エジソンの竹で知られる京都市のはずれ、暑さが粘りつくような初夏の日。
わたしは母に連れられて、遠縁にあたるFさんのお宅を訪ねた。
まだ市松人形に似ているなんて、心底嫌なことを言われていた頃の話。
そのたびに、わたしはわたしのままでいられなくなった。鏡を見るのも嫌で、でも視線を逸らすとそこに自分ではないものがいる気がして、なおさら怖くなった。
Fさん邸は洋館だった。
団地の四階から見える灰色の空と違って、その家には、異国の匂いがあった。
リビングのソファーセットも、二階のバルコニーに並んだテーブルセットも、現実味がなくて、まるで絵本の中に入ってしまったようだった。
バルコニーから見えるのは、一面の竹林。
竹って、風が吹くと喋るんですね。わさわさ、ざわざわ、何かを探してるみたいに揺れていた。
西陽に照らされて、竹が金色に光っているのが妙に印象的だった。
最初は、もちろん、母やFさんたちの話をおとなしく聞いていた。
だけど、退屈って感情は、小学生にはどうしても抑えきれない。
テーブルの下で足をぶらぶらさせていたら、ふと、向こうのドアの隙間に何かが動いた。
見てしまった。
男の子だった。
わたしと同い年くらい。少し青白い顔をしていた。
目が合った瞬間、すっと引っ込んでしまったけど、確かに、いた。
Fさんのお孫さんかな? それとも、誰かの子?
そんなことを思いながら、母に「おうち探検していい?」と聞くと、Fさんは「ええ、好きに見ていらっしゃいな」と微笑んでくれた。
その微笑みは、どこか置き物みたいだった。感情が通っていない、まるで仮面のような。
兄を引っ張って、わたしは二階へ上がった。
そして、あの男の子に会った。
彼はまるで案内人のように、あちこちの部屋へと導いてくれた。
「この部屋はね、バルコニーから入れるんだ」
「鍵がかかってても、こっちから開けられるよ」
「ここにはベッドがあるんだよ、飛んでみる?」
と、どこか誇らしげに言った。
兄はすっかり興奮してベッドの上で跳ね回り、わたしは豪奢なカバーのかかったベッドに腰かけて、お姫さまの気分に浸った。
古びたオルガンがあって、開けると中から埃と古い音の匂いがした。
なにか懐かしいような、でも悲しくなるような音だった。
外が、暗くなりかけていた。
西陽が消えかけた頃、男の子がバルコニーの方を指差して言った。
「ねえ、今度はあそこで探検しようよ」
指の先には竹林。
昼間は綺麗に見えたその景色が、陰になっただけで異様に見えた。
真っ黒で、奥が見えない。
入ったら最後、出てこられない気がした。
「お母さんに聞いてからね」と言うと、男の子の顔が曇った。
まるで雷にでも打たれたように、ぴくりとも動かなくなった。
それでもわたしは暗い階段を降りた。スイッチの位置がわからず、手すりにしがみついて、ひと段ひと段足を置いていった。
階段を降りた先、Fさんは「探してたのよ」と言い、母も「そろそろご飯に行きましょう」と言った。
気づいたら、お腹が空いていた。
夕飯のため、車に乗り込んだとき、ふと気になって聞いた。
「ねえ、おかあさん。Fさんの家に、男の子、いるの?」
母は「息子さん?いるわよ」と言った。
わたしはそのまま、すっかり安心してしまった。
今日はその子は留守なのか、あるいはご飯を食べに来なかったのか。
それだけのことだと思っていた。
それから何年かして、もう男の子に間違えられない年齢になった頃、再びFさんの家を訪れた。
理由は、大人になってから聞かされた。
「あの家、なんだか重くて、暗くて。お祓いしようかと思ったんだけど、みんなが笑うから、Mちゃん(母)に相談しようと思って、来てもらったのよ」
Fさんはそう言った。
母は、わたしたちが帰ったあと、家ががらりと変わったと言った。
空気が軽くなった、と。
何かが抜けたように、明るくなったと。
わたしは二度目の訪問の記憶が曖昧だ。
ただ一つ覚えているのは、ベッドの下の木琴がほしいと泣きじゃくったこと。
Fさんは「息子ももう使わないし、どうぞ遊んでちょうだい」とくれたけれど、母にはこっぴどく叱られた。
「勝手に家の中探るなんて」と。
でも、わたしは知っていた。
木琴がどこにあるか、あの男の子が教えてくれたから。
兄には、あの子が見えていなかった。
そう言えば、会話すらしていなかった。
そもそも、部屋の案内だって、あの子について来ただけで、兄はいつも少し後ろを歩いていた。
夕暮れの竹林。
あのとき、手招きされていた。
行っていたら、どうなっていたのだろう。
今でも夢に見ることがある。
真っ暗な竹林の中で、男の子がぽつんと立っている。
わたしの名前を呼んで、もう一度、遊ぼうって言っている。
Fさんは洋館を手放し、今は町中のマンションに住んでいる。
あの家はもうない。
でも竹林は、まだ、そこにある。
彼も、まだ、そこにいるのだろうか。
わたしが名前を呼べば、また姿を見せるのだろうか。
その答えを、まだ、知りたくないと思っている。
(了)