぽつりと語りはじめた。
――本当は、兄がいたんだよ。
そんなこと、初耳だった。
――あんたが保育所に入った頃に、死んじゃってね。
――それで……お姉ちゃんを、兄として育てるようになって。
――あんたは、お姉ちゃんとして育てた。
――……本当はね、いないことにしてたの。
部屋の空気が変わった。壁がじっとりと濡れているような、そんな感覚。
つまり、私は母の中で存在していなかったのだ。十年近く。この世にいなかったことにされていた。
母の言葉を聞いても、怒りは湧かなかった。ただ、深い海の底に沈んでいくような、ひどい静けさだけが残った。
なるほど、だからあの時の私は「姉」だったんだ。母にとって、私は“思い出のなかの姉”として必要だったのかもしれない。
そして、姉は“兄”として、きっと母のために生きていた。
そう思ったら、無性に胸が苦しくなった。
だけど、不思議なもので、女の子として過ごしたあの時間、全部が嫌だったわけじゃない。
保育所ではモテまくったし、スカートがふわっと広がるあの感覚は、なんだか好きだった。
今でも時々、昔のあだ名で呼ばれることがある。「〇〇ちゃん」って、女の子っぽいやつで。
呼ばれるたびに、背筋がすっと冷たくなる。
母は今、もうすっかり普通の人みたいに振る舞っているけれど、本当に“闇”は晴れたのだろうか。
私は時々、鏡の中に――あの頃の“姉”の顔を見る気がしてしまう。
あれは、いったい、誰だったんだろう。
私だったのか。
それとも……母が見た幻だったのか。
[出典:497 :本当にあった怖い名無し:2019/05/03(金) 11:22:20.63 ID:9SndWIDE0.net]