俺が小学五年生の頃、家族で住んでいたアパートは、隣の咳払いまで聞こえるような造りだった。
テレビの音、箸の当たる音、足音。怒鳴り声。
壁一枚向こうの生活が、そのままこちらの部屋に流れ込んでいた。
隣には男がいた。仮に定雄としておく。昼間から部屋にいることが多く、機嫌の良い声を聞いたことはない。夜になると物が倒れる音や、鈍い衝突音が響いた。時々、女の人の泣き声も混ざった。
同居していた幸子さんは、いつもきれいにしていた。けれど、頬や腕に青あざがある日があった。母は何度も声をかけていたが、彼女は小さく首を振るだけだった。「大丈夫です」と言いながら、目は笑っていなかった。
ある夜のことだ。
いつもなら何かしらの物音が漏れてくる時間帯だったのに、隣は完全に静まり返っていた。テレビも、足音も、何もない。壁が厚くなったような静けさだった。
不自然だと思ったが、誰も何も言わなかった。
しばらくして、玄関のドアが激しく開く音がした。廊下を走る足音。父が様子を見に出ると、すぐに戻ってきて「救急車だ」とだけ言った。
運ばれたのは幸子さんだった。血の気のない顔で、担架に横たわっていた。定雄の姿はなかった。
その夜、俺は何も聞いていない。
病院へ見舞いに行ったとき、幸子さんは俺たちの顔を見るなり、突然叫び出した。
「助けてって言ったのに」
看護師に押さえられながら、同じ言葉を繰り返していた。
俺たちは顔を見合わせた。母も父も、何も言わなかった。
俺は本当に、何も聞いていない。
引っ越しは早かった。理由は「環境が悪いから」だった。けれど家族はあの夜の話をしなくなった。まるで、音そのものがなかったかのように。
大学生になってから、帰省のついでにあの場所の前を通った。建物は外壁が塗り替えられ、窓も新しくなっていた。中がどうなっているのかは分からない。
ただ、ふと思った。
あの夜だけ、隣は無音だった。
あれほど薄かった壁が、あの夜だけ、何も通さなかった。
叫び声も、衝撃音も、物の倒れる音も。
家族四人、誰一人として聞いていない。
本当に、聞こえなかったのか。
それとも、聞こえなかったことにしたのか。
記憶を確かめようとしても、あの夜の音は思い出せない。
静寂だけが残っている。
最近になって気づいた。
今の部屋も、隣の生活音がよく聞こえる。笑い声も、咳払いも、電話の声も。
けれど、ときどき、突然、音が消える。
壁の向こうが、完全に無音になる瞬間がある。
そのたびに、胸の奥が冷たくなる。
あの夜と同じ静けさだ。
もしまた誰かが、壁一枚向こうで、助けを呼んでいるとしたら。
俺は、聞こえるだろうか。
それとも、また聞こえなくなるのだろうか。
壁は薄い。
それでも、音は消えることがある。
それだけは、確かだ。
[出典:2010/04/23(金) 00:17:02 ID:hPRMHK6z0]