人気漫才コンビの中川家のお兄ちゃん(剛)を、いじめたり、不快な思いをさせたりすると祟にあって不幸になるという。
お兄ちゃんには、強力で荒ぶる神が守護霊として憑いているからね、とある霊能者は語った。
お兄ちゃんを虐めたり怒らせたり傷つけたりすると、たちまちその祟にあって不幸になったという芸能人や有名人の都市伝説である。
「●ミーズ●」は、執拗ないじめで、お兄ちゃんをパニック障害にさせたらしい。
その後、復帰したお兄ちゃんがTVで人気者になると時を同じくして、全国ネットのレギュラーが一切なくなってしまった。
その後も、相方が不祥事を起こすなど、良くないことが次々と彼を襲った。
「●ロミ」は、自らMCを務める深夜番組で中川家がゲスト出演した際、番組内で過去パニック障害を起こした話になると、中川家のお兄ちゃんを小馬鹿にしてからかった。
その直後のことだった、あれだけ多くのレギュラー番組を抱えていたにもかかわらず、「●ロミ」へのオファーは全くなくなってしまったのだ。
中川家のお兄ちゃんが某人気トーク番組にゲストとして呼ばれた時、「あんなムカついたんは今まではじめてのことや!」と「●島●」のイニシャル挙げ、彼女からうけた非道いた仕打のことを暴露した。
後日この話を聞いた「●島●」が、彼女のレギュラー番組にゲスト出演した中川家の二人を出演者全員でイビリ倒したという。
その後彼女は、芸能界を引退し、自室でひとり謎の死を遂げることとなった……
怖い話ばかりでなく、逆のパターンもある。
中川家のお兄ちゃんがパニック障害になって苦しんでいるとき、親身になって心を配り優しく接した中堅クラスの関西系吉本芸人らは、ここ数年で全国的に有名になったという。
……信じるか信じないかは、あなた次第です!
参考:中川家のお兄ちゃんに関する覚書
中川家・剛がパニック症候群で復帰できるかすら分からない状態になった時、礼二は、『中川家』の名前を残していれば、いつか兄が戻って来た時に居場所があって仕事しやすいだろう、とレポーターやナレーター等で活動を続けた。
そして剛は坂田利夫の「喋れんかったら喋れんかったでアホな顔して笑ろとったらええねん」の言葉で一番気が楽になり、完治へと繋がったらしい。(はなまるより)
中川家が二丁目劇場に出てた時代、突然、卒業した。
別に東京に進出するわけでもなく、それ以前に人気面では芸人としてまだまだな時期だった。
なぜ卒業したのかというと二丁目劇場での漫才禁止令が発令され、理由は劇場に来てるファンは中学生、高校生がほとんどで若い世代には漫才は分かりにくいというのが理由だった。
中川家は「漫才が出来ないんならもう出ません」と卒業。そこから兄の病気もあり長い長い空白の時代へ突入。
それだけ二人がこだわった漫才。だからM-1優勝した時は嬉しかった。
やすよともこも一緒に辞めました。だから中川家とやすよともこは仲良し。
よく仕事ない時は辞めてから、どんな仕事をするか飲みながら話し合ったって言ってました。
隣同士で店を持とうって事になったらしいです。エンタの神様も前まで漫才禁止やったみたいです。
中川家のちょっといい話拾ってきた
俺の姉ちゃんが中川家ファンで一回ファンレター出して返ってきたって喜んでた。
で、それから一回もファンレターなど出してなかった。
で、しばらくして阪神大震災が起きてちょっとしてから神戸のうちに
《○○さん(姉貴の名前)、大丈夫ですか。震災に負けず頑張ってください 中川剛 礼二》
みたいな内容の手紙が来た。
ファンレターとか意外としっかり呼んでるのかな、と思ったよ。
あと、スレ違いだけどシャランQからもこれと同じような感じで震災後手紙が届いてた。
中川家・剛さんのちょっといい話。
5、6年前に、吉本の地方イベントで地元の学生とかにスタッフの真似事みたいなのをやらさせてくれるというのがあってそれに私が参加した時の話です。
その時のイベントに中川家もゲストに来てて、帰りがけに私たちスタッフの所に挨拶に来てくれたんだけど、
「お疲れ様でした~」
と言って一端帰りかけたのに、突然剛さんだけが戻ってきて一人の学生の前に行って、
「自分、この前俺らのライブに来てくれてたよな!?」
と言い、その子が緊張しながら
「あ、は、はい!」
と言うと、
「ありがとうな~。また来てな~」
と言って握手して行った。
帰りかけてたのにわざわざ戻ってくるなんて、すごくいい人だな~と思った。
しかもライブに来てるお客さんの顔を覚えてるってことにかなりびっくりした。
言われた本人が一番びっくりしてたけど(笑)
詳細はよく分からんが、その小堀も落ち込んでいた時期に中川家兄に助けられたらしいね。
なんか先輩後輩でそういうのが受け継がれていると思うとグッと来る。
山本や樅野もいつかは……
中川家兄は、自分がプレッシャーから来るパニック症候群に沈んだこともあり、後輩にはかなり気遣って、いい先輩らしい。
と、テレビで言ってた。
中川家兄も入院中に点滴打って「アッコにおまかせ」に出てなかったか?
そんなにも外せない仕事なのかアッコ関係は。
内容や出演者こそアレだが)中川家にとっては東京来て初めての全国レギュラー番組で、なおかつあの時は礼二の謹慎明け一発目のTV出演だったのもあって病院抜け出して来たと思われる。
マンスリー吉本の100質に答えた中川家のお兄ちゃんの回答で
「この世界に入って初めてあった、本当に温かい先輩」
とUNについて一言だけ語っていた。
別にどう良い話ってわけじゃないけど、ト○ーズ○に苛められ病気になった……
という話を聞いてただけに、優しくしてもらえてよかったねと純粋に思った。
原因が原因だけにいい話かどうかは微妙だが、中川家礼二は、デビューから今までで辛かった仕事の内の一つに一昨年、剛が入院した時にピンで参加した地方営業を挙げていた。
別のインタビューによると、営業の方はかなりウケていたようだが、舞台に出た際、つい漫才の時の様にセンターマイクの少し横に立ってしまったらしい。
ケンコバは照れ屋なのか美学持っているのか不明だが、熱いお笑い論を語らないし、人の相談にマジメに乗らない。いつも冗談ばかり言う。
ただ、ケンコバは一人にだけマジメに話をした事がある。
同期芸人の中川家の剛が精神的な病気で苦しんだ時、ふざけず相談に乗ったらしい。
M1優勝後忙しくて精神的にも疲れているらしかった剛にも、電話で
「しっかりしてくれんと困るで。お前は唯一オレが本気で話した相手なんやから」
と笑いながら言ってた。
非常に抽象的だけれど同期って良いなと思った話だった。
他のスレで見た話題から。
森三中の黒沢はかつて鬱を患った関係でのリスカ癖があり、直したいと思っていた。
それを中川家兄・剛に相談したところ、
「生きたいからそうするんだ。生きてることを確認してるんだ」
と言われ、精神的にとても楽になり立ち直るきっかけになったそう。
兄かっこいいと思った。
お笑いタイフーン読んでて、ロザンが言ってた良い話。
中川家さんに言われていいな、って思ったのが
『コンビで仲悪いのが信じられへん。周りが敵ばかりなのに、味方同士でケンカしてどうすんねん』
さすが兄弟だなー、と思った。
中川家といえば、貧乏エピドードで、高校時代におやつ買うお金がなくて、剛が自分で蒸しパン作って食べた話が好きだ。
ほのぼのした話。
中川家の兄・剛は、小学校高学年の時にはもう弟・礼二に、体格で負けてしまっていたそうで、普通なら兄弟は洋服などは兄のお下がりを貰うものなのに、剛はお上がりを貰っていたんだそう。
そんな阪神巨人が、中川家に対して
「やっと後を任せられる芸人が出て来た。これからNGKを背負うのはお前達だ」
と言ったわけだから、中川家の実力は押して知るべしかもな。
さっきZAIMANのビデオ見てたら、出てきた暴露話。
チュートリアル福田が、居酒屋の店員に惚れた。
お酒も飲まずに、毎日通いつめて、付き合えることになった。
それを聞いた中川家の礼二をはじめ、先輩複数で、お金を出し合っ、て、福田がUSJへ行けるようにしてあげたらしい。
すると、そのデートでふられて帰ってきた。
あとで、礼二が居酒屋に行った時に、その店員に、福田をふった理由を聞いたら、「会話が続かなくて……」と言われたそうだけれど、いい話だ(笑)
300人の観客を前に小杉が初代M-1王者・中川家の礼二に優勝するまで怒られ続けた秘話を披露。
「祝勝会で礼二さんに『おまえは厳しい酒についてきた。これからは好きに飲んだらええ』と言ってもらえた。その後のカラオケで号泣してくれはったのを見て、ほんまに嬉しかった」
と振り返った。
弟の礼二を誘って、芸人になった中川家・剛。
頑張って、レギュラーも増えてきたところで、パニック症候群という、人前に出るとパニックになる病気にかかってしまった。
ある日、舞台に出る時に、頭が真っ白になってしまい、舞台袖から出られなくなってしまった。仕方なく、その舞台は、礼二が独りで舞台に立って、20分。
場をつないで終わった。そんなことが続き、レギュラーは一つ減り二つ減り、結局『中川家』としてやるのは、京都のラジオだけになった。
しかし、その頃では病気も悪化して、電車に乗ることですら、吐き気がするようになった。そのため、大阪-京都間で、途中何度も駅に降りるようになった。
礼二はそんな剛の隣に、ずっといた。
「今××駅やから、あと2駅でつくで。隣の隣の駅まで乗ろうか?」
と声をかけてくれていた。
しかし、病気はよくならず、いつのまにか電車は特急ではなく各駅停車を使うようになった。礼二はそれでもついてきてくれた。
駅のホームで3時間、全く喋らずに、横についててくれたことがある。
ある日、あまりにも礼二に迷惑をかけることが心苦しくなって、とうとう言った。
「俺、もうやめるわ。解散しよう」
しかし、礼二はこう言ってくれた。
「お前とやないとやってる意味がない。頑張ろう」
その後、剛の病気が改善するまで、礼二は解散を口にしなかった。
あの時の言葉があるから、今の中川家がある。
ブラマヨと中川家のいい話。
ある日麒麟川島とブラマヨ吉田が同じ新幹線で、混んでいたので2人でグリーンに変更した。
ここで吉田は、先輩として川島の分のグリーンの追加料金を支払うか迷った。
が、これは違うよな と考え、しかもわざわざそれを川島に伝え 支払わなかった。
数日後 吉田はまた新幹線のグリーンに自腹で乗った。
するとそこには中川家の剛がいた。
挨拶をすると剛は吉田に、お前ここ(グリーン)自腹なん?と聞き
「そうです」と答えるや、さっとグリーン代の5,000円を吉田に手渡した。
このとき吉田は数日前の自分の行動を恥じ、番組で川島に謝っていた。
2丁拳銃小堀の書いたコラムより。長くてごめんね。
『僕がコラムを書かしてくれと熱望して1年半が経った。
タイミングが合わず、ずーっとお流れになっていた。
そんな時、やっとコラムが書ける機会がやってきた。嬉しい。
しかし、いざとなると何を書いたらいいのか、何について語ればいいのか見つけられなかった。
僕は基本的に舞台の上や、テレビの前以外でボケると云う事は違うと思った。
だから、今自分が思っている事をそのままぶつけようと考えた。
好きな事、嫌いな事、やりたい事、感じた事などをそのまま文章で表現していきたい。
そこで記念すべき1回目の「文」で書こうと思ったのは「好きな人」である。
よく応援してくれている方々に、「仲の良い人は誰ですか?」と尋ねられる。
僕は迷わず「中川家の剛さん」と答える。
先輩に対して仲の良い人とは失礼な話しだが僕は中川家の剛さんが好きだからそう答える。
好きな理由はたくさんあるが、一番大きかったのは僕がすごく悩んでいて、この世界をやめようとまで思いつめていた時、中川剛だけは僕に手をさしのべてきた。
僕はそれまですべてが敵だ、自分しか信じられないと思っていた。
でも困っている僕にライバルと思っていた中川剛は右手をさしのべた。
あの人自身はなにも言わず、あの人の右手だけが僕の沈んだ顔の前にあらわれた。
その右手は僕に熱く語り、僕をなぐさめ僕を包み込んだ。
あの小さい男が大きく見えた。すこし前、98年の新年会があった時、一人づつ乾杯の挨拶をする中、あの人の番になった。
あの人は言った「小堀は僕が守ります」と。
そんな話しの流れでもなかったし、そんなことを言う雰囲気でもなかった。
僕はてれ笑いを浮かべながら涙をこらえるのが必死だった。
僕は涙をこらえながら、この人みたいになろうと決めた。
僕は中川家の剛さんが好きである』
中川家のいいともでやった話、ちょっと涙ぐんだなぁ。
「ずっと変わらないこと」という題で、兄が病気になって、京都のラジオだけが仕事になって~というまではリンカーンで兄目線から話した話と一緒だったけれど、ちょっと続きがあった。兄が辞めようと決意した時の話。
電話をかけてきた時、剛は5分ぐらい電話口でただ泣いてた。
そして「俺、芸人やめるから、お前ピンでやってくれ」と泣きじゃくりながら言った。
それを聞いて礼二は、「お前とやないとやってる意味がない。もしお前がやめるなら俺も芸人やめる。
とりあえず、今年一年は頑張ってみよう。それでダメやったら解散して、二人とも引退しよう」と言って、兄を芸人に引き止めた。
そのまま必死で1年間頑張って、その年の年末、M-1でグランプリをとることになった。
今でもずっと変わらないこと。
「俺は、お前とじゃなきゃ、やってる意味がない。お前と一緒やなきゃ、芸人やめる」
ステージにいた人たち、皆ちょっとグッときていたが、誰よりも中川家の二人が、その話に一番涙ぐんでたのに笑いつつ涙出そうになったよ。
森三中黒沢と中川家剛が番組収録で初めて会った。
後からスタジオ入りした黒沢を見つけた剛が、一直線に黒沢のもとに歩いて来て「俺も頑張って治すから、お前も頑張れよ!!」と手を取って言ったらしい。
剛も黒沢も初対面だけど、言葉を交わさずともお互い抱えてる病気を感じ取ったとのこと。
(了)