かつて陸上自衛隊のレンジャーだった男が、酒の席でこんなことを語っていた。
山に入れば幻覚や幻聴など珍しくもない。極限状態に置かれた脳が勝手に物語を作り出すだけだ。恐れる必要はない。あれは全部、自分の頭の中で起きている現象だ。
彼はそう言って笑った。山中で誰かに呼ばれた経験も、いないはずの人影を見たこともあるというが、それらはすべて疲労と睡眠不足の結果であり、怪異とは無関係だと断言した。御巣鷹山や雫石の慰霊の森のような場所で、何かを感じたとしても同じことだ。場所に意味はない。意味を与えるのは人間の脳だ。
別の元自衛官で、広報班に所属し写真を撮っていた陸曹も似たようなことを言っていた。心霊現象には興味はあるが、怖いと思ったことは一度もない。訓練では恐怖を感じる余裕などなく、現実的な危険に対処することで頭が埋まる。未知のものに怯える暇があるなら、まず足元を確認する。それが身につくのだという。
自衛隊にはそういう人間が集まるのか、それとも訓練によってそうなるのか。その話を聞いたとき、私は禅の修行の話を思い出した。
長い苦行の末に、修行者が神仏や鬼を見たり、悟ったような感覚に陥ったりするのは古くから知られている。しかし禅では、それらをすべて魔境と呼び、徹底的に退ける。幻覚に意味を見出した瞬間、修行は破綻する。真に目指すべきは、何も起きていない現実に戻ることだ。
医学的にも説明はつく。断食、睡眠不足、長時間の座禅は脳を異常な状態に追い込み、容易に幻覚を生む。にもかかわらず、それを覚醒だ、啓示だと信じ込む者が現れ、やがて教祖になり、新しい思想や宗教を作る。未熟さの典型だと、禅の世界では言う。
釈迦は幻覚を退けた。だから悟りに至った。一方で、長い修行の末に悪魔を退け、最後には神の使いと語ったとされるイエスは、ある意味では幻を最後まで否定しきれなかった存在だとも言える。そうした比較も、理屈としては成り立つ。
人は弱い。救いを求め、都合のいい意味を世界に貼り付ける。年を取ればなおさらだ。かつては冷徹な唯物論者だった医師や僧侶が、晩年になってスピリチュアルな言葉を語り出す例はいくらでもある。
ここまで考えれば、結論は明快だった。幻覚は脳の誤作動であり、恐れるものではない。意味を与えなければ、そこには何も残らない。
……はずだった。
ある冬の日、私は低山の単独行に出た。訓練でも修行でもない、ただの散策だ。天候は安定しており、体調も万全だった。睡眠不足でもなければ、空腹でもない。理屈の上では、幻覚を見る条件は何一つ揃っていなかった。
夕暮れが近づいた頃、尾根道でふと足を止めた。誰かが、ほんの少し遅れて歩いている気配があったからだ。振り返ると、道は静まり返っている。風の音しかない。
気のせいだと判断し、歩き出した。数歩進んだところで、また同じ気配がした。今度は足音だった。自分のものより、わずかに重い。
私は立ち止まり、理屈を頭に並べた。幻覚だ。山ではよくある。脳が刺激を補完しているだけだ。恐れる理由はない。
その瞬間、背後で誰かが咳払いをした。
反射的に振り返った。そこには誰もいなかった。だが、地面にははっきりと足跡があった。私のものとは別の、もう一組。尾根道の中央で、不自然なほどきれいに止まっている。
雪は降っていない。新しい足跡が残る理由がない。
そのとき、頭の中で自分の声がした。
――意味を与えなければ、何も残らない。

私はその言葉を、どこかで誰かに教えられた気がした。だが、思い出せなかった。誰の声だったのかも、なぜその言葉を知っているのかも。
結局、私はその場を離れた。足跡から目を逸らし、何事もなかったように下山した。帰宅後も体調に異変はない。幻覚に意味を与えなかった。それで終わりのはずだった。
ただ一つだけ、説明できないことがある。
あの日以降、私は山の話をするとき、必ず同じ言い方をしているらしい。
「幻覚は珍しくない。恐れる必要はない」
なぜそう言い切れるのか、自分でもわからない。誰かに教えられた気がするのだが、その記憶だけが、どうしても思い出せない。
まるで、そこに立ち止まっていたはずのもう一人が、私の代わりに山から下りてきたかのように。
[出典:61 :あなたのうしろに名無しさんが……:04/06/22 06:06 ID:/tIS4+CX]