小学四年の夏、俺たちは郊外の新興住宅地に引っ越した。
丘陵を切り崩して造成されたばかりの街で、家々はどれも新しく、植え込みはまだ苗木の域を出ていなかった。夕立のたびに舗装の匂いが立ち上り、夜になると虫の声より、どこか遠くの工事の残響のような低い音が街を覆っていた。
近所に、二つ年上の女の子がいた。黒髪を肩で切りそろえた、大人びた顔立ちの子だ。最初に会った日のことを、今でもはっきり覚えている。新居の段ボールを開けていた母の背中越しに、玄関先からひょいと顔を出し、にやりと笑って「遊ぼう」と言った。その笑顔だけが、時間を経ても色褪せず、妙に鮮明なままだ。
住宅地に子どもは少なく、同年代は俺と彼女くらいだった。自然と一緒に遊ぶようになった。鬼ごっこや自転車、夏は蝉捕り、冬は砂場に雪を積んだ。彼女が中学に上がってからも、外で会えば笑顔で挨拶をしてきた。年上らしい距離を保ちながら、時々からかうような視線を投げる。そのたびに、理由もなく胸がざわついた。
高校に入ると塾に通い始め、帰りはいつも夜九時を回った。真っ直ぐ帰ればいいものを、俺はよく住宅地裏の高台にある公園に寄った。ベンチに座り、コンビニのパンを齧りながらゲームをする。見下ろす住宅地の灯りは、水槽の中の魚みたいに静かに瞬いていた。
あの日も、そんな寄り道だった。九月、湿った夜だ。公園の柵に肘をつき、ぼんやり住宅地を眺めていると、見覚えのある影が目に入った。
彼女だった。
二階の窓の向こうに立っている。部屋の灯りに照らされ、輪郭がはっきり見えた。ただ、その姿が異様だった。制服の上から、全身が赤く染まっていた。照明の色でも、夕焼けの名残でもない。液体が飛び散ったような赤で、まだ乾いていないように見えた。
さらにおかしいのは、その部屋が彼女の家ではなかったことだ。そこには独身の男が一人で住んでいた。三十代か四十代。顔はよく知らないが、休日の朝にスーツを干しているのを見たことがある。
窓の下には、その男と思しき人物が倒れていた。白いシャツは赤く染まり、動かない。彼女の右手には、銀色の何かが握られていた。刃物だと理解するまで、時間はかからなかった。
芝居だ、と自分に言い聞かせた。新築の家で、こんなことが起きるはずがない。だが、彼女の顔は笑っていなかった。怒りでも悲しみでもない、ねじれた感情が表情を歪めていた。
三十秒もなかったと思う。それ以上は見られなかった。目が合えば、取り返しのつかないことになる気がした。俺は背を向け、公園を飛び出した。
家に帰っても、親には話せなかった。翌日も、近所は普段通りだった。警察の姿もない。数日後、道端で彼女に会い、「おはよ」と声をかけられた。何事もなかったかのように。
時は流れ、大学進学で家を出た。夏休みに帰省したある夜、縁側で麦茶を飲みながら、ふとあの夜を思い出した。軽い調子で母に訊いた。「あの独身の人、今どうしてるの?」
母は何でもない顔で答えた。「高一の一月ごろに亡くなったわ。心筋梗塞だって」
俺は思わず聞き返した。「血まみれだったとか、そういう話は?」
母は首を振った。「全然。自室で静かに亡くなってたって」
近所の人も同じことを言った。心筋梗塞、静かな最期。血の話など、誰もしない。
それでも、あの夜の光景は消えない。赤く染まった制服、倒れていた男、手に握られた刃物。幻だったとしても、なぜあんな映像を見たのか。
彼女の笑顔は、最初から少し近すぎた。距離を詰める一歩が、人より半歩だけ深い。目が合う瞬間、息を止めているように見える。その小さな違和感が、今も積もったままだ。
夏の夜、虫の声が満ちる。暗がりの向こうから、あの視線がこちらを覗いている気がする。俺はカーテンを閉めた。閉めても、その向こうに赤い影が立っている気がしてならない。
(了)