長編 洒落にならない怖い話 定番・名作怖い話

【語り継がれる怖い話】溶接【ゆっくり朗読】5900

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大学一回生の冬。俺は自分の部屋で英語の課題を片付けていた。

その頃はまだ、それなりに授業も出ていたし、単位もなんとか取ろうと頑張っていた。

ショボショボする目で辞書の細い字を指で追い、構って構ってとちょっかいを出してくる子猫の小さい手を掻い潜りながら、ようやく最後のイディオムを翻訳し終えた。

疲れた目を押さえ、テキストを仕舞う。

もう夜の一時半を回っている。寝ようかと思い、欠伸をしたところで部屋の隅のパソコンが目に入った。そう言えばここ何日かインターネットに繋いでいなかったことを思い出す。

パソコンの前に座り、電源を入れると、とりあえずオカルトフォーラムを覗いてみることにする。

そこは地元の人々が集う場所だった。

本来は黒魔術などの西洋系のオカルトに関する話題を扱う場所なのだが、常連たちもあまり堅いことを言わないので、そんな話に限らず、みんな割と何でも話している。

その時も、話題は心霊スポットに関するもののようだった。

ログを遡って流れを確認していると、伊丹さんという人が突発的なオフを提唱していたらしい。

突撃オフというやつだ。伊丹さんは男性で、商科大の三年生だった。

『その廃工場の地下に、なんのためにあるのか分かんない空間があるんだって』

伊丹さんは隣の市の外れにあるという廃工場にまつわる噂話をどこからか仕入れて来ていた。

「ユキちゃん。前のご主人様が遊ぼうってさ」

俺はパソコンの前に座ったまま、そばに来た子猫をつかまえて抱き上げる。

メスの白猫で、ついこの間、その伊丹さんの家からもらって来たばかりだった。

最近伊丹さんのアパートに野良猫が住み着いていたのだが、それが子どもを四匹も産んだとのことで、俺を含む知り合いに片っ端から声をかけたらしい。

『なんか、だだっ広い地下室の床に血みたいな染みがあって、夜中にそこへ行くと血の上にぼうっと立ってる幽霊が見えるんだって』

そんな書き込みの後で、今から突撃するから参加者募集、と続けていた。

タイムスタンプを見ると一時間以上前だ。何人か反応していたが、今からは無理、という声ばかりだった。

そして三十分ほど前に、『う~ん、じゃあツレと二人で行って来る』という伊丹さんの書き込みがあった。それが最後だ。

その後で、別の誰かが

『今来た。もう行っちゃった? 俺も行きたかったな。なんか場所よく分かんないし、報告待ちにするわ』

と書いてあったが、それにも反応はなかった。

「前のご主人様はもう遊びに行っちゃったみたいだねえ」

子猫に話しかけながら身体を前後に揺する。

その頃はまだ、出先から携帯電話でネットの掲示板を更新する、というような文化はなかったので、オフ組が自分の家に戻るのを待つしかなかった。

俺もその廃工場への突撃がどうなったか気にはなったが、猛烈に眠くなってきたので、今夜はもう寝ることにした。

だから、その後のひと騒動を知らずにいたのだった。

次の日の夜のことだ。

俺が自宅でぼんやりしていると、PHSに電話が掛かってきた。出ると、みかっちさんというハンドルネームのオカルトフォーラム仲間からだった。

なにか面白いことがあったから、来いということらしい。

テンションが高くて半分くらい何を言っているのか分からなかったが、とりあえず混ざることにした。

寒波が来てるとかで、外はやけに寒かった。

遊ぼうとワキワキしている子猫を残し、精一杯の厚着をして部屋を出ると、俺は自転車に跨って目的地に向かった。

いつものオフだと、だいたいファミレスか居酒屋、あるいはcoloさんというハンドルネームの女性が住んでいるマンションの一室に集まるのだが、その日は和気さんという男性のアパートが集合場所だった。

和気さんはオカルトフォーラムの管理人で、普段はあまりオフなどには出てこないのだが、最古参ということもあり、常連の中でも一目置かれた存在だった。というか、むしろフォーラムの創設者だったからか。

一度だけ部屋に行ったことがあるのだが、とても物静かな人だった。

雰囲気は全然違うのだが、容姿がどこか俺のオカルト道の師匠に似ていて驚いたことを覚えている。

寒空の下うろ覚えの道を進み、ようやくそのアパートにたどり着いた。

ノックすると、ドア越しに人の話し声が聞えて来る。構わず中に入り、「ちわ」と言いながら靴を脱いだ。

「お、来た、少年」

みかっちさんが手を振っている。

部屋の中は暖房が効いていて暖かかった。あまり広くない一室に数人が車座になっている。

全員見知った顔だった。いつもはファミレスなどでオフをするのだが、一部の常連たちはさらにその後、反省会などと称して誰かの家に集まり、二次会を開くのだ。

誰が呼んだか、密かに『闇の幹部会』などと呼び習わされていたりする。

俺も若輩の身ながら、なぜかその一員に入れてもらっているのだが、ようするに気の合う仲間で集まっているだけだった。

今日集まっていた仲間は俺を除いて全部で四人。

みかっちさん、ワサダさん、という女性陣に、和気さんと伊丹さんという男性二人。

このうちワサダさんと和気さんは社会人だった。

あれ?伊丹さんと言えば………

俺は昨日の突発的な突撃オフのことを思い出した。

あの後どうなったのだろう。ツレと行くって言っていたけれど。

その時、俺は前に座っている伊丹さんの様子がおかしいことに気がついた。

目に隈が出来ていて、表情がどこか切羽詰っている感じだ。そしてしきりに貧乏ゆすりをしている。

僕の顔を見ても、「猫元気?」とも訊いてこなかった。なんだか気まずい雰囲気だ。

「ええと、今来たヒトもいるから、もう一度見てみる?」

沢田さんが提案する。

「そうね。見よう見よう」とみかっちさんが頷く。

「じゃあ、最初からでいいかな」

和気さんが自分の部屋のビデオデッキを操作し始める。どうやらみんなでビデオを見ていたらしい。

部屋にいた全員が、身を乗り出すようにしてテレビ画面に目をやる。一瞬砂嵐が映った後、ビデオが始まった。

最初は懐中電灯が暗い夜道を照らしている場面だった。画面が揺れている。歩きながら撮影しているようだ。

『ええと、もう映ってんのこれ?』

伊丹さんの声がする。

『ほら』という別の男性の声とともに画面が動き、伊丹さんがアップで映った。

懐中電灯を当てられている顔だけが暗闇に浮かび上がっている。

『おい、眩しいって』と手のひらで庇った後、少し明かりの焦点の位置がずれる。

『ええと、いま藤原と二人で心霊スポットに向かってまぁす。クッソ寒いでぇす』

そう言う口の端から白い息が出ているのが映っている。

『噂の廃工場の秘密の地下室へ突撃する決定的瞬間を撮るために、藤原を無理やり誘ってまぁす』

そう言いながら、伊丹さんは歩き始める。

カメラはしばらく伊丹さんの横顔を映していたが、やがて前を向き、行く先の暗い道を映し始めた。

『まだついてんの、それ』

『おう』

画面の外から声だけが聞こえる。

『今回は、残念ながら他の人の参加はありません。突発すぎたので反省です。二人だけなので、ちょっと怖いです』

『ていうか、なあ、これ道あってんの?』

『あってるって。ええと、さっきまでちょっと迷ってましたが、ここまで来たら後は一本道らしいんで、多分大丈夫でぇす』

ザッザッザ…… という二人の足音をマイクが拾っている。

舗装されていない道らしい。山の中だろうか。懐中電灯の明かりが二本、揺れながら地面ばかりを照らしている。

『さっきから、なんか山鳩?の声がしてます。結構怖い雰囲気です』

伊丹さんの声がそう言った後、『寒っむう』と続けた。確かに山鳩の声が遠くで聞えていた。

それからしばらく二人は黙ってしまい、ただ画面が前に進みながらガサガサと揺れていた。

その場面が淡々と続いていたかと思うと、ふいに電話の着信音が聞えた。立ち止まり、カメラが伊丹さんを映す。

『あ。もしもし。伊丹ですけど』

携帯電話を耳にあて、伊丹さんが誰かと話している。

『あ、掲示板見てくれた人っすか。どうも、始めまして。良かった。こっち二人で心細かったんで。今どこです。え? 先? うっそ。まじ?』

そこでカメラが振り向き、前方を映した。しかし懐中電灯の明かりには、何もない道だけが浮かび上がっていた。

『そっち何人ですか。三人? え? 男二人? うちと一緒だ。ていうか、なんかもうそこ着いてないスか』

伊丹さんが、「行こう」と手で合図する。

カメラが進み出し、また上下に揺れる。

『そうそう。それが廃工場ですよ。間違いないスよ。うちら、二、三分前に石碑みたいなところを曲がったんですけど、後は一本道ですよね。後どのくらいで着きますか』

暗闇に伸びている道のバックで、伊丹さんの声が聞えている。

『ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。一緒に行こうよ。待っててよ』

伊丹さんが焦った声を出す。そしてカメラが早足になる。

『蓋? 蓋があんの? 鉄製? あ、多分それ。その下が。ていうか、もうちょっとで着くから一緒に行こうよ。抜け駆けはなしだって。おい』

携帯電話に向かって大きな声で呼びかけたが、向こうからの反応がないようだった。

『もしもし、もしもし』

くっそ。先越された。

伊丹さんは毒づくと、カメラの前に出た。

その背中を追って、映像は続く。

二、三分ほど経っただろうか。ずっと木立ばかり照らしていた光が、無機質な壁に反射した。苔むしたなにかの建物だ。

『どっちだ』

カメラの先を行く伊丹さんが懐中電灯を振りながら入り口を探す。

『あ、こっちこっち』

そしてカメラを手で招きながら壁を回り込む。

その先に左右二枚の横開きの大きな扉があり、片方の扉の下部が潰れ、斜めに傾いでいるせいで、ひと一人が十分出入り出来る隙間が出来ていた。

『おおい。いますか』

伊丹さんが懐中電灯をその隙間に差し入れながら声を掛ける。

そうしておっかなびっくりといった様子で、自分の身体を隙間に滑り込ませた。

すぐに隙間から顔が覗き、『入れるか?』と訊いて来る。

『いける』

カメラもそれに続いて隙間から入っていった。

元は一体何の工場だったのか、中はほとんどもぬけのからで、錆びたドラム缶がいくつかと、破れ目から砂がこぼれている白い袋が隅の方に転がっていた。

工場の中を見回している一瞬、音が消えた。他の人影も見えない。画面から冷え冷えとしたものが漂って来る。

一部が破れたトタン屋根の天井から一筋の月光が降りて来て、床の中央に満月のような模様を描いていた。

雨も吹きさらしなせいか、そこだけ床が汚らしい色に変色している。

『あれじゃないか』

伊丹さんが手に持った明かりを、左奥の隅に向ける。

近づいていくと、木なのか金属なのか見た目で判別がつかない建材のようなものが積まれているその脇に、蓋が見えた。

カメラが近寄り、斜め上からその姿を映す。網のような模様のついた金属製の蓋だ。

縦横五十センチくらいの四角い形状をしている。かなり大きい。人が十分出入り出来そうな大きさだ。

伊丹さんがゴン、ゴン、と蓋を叩いた。

『いますか』

しばらく待ったが反応がなかった。

『これ持ち上がるのか』

カメラから声が掛かると、伊丹さんは顔を上げる。

『さっきの人が、開けてたからな。電話からギィーッて聞えたから。こう、ガポっと持ち上げるんじゃなくて、どこかの縁が固定されててそこが軸になって持ち上げるタイプじゃないかと……』

そう言いながらまた蓋に目を落とした瞬間、『えっ』と絶句した。

『ちょっと待てよ!』

建物の中に悲鳴に似た声が響く。

『なんでこれ溶接されてんだよ!』

大きくぶれた後で、カメラがさらに蓋に近づく。そして地面との境目を映し出す。

コンクリートの地面に鉄製の縁取りがあり、その内側にまるでマンホールのような質感のずっしりした蓋があるのだが、本来であれば、持ち上げる時のとっかかりとなるはずの穴が縁取りに沿って開いているはずだった。

しかし、その蓋には穴の痕跡はあるものの、縁取り全体にそって溶接をされていて、穴も完全に塞がっていた。

『どういうことだよこれ』

伊丹さんは息を飲みながら、また蓋を叩いた。

『おおい。いるのか。おおい』

『おい、落ち着けって』

カメラからそう声が掛かるが、髪を振り乱して顔を上げると、伊丹さんは嗚咽のような声を絞り出した。

『開けて入ったんだって。電話のやつが言ってたんだよ。先に降りとくって! ギィーッ、ゴトッって音がして、電話が切れたんだよ! さっきのやつ、入ってんだって。この中に』

その切羽詰ったような表情に気おされたように、カメラが一瞬引いた。

なんとかして蓋を開けようとしているが、力を入れるとっかかりさえない状態だった。

ゴン、ゴン。

蓋を叩く鈍い音が聞える。

『誰が塞いだんだよ、これ』

喚く伊丹さんの様子がただならないことに気づいたのか、カメラが床の上に置かれ、画像が一瞬乱れる。

斜めになった画面の端で二人の人影がもつれあっている。

『落ち着けって。そんな一瞬で溶接できるわけないだろ。勘違いだって』

しばらく言い争いをしていたが、カメラマンの説得にようやく落ち着きを取り戻し始めた伊丹さんが『そうだな』と呟いた。

それからもう一度カメラは肩に担がれ、廃工場の中の探索が始まった。

しかし、それ以外に蓋らしいものは何一つ見当らなかった。もちろん、地下室への入り口も、何一つ。

その後、斜めに傾いた扉から外に出て、廃工場の外側の敷地をしばらく探索していたが、結局蓋や地下への入り口はおろか、さっきまでここにいたという二人組みの痕跡も全く見つけられなかった。

廃工場に背を向け、元来た道を引き返しながら、無言のままビデオは終わった。

和気さんがビデオデッキの停止ボタンを押した後、しばらく沈黙があった。

まるでビデオの続きのように。

みかっちさんが重い空気を振り払うように、明るい声を出す。

「というわけで、伊丹くん勘違いの巻、でした」

のまっき、という発音が場違いに聞えた。

「だったら、あの電話はどこから掛けてたんだよ」

伊丹さんが苛立った声を上げる。

「だから、イタズラだって。どっか別の場所から適当に掛けてただけだったんよ」

「だけど、俺が今どこにいますかって訊いたら、斜めに傾いた扉の前にいるって言ったんだぞ。で、中に入った後、左の奥の方に蓋みたいのがあるって、言ってたんだ」

怯えた表情で伊丹さんは捲くし立てた。

「実際俺たちが着いた時も、全く同じだったじゃないか」

「ええと。それは」

みかっちさんが口ごもったところを、和気さんが落ち着いた口調で繋いだ。

「以前行ったことがあったんじゃないかな」

「そうそう。それ。行ったことあった人が、イタズラで電話したんだって」

「なんでそんなことするんだよ」

「人が怖がるのが面白いんじゃないの」

みかっちさんは伊丹さんの目の前で口を半月状にして笑った。

「笑うな!」

伊丹さんが声を荒げかけると、すぐさまワサダさんが止めに入る。

「まあまあ、人の家で喧嘩しちゃだめ。……ところで、その電話して来た人って、ホントに知らない人?」

伊丹さんは相手の名前は分からない、と言った。

「向こうがはじめましてって言うから、そう思っただけだよ」

でも、聞いたことがない声だった。

そう言って手元の携帯電話に視線を落とす。

「ちょっと、その相手の番号見せてよ」

そう言って顔を寄せたみかっちさんに、伊丹さんは着信番号が表示された画面を見せた。

「090‐xxxx‐xxxx ふうん、私も知らないなあ」

俺も覗き込んだが、やはり見たことのない番号だった。少なくともフォーラムの常連の誰かではなさそうだ。

「リダイアルしても出ないんだっけ?」

みかっちさんに訊かれて、伊丹さんは携帯電話のボタンを押す。耳にあててしばらく待っていたが、首を横に振って「ほら」とこちらに向けた。

『……電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため、お繋ぎできません』

そんな言葉が電子音で流れて来ていた。

「それでね、管理人の特権のアクセス解析の話なんだけど」

和気さんがぼそりと言う。

「そうそう、それを聞くところだったんだ!」

無邪気なみかっちさんの言葉に苦笑しつつ、和気さんは続けた。

「前に何回も説明したと思うけど、アクセス解析じゃあどこのだれが掲示板を見てたかってのは分からないんだよ。せいぜいプロバイダとOSの種類、それからブラウザは何を使っているのかってことくらいしか分からないんだ」

「ホントにぃ? 個人情報ダダ漏れじゃないの?」

「まあ、会社とか、官公庁から繋いでる場合は、ズバリの名前が分かることもあるけど」

「でもIPアドレスってのがあるんじゃないですか。それも分かるんでしょう」

ワサダさんが横から口を出すと、和気さんは頭を掻いた。

「う~ん。詳しい説明は省くけど、基本的にはIPアドレスはその都度取得するから、同じ人でも毎日違うよ。といっても、ある程度この人かなって絞れることもあるけど。でもそれも、リアルで知ってる常連で何度も来てる人だったらって話で、一見さんならどこの誰かなんて警察でもないと調べられないと思うよ」

「下手したら、その警察沙汰なんですって!」

伊丹さんが余裕のない声でそう言った。

「地下に閉じ込められてるかも知れないんですよ」

ううん。と伊丹さんはまた頭を掻いている。

「でもさ、あの蓋見たでしょ。完全に溶接されてたじゃん。絶対昨日今日されたんじゃないよ、あれ。ずっと前からだって、明らかに。だったらあの中に入れるわけないよ」

「それはそうだけど!」

「夜遅いから、もうちょっと静かにね」

ワサダさんが常識人らしいたしなめ方をする。

その時、玄関のドアをノックする音が響いた。ついで、ドアの開く音と、「ちわ。遅くなった」という声。

常連の一人で京介さんというハンドルネームの女性だった。部屋に入ってくるなり、「キョースケぇ」と言ってみかっちさんが抱きつこうとする。

それを武道家らしい最小限の動きでひらりとかわし、平然とした口調で「で、なにがあったの」と言った。

この人が来るだけで場の空気がなんとも言えない安心感に包まれるので不思議だった。

京介さんが来たので、また最初からビデオを見ることになった。

俺は二度目だったが、一度目の時にあまりじっくり見られなかった蓋のアップのシーンを今度は砂被り席で見た。

その時、気がついたことがあった。蓋は確かに縁に沿って溶接されていて、穴も完全に塞がれていたのだが、その縁のところになにかが映っているのが見えたのだ。

「ここ、止めてもらっていいですか」

和気さんが一時停止ボタンを押してくれた。

すると固まった画面の左端のあたりに、黒い線のようなものがあるのだ。

ちょうど蓋の丸い縁どりの端から外へ向かって伸びている。

銅線?

一瞬そう思ったが、懐中電灯の光に照らし出されたそれが、やけに細くて柔らかく曲がりながら何本にも分かれているように見えた。

「髪の毛だ……」

思わずぼそりとそう口にすると、伊丹さんの押し殺した悲鳴が聞えた。

「え。なによ髪の毛って」

みかっちさんがテレビの画面に掻き付くように前に出る。

「これが? そうかなあ」

そう言われると自信がなくなってくる。

「やばいよ、これ。まじやばい」

伊丹さんが尋常ではないうろたえ方をしている。

「俺、気づいてなかった。こんなのあったなんて」

髪の毛だとすると、縁から出ているということは溶接された隙間から出ていることになる。

それが一体どういう状況なのか想像して、ゾクリと寒気が走った。

「でもこれ、長くない?」

ワサダさんが呟いた感想を耳にすると、確かにそう思えた。男にしては長すぎると。

しかし伊丹さんはそれを聞いた途端に余計に怯え始めていた。

「やっぱり女がいたんだよ。女が。俺が最初に電話でそっち何人ですか、って訊いた時、後ろで女の声がしたんだ。間違いない。だから三人かって訊いたのに、男二人だっていうから、あれ? って思ったんだ」

なんだそれは。そんなことさっきまで言ってなかったじゃないか。

俺がそう指摘しようとしたことを、三倍くらいの分量に増やしてみかっちさんが言いつのった。

「それは……」

伊丹さんが言いづらそうにしながら、

「これ以上変に思われたくなかったし」と呟いた。

「後から辻褄あわせしようとすんなって!」

と、みかっちさんが辛らつな言葉を口にすると、和気さんがおもむろに手を挙げる。

「あ、それ、僕は聞いてました。最初に伊丹君から相談受けた時、確かにそう言ってましたよ。女の人もいたみたい、って」

しいん、と部屋の中が静かになった。

「なによそれ」

みかっちさんが気味悪そうに言った。

俺も何ともいない気持ち悪さに襲われていた。

直前まで電話で話していた相手が、廃工場の溶接された蓋の下に閉じ込められているっていうのか?

それも髪の毛が挟まれた状態で。

想像するだけで寒気がしてくる。

安全なはずの和気さんの部屋の中にいるのに、油断できない恐怖感に圧迫されそうになっていた。

その空気を破ったのは京介さんだった。

「行ってみるか」

こともなげにそう言った京介さんの腕に、みかっちさんが抱きつく。

「行くの、キョースケ? 今から? まじで」

鬱陶しそうにそれを振りほどき、伊丹さんに顔を向ける。

「これ、場所はどこ」

「本当に行くんですか」

俺も驚いて立ち上がった。

しかしその答えもすでに分かっていた。そういう人だと、分かっていたからだ。

そうなると、次に取るべき俺の行動も自ずと限定されて来る。

「キョースケに着いて行く人!」

やけに元気にみかっちさんが手を挙げながらそう言った時、俺も迷わず右手を挙げていた。

結局、廃工場に行くことになったのは、京介さんとみかっちさん、当事者の伊丹さんと俺の合計四人だった。

「ここで待機してようか」と言ったワサダさんに、「あんた彼氏いるんだから、二人きりは駄目だって。帰んなよ。しっし」とみかっちさんが追い立てるようにして帰らせた。

みかっちさんが和気さんのことを狙っているという噂はどうやら本当のように思えた。

四人が乗り込んだ伊丹さんの車で深夜の国道に入り、しばらく走った。

そこからはただでさえ地元民ではない僕にはさっぱり分からなくなったが、とにかく都市部から外れた狭い田舎道を一時間くらい走ってようやく目的地にたどり着いたのだった。

「ここから歩くよ」

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伊丹さんが懐中電灯を手に持ちながら車のドアを閉めた。

カメラは藤原さんという伊丹さんの友人の持ち物だったので、今はない。四人はその幹線道路から外れた何もない山道を静かに進んでいった。

途中、何もない道端に急に石碑のようなものが現れた。伊丹さんが緊張するのが分かる。
「こっち」

そうして石碑の角を回り込むようにして、枝道へ入った。車がやっと一台通れるくらいの狭い道だ。こんなところに工場なんて、不便で仕方がないだろうに。

一体なんの工場だったのだろうと思いながら俺は舗装もままならないその砂利道を黙々と歩いていった。

どこからともなく山鳩の声が聞える。こんな夜中なのに、鳥が起きているということが不思議だった。

京介さんを相手にしきりと話しかけていたみかっちさんの口数も減り始めたころ、ようやく建物の影が見えてきた。

ビデオに映っていたのと同じだ。真否はともかく、心霊スポットという噂が立つほどの建物だ。

夜の山の中にいきなりその姿が現れると、さすがに不気味な迫力があった。

「こっち、こっち」

伊丹さんがビデオの再現のように手でみんなを招きながら壁を回り込み始めたので、その不気味さが一層増したように感じた。

朽ちた壁が続く中に、横開きの大きな扉が見えてきた。

「この中だ」

声が震えて上ずっている。

「こ、この中ね」

みかっちさんが確認するように言うと、京介さんの背中を押しながら進もうとしている。

その先には斜めに傾いて片側が半分開きかけているように見える扉が見えた。

さすがに京介さんも少し嫌そうに

「押すなバカ」と言うと立ち止まり、扉の中の様子を伺いながらゆっくりと近づいていった。

四人それぞれが持った懐中電灯の明かりが扉の隙間に集中する。

そこからなにか気味の悪いものが顔を出しそうな気がして、ゾッとする。

「入るぞ」

そう宣言したかと思うと、京介さんが扉の隙間からスルリと中に消えていった。俺もおっかなびっくり後を追う。

中はむっとするような黴臭い匂いが立ち込めていて、ビデオで見ただけのものとは違う臨場感が、恐怖心を圧迫してくる。廃工場の中を懐中電灯の丸い光が、大きな人魂のように彷徨う。

人の気配はどこにもなかった。物音と言えば、自分たちの息遣いと背後から扉を越えてくる残りの二人の足音だけだった。

床の真ん中あたりに月の光が落ちている。見上げると、トタン屋根の天井の一部に丸い穴が開いていた。その落ちてくる淡い光が、どこか非現実的で幻想的な雰囲気を生んでいた。

「あっちだ」

伊丹さんが懐中電灯を左手側の隅に向ける。京介さんを先頭に足音を殺しながらゆっくりとそちらに歩いていく。

ドキン、ドキン、と心臓が高まり始める。転がったドラム缶の影になにか動いたような気がする。

しかし、それが恐怖心の生み出す錯覚だということも分かる。

「これか」

京介さんが立ち止まったその足元を見ると、そこには蓋があった。

金属製の蓋だ。冷え冷えとした地面にまるで張り付くように据えられている蓋だった。

人間が一人、出入りできるほどの大きさの。その下には、地下へと伸びる階段があるのだろうか。

だが、蓋は溶接されていた。この目で見るとはっきりと分かる。

何年、いや十年以上も前からこの蓋は、こうして溶接された状態で誰にも開けられることもなく、ここで時の経過とともに緩やかに朽ちていったのだろう。

「髪が」

みかっちさんが短い悲鳴のようにそう言った。

再び目を落とすと、蓋の溶接された縁から人間のものと思しき髪の毛のようなものが生えているのに気づく。

ゾクゾクと寒気が増す。この感じはやばい。やばい。頭の中でそんな警戒音が鳴っている。

しかし、京介さんが俺を見てこう言った。

「抜いてみろ」

「なんで俺ですか」

思わずそう言い返すと、「他人の髪の毛なんて触りたくない」と言うのだ。どこかずれている気がする。

「いいからやれ」

有無を言わせぬ口調でそう命令されると、従わざるを得ない。

メンバー的にも俺がやるしかないのだろう。

真っ青な顔でぶるぶる震えている伊丹さんを振り返り、改めてそう思った。

髪の毛のように見えるものは、蓋の縁から少しずつ束になり、何条かに分かれて出ていた。

俺は息を止めて、その髪のひと束を指先で摘んだ。その瞬間思った。

髪だ。

あきらかに人の髪だった。

そして同時に気づく。こんなにたくさん髪の毛があっただろうか。ビデオで見た時よりも多い気がする。

それに、一度は蓋の縁をガリガリと指先で掻き、なんとか持ち上げるための取っ掛かりになりそうな場所を探していた伊丹さんが、その時全く気づいていなかったというのが不可解だった。

増えている?

溶接された蓋の、ないはずの隙間から生えている髪の毛が?

そんな、馬鹿な。

周りは静かだった。伊丹さんは蓋の下へ声を掛けようとしない。いるんですか、とは。

俺は震える指先で、摘んだままの髪をそっと引っ張った。

ずるり。

抜けた。数本の髪が、わずかな抵抗のあと、抜けた。その抵抗が、溶接によるものなのか、それとも、別のなにかによるものなのかは分からない。

思考がそれ以上深くならないように、俺は軽い口調で「抜けました」とその長い髪の毛を翳して見せた。

その瞬間、悲鳴が上がる。伊丹さんとみかっちさんだった。

「毛根が……」

「毛根があるじゃない!」

二人とも、まるでそれが今ヒトの頭皮から抜けたばかりであることの証明のように驚愕している。

「おい、落ち着け」

京介さんがそう言ってみかっちさんの肩を抱く。

伊丹さんは胸ポケットから携帯電話を取り出した。

そしてボタンを押してから耳に押し当て、すぐさま「出ろよ。なんとか言えよ、おい」と捲くし立てた。

「どこにいるんだよ。電話出ろよ!」

薄ら寒い廃墟の中に、その声が響く。

だが次の瞬間、「あ」と言って動きが止まった。

伊丹さんは目を泳がせなら「着信音が聞える」と呟く。

リリリリリリリ………
リリリリリリリ………

携帯電話の着信音が、どこからともなく聞えて来る。

俺は身体を硬直させ、摘んでいた髪の毛を取り落とす。

みかっちさんが叫び声を上げた。伊丹さんも、わああ、と叫んで耳を塞ぐ。

全員の視線が蓋に向かっている。いや、蓋ではない。その下にあるはずの空間に。

着信音はそこから聞えているのだ。溶接され、人が入れないはずの地下から。

その時、ドラム缶が蹴り飛ばされる物凄い音がした。

金属の塊がひっくり返り、打ちっぱなしの床に打ち付けられる、ゴワンゴワンという轟音が。

それは携帯電話の着信音など耳の奥から一瞬で吹き飛ばされるような音だった。

飛び上がらんばかりに驚いた俺は、その音のする方へ目をやった。

そこでは京介さんが、右足の踵を上げ、痛そうに顔をしかめている。ドラム缶を蹴ったのは京介さんだった。

だが、一体なぜ?

そう考えるより早く、京介さんは瞬時に身体を反転させ、右手を伸ばして伊丹さんの携帯電話をもぎ取った。

そして一瞬だけ耳に当てると、唖然とする俺たちにその携帯電話のディスプレイを翳してみせる。

「聞いてみろ。相手には届いてない」

俺は携帯電話を受け取りもせず、ただ耳を近づけて『……電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため……』というメッセージを聞く。

「幻聴だ」

その言葉にハッとする。

耳を澄ましたが、確かに聞えない。空のドラム缶が立てた騒々しい音にかき消され、携帯電話の着信音は完全に途絶えていた。

始めからそんな音が存在していなかったかのように。

京介さんは手にした携帯電話のディスプレイにふと目を落とし、ボタン操作をした後で、険しい表情をした。

「……おい」

そうして押し殺したような低い声で言うのだ。

「伊丹。この相手、誰だ」

伊丹さんを睨みつける。

その訊き方はどこか奇妙な気がした。

それが分からないから、こうしてこんなところまでやって来ているはずなのに、この場面で何故そんなことを?

あまりの展開にバクバク言っている心臓を胸の上から押さえつつ、俺は京介さんと伊丹さんを交互に見た。

京介さんは携帯電話をゆっくりと伊丹さんの方へ向け、その表示された画面を前に突き出した。

『木だ 弘子』

そこにはそんな文字が書いてあった。

「間違えて掛けたんじゃないな。昨日のその時間に、着信があった番号だ。ビデオで見た通り、その後お前からリダイアルをしている」

名前?なぜアドレスに名前が入っている?

しかし、名前の下に表示された番号を見ると、確かにさっき和気さんの部屋で見せられた番号なのだ。

あの時は、番号だけが表示されるモードだったらしい。

しかし、着信履歴や送信履歴ではこうして名前までちゃんと表示されていた。

木だ 弘子

田んぼの田がひらがなになっている。まるで慌てて打ち込んだかのようだ。

見覚えのない名前だった。

混乱して、俺は伊丹さんを見た。

「分からない」

真っ青な顔をしてぶるぶる震えながら、頭を抱えている伊丹さんがその手をガリガリと動かしている。

「分からない!」

伊丹さんが叫んだ瞬間、ゴトリ、という音が響いた。

思わず床に転がっているドラム缶に目をやったが、もう動いてはいない。一体何の音だ、と思い周囲を見回そうとした時だった。

「上!」

みかっちさんが叫んで、天井を指さした。

見上げると、屋根に開いた穴が半月状になっている。さっき見た時には、丸い形だったはずなのに。

床に落ちた光も、半月の形になっている。

ゴトリ………

また音がして、半月が三日月になった。

差し込む月の光も、細くなって行った。

穴の真下の床は雨が吹きさらしだったためか、変色している。

そこに落ちる白い月の光が、か細くなって行くにつれ、床の染みがドス黒くなって行くように見えた。

まるで血の跡のように………

ゴトリ………

天井の穴はさらに小さくなる。

まるで、蓋を閉じているような動きだった。

そう思った瞬間、恐怖心が爆発的に増殖した。

凍りついたように足が固まる。蓋が。蓋をされてしまう。出口がなくなる!

硬直した俺を、いや、全員をその金縛りから解いたのはやはり京介さんだった。

「出るぞ」

そう言って全員の肩を強く叩き、上ではなく、水平方向にあった出口への脱出を促した。

懐中電灯で照らされるまで、完全にその扉のことが頭から消えていた。

あの天井に開いた穴が唯一の出口であるかのような錯覚を、埋め込まれていたのだった。そのことにゾクリとする。

俺たちは走った。

傾いた扉に異変はなく、来た時と同じように隙間に身体を滑り込ませ、外に出ることができた。

廃工場の外で、四人揃っていることを確認した後、すぐにその場を離れながら、京介さんは「もう帰るぞ」と有無を言わせない口調で言った。みんな神妙な顔で頷いた。

来た道を戻るあいだ、京介さんは伊丹さんの携帯電話のアドレスから『木だ 弘子』を削除した。

そうしてようやく持ち主に電話を返すと、「本当に知らないやつか」と訊く。

伊丹さんは何度もつんのめりそうになりながら、それでも早足で歩きつつ「し、知らない」と真剣な表情で答えた。

「どうしてその名前で登録した?」

「……分からない。覚えてない」

伊丹さんはその後も終始そんな調子だった。

車を止めてあった場所に辿り着いたが、持ち主が運転できる精神状態になかったので京介さんがハンドルを握った。結局無事に帰路につくことができたのだが、俺もどこか浮き足立っていて、一体なにが起こっていたのかという好奇心よりも、危険から離れたいという心理の方が勝っていたのだった。

その日はそのまま解散になった。車の中でも皆無口で、廃工場での出来事を語り合うこともなかったのは、本能的に避けるべき危機を知っていたのだろう。

怪異は、あの廃工場という空間だけで完結していないのかも知れなかった。何故なら、結果的に伊丹さんは俺たちをつれてもう一度あそこに呼び寄せられたのだから。

目に見えない怪異の伸ばす糸が、身体のどこかにこびり付いているような気がして、どうしようもなく気持ちが悪かった。

「あのビデオは処分するよ」

伊丹さんが別れ際、ぽつりとそう言った。

次の日、俺はオカルト道の師匠に、昨日の事件の顛末を語った。一晩寝て起きただけで、喉元過ぎれば、というやつだ。

師匠は面白そうに聞いていたが、トタン屋根の破れ穴が閉じて行くように見えたくだりで、「どうして僕も呼んでくれなかった」と言って悔しがった。

この人は多分、こういうことに首を突っ込んでいつか死ぬんだろうと思った。

そうしてさらに数日が経ち、伊丹さんもようやくオカルトフォーラムに顔を見せるようになった。

『猫元気?』と訊かれ、『今ぼくの横で寝てます』と答えた。

その後、師匠に会った時、ふいに「そういえば、行って来たぞ」と言われた。

どうやらあの廃工場へ行って来たらしい。それも蓋を開けたというのだ。

驚いて「どうやって?」と訊くと、知り合いの工場から工業用の切断機を借りて、持って行ったとのこと。

「蓋の縁に髪の毛が挟まってたとか言ってたけど、僕が行った時は見当たらなかったよ」

「そんなことより、蓋の下はどうなってたんですか」

髪の毛がなかったというのも気にはなったが、蓋の下のことを聞きたかった。

散々もったいぶった後、あっさりと「なんにもなかった」と聞かされた時には嘘だろう、と思った。

噂にあったような地下室などはなく、いや、正確にはかつてあったのかも知れないが、蓋のすぐ下はコンクリートで埋められ、人が一人入れるか入れないか、という空間しかなかったのだと言うのだ。

「なんか、ねずみか何かの骨が散らばってたけど。それだけ」

そう言って空気が抜けるように笑った。

「屋根の穴ってのも普通に開いてたし、集団で幻覚でも見たんじゃない?」

昔、女の子が殺されて捨てられてたって場所なんだし、恐怖心からそういう集団心理が働いてもおかしくないと、鹿爪らしくそう言う。

そんなこと初耳だった。

「あれ? そういう噂知らなかった? 僕が調べた限りでは、工場が潰れた直後くらいに、敷地内で身元不明の十六、七歳の女の子が白骨状態で見つかったとか。

まあ裏は取ってないけど。犯人も見つからずじまいだったって話」

「その殺された子って、もしかして木田弘子とかって名前だったんだじゃないですか」

と訊ねると、師匠は

「さあ」と首を振るだけだった。

(了)

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