親父が死んだ日のことを、今でもはっきり覚えている。
いや、正確には死ぬ前日のことだ。あの、よく分からない言葉を口にした夜のことが、ずっと頭の中にこびりついて離れない。
食道静脈瘤という病気で、血を吐きながら入院していた。
最期の数日は、出血を止めるために、医者が鼻から食道にかけてゴム風船のようなものを通し、膨らませて圧迫していた。見ているだけで苦しそうで、見舞いに行くたび胸が締めつけられた。
意識は混濁していて、会話もろくに成立しなかった。
それでも時折、親父は俺たち家族に向かって何かを訴えようとする。
その夜も、チューブに顔を歪めながら、声を絞り出すように言った。
「……鼻を、入れ替えろ……鼻の名前を、入れ替えろ……」
声はかすれていたが、確かにそう聞こえた。
俺も、母も、祖母も、最初は意味が分からなかった。鼻? 名前? 何のことだ?
ただ「鼻の穴を入れ替えろ」つまり、チューブを通す穴を右から左に替えろという意味じゃないかと解釈した。
医者にも伝えたが、特に問題はないとのことで、そのままになった。
そして俺たちの結論は「混乱しているんだろう。死ぬ間際なんだから、言い間違えもあるさ」というものだった。
だが今思えば、あのときの目つきは、ただの錯乱ではなかった気がする。
濁った瞳の奥に、言葉にしきれない焦りのようなものが潜んでいた。どうしても伝えたいことがあるのに、それがうまく口から出てこない。そんなもどかしさに、親父は苛立っていたのだろう。
翌日、親父は静かに息を引き取った。
血の匂いが残る病室で、俺たちはただ呆然としていた。
その後は嵐のような慌ただしさだった。
葬式の準備に追われ、親戚が次々に集まり、電話のベルが鳴りやまない。涙を流す暇すらなく、俺は流れ作業のように手を動かしていた。
そして葬儀社が祭壇を整えているとき、母がふと違和感に気づいた。
供えられた花の並びが妙だったのだ。
「ちょっと……これ、おかしくない?」
白菊の花輪の中央には、遠縁の親戚の名札が差さっている。
一方、長年親父が勤めていた会社の社長からの立派な花は、なぜか隅に追いやられていた。
「普通は逆でしょう。社長の花が真ん中に来るはずだわ」
母は慌てて葬儀屋に声をかけた。
「すいません、こちらの二つの花を入れ替えてください。大変でしたら……その……花についている名前を入れ替えてください」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
横にいた祖母と同時に、俺は母の言葉を復唱していた。
「……花の名前を入れ替えろ」
そう。昨夜、親父が呻くように言っていた言葉とまったく同じだったのだ。
鼻ではなく、花。
ただの聞き違いだったのかもしれない。けれど、あの場にいた俺と祖母には、はっきりと昨日の声が蘇ってきた。
「お袋……今、なんて言った?」
「花の名前を入れ替えろって……」
俺たちは顔を見合わせた。
あまりの符合に、言葉が喉の奥で詰まって出てこなかった。
親父は、これを伝えようとしていたのか。
もしそうなら、なぜわざわざ? あの苦しみの中で、どうして花の並びのことを気にした?
考えれば考えるほど、不可解で気味が悪い。
だが、ひとつだけはっきりしている。社長は生前の親父にとって恩人だった。
俺たち母子家庭を気にかけ、困ったときは必ず力を貸してくれた。
もし社長への礼を欠いたまま葬儀を進めれば、親父は死んでも死にきれなかったのかもしれない。
それにしても――なぜ「鼻」と言ったのか。
病室で聞いた声は、確かに「鼻」だった。
息を吐くたびに血の匂いが混じり、言葉が濁っただけなのか。
それとも、あれは「花」と「鼻」のあいだを行き来する何か、境目のようなものだったのか。
……あの日を境に、俺はことあるごとに人の「言い間違い」が気になるようになった。
ふと漏らす一言に、もしかしたら何かの予兆が隠れているんじゃないか。
そんなことを考えると、声が怖くてたまらなくなる。
親父は花の名札を守りたかったのか。
それとも、もっと別のことを伝えようとしていたのか。
真実はもう分からない。
ただひとつ、確かに言えるのは――死の間際、親父の言葉が間違いでなかったということだ。
そのことだけが、今も俺を奇妙な安堵と不気味さで縛りつけている。
[出典:898 :本当にあった怖い名無し:04/12/19 06:46:51 ID:5CSDDWKJ]