俺が小学五年生の頃、家族で住んでいたアパートは壁が薄く、隣の生活音がよく聞こえた。
テレビの音、食器のぶつかる音、怒鳴り声。逆にこちらの騒ぎ声も筒抜けで、隣の男が怒鳴り込んでくることも多かった。
その男、仮に定雄としておこう。定雄は昼間からぶらぶらしていて、定職には就いていないようだった。目つきは鋭く、機嫌がいいときなど見たことがない。隣の部屋から怒鳴り声や物が壊れる音が響く夜もあった。
定雄の同居人、幸子さんは美人だった。夫婦だったのか、恋人だったのかは分からないが、彼女の顔にはしばしば青あざがあった。うちの母は何度も「警察に相談しよう」と言ったが、幸子さんは首を横に振るばかりだった。「何をされるか分からない」と怯えていたのだ。
そんなある夜、いつもは騒がしい隣の部屋が、異様なほど静まり返っていた。違和感を覚えながらも、静かな夜を過ごしていたが、突然、玄関のドアを激しく開ける音と、誰かが走り去る音がした。親父が外に出ると、血相を変えて戻ってきて「救急車を呼べ!」と叫んだ。
運ばれたのは幸子さんだった。全身傷だらけで、意識も朦朧としていたらしい。そして、定雄の姿は消えていた。何があったのか、警察は両親に説明したようだったが、俺には教えてくれなかった。
幸い、幸子さんは一命を取り留めた。母と一緒に見舞いに行ったが、彼女は俺たちの姿を見た瞬間、突然錯乱し、泣き叫びながら暴れ出した。看護師たちが必死で押さえつけるなか、彼女はただひたすらこう叫び続けていた。
「助けてくれって言ったのに、助けてくれって言ったのに、助けてくれって言ったのに!」
その言葉に、ぞっとした。
あの夜、確かに隣の音は何一つ聞こえなかった。いつもなら、少しの物音でも響いてくるはずなのに、あの夜に限っては静寂だった。まるで、何かが意図的に音を遮断していたかのように。
それから間もなく、俺たちは引っ越した。隣に誰もいなくなったことが耐えられず、ある日俺は突然泣き叫んでしまったからだ。両親も精神的に限界だったのだろう。
数年後、大学生になり、帰省した際にあのアパートを訪ねた。外観は改築されていたが、大家はまだ現役だったので話を聞くことができた。
「あの部屋の壁、血だらけでさ……」
大家は気軽に言った。
「警察の話じゃ、定雄が幸子さんの頭を何度も壁に叩きつけたらしいよ。壁紙を替えるのが大変だった」
それを聞いた瞬間、息が詰まるような恐怖を覚えた。
どっちの壁だったのか、それだけは絶対に聞きたくなかった。
もし俺の記憶が間違いで、あの夜、俺たちは助けを求める声を聞き流していたとしたら。俺たちは最低の人間だ。
けれど、もし本当にあの夜だけ、何かが音を消したのだとしたら?
それは、誰のためだったのだろう。
幸子さんを絶望の中に閉じ込めるためだったのか。
それとも、俺たち家族を恐怖から救うためだったのか。
考えれば考えるほど、人知れぬ悪意の影を感じてしまうのだ……。
[出典:2010/04/23(金) 00:17:02 ID:hPRMHK6z0]