高校の頃、俺は短距離をやっていた。
百メートルだけは、誰にも負けたくなかった。
夜、部活が終わったあとも走った。家の近所に、ちょうど百メートルぴったりの橋があったからだ。街はずれの古い橋で、街灯は少なく、中央に立つと両岸が遠い。まるで世界がそこだけ細く絞られているみたいだった。
その橋は有名だった。
飛び降りが多い。
中央には、いつも花が置かれていた。小さな瓶に挿した花。枯れれば、数日で新しいものに替わる。誰が替えているのかは知らない。気にしたこともなかった。
俺は走るだけだった。
中央を踏み抜くように通過する。その瞬間だけ、足音が空洞に響く。橋が息を吸うみたいに。
ある晩、ダッシュの前に、花がなくなっているのに気づいた。瓶もない。跡だけが残っている。
代わりに、白い紙が一枚、地面に打ちつけられていた。釘で。
誰かの悪ふざけだと思った。剥がそうとしたが、釘が深くて動かなかった。仕方なく、その上を避けて走った。
タイムは良かった。
中央で、ほんの一瞬、背中を押された気がしたが、風だと思った。
翌日、花は戻っていた。
ただ、数が多かった。瓶がいくつも並び、包み紙が風に揺れていた。腐った匂いがした。
俺は走った。
中央を踏むと、足音がひとつ多い気がした。自分のではない、半拍遅れの音。振り向けば、何もいない。走り終えると、胸が焼けるように熱かった。
三日目、紙が増えた。
橋の中央を横断するように、白い紙が一直線に並んでいる。すべて釘で打ちつけられている。
避ければ百メートルにならない。
俺は迷って、踏んだ。
足裏に、柔らかい感触があった。
紙の下が、わずかに沈んだ。
走り切ったあと、振り返ると、紙の端から赤い染みが滲んでいた。雨も降っていないのに、じわじわと広がる。
その夜、友人から電話が来た。
「今日、橋にいたよな」
「いない」と答えた。俺はその時間、家で飯を食っていたはずだった。
「中央に立ってた。ずっと。誰かを待ってるみたいに」
冗談だと思った。だが、通話の向こうで、風の音と、かすかな足音が聞こえた。俺の走り方と同じリズム。
通話履歴を見た。
発信は、俺の番号だった。
翌朝、橋に行った。
中央に、自転車が置いてあった。俺のだ。
昨日は確かに家にあった。鍵もかけた。
白い紙はすべて剥がれていた。釘だけが残っている。等間隔で、百メートル。
中央に立つと、下から冷たい空気が上がってきた。
欄干の隙間から川面が見える。黒くて深い。
足元を見ると、スパイクの跡がいくつも重なっていた。俺のものと同じ形。中央で、何度も踏み込んだ跡。
その瞬間、理解した。
百メートルは、走る距離じゃない。
中央に立つための助走だ。
背後で足音がした。
半拍遅れて、俺と同じリズム。
振り向かなかった。
振り向けば、位置が入れ替わる気がしたからだ。
それ以来、橋には行っていない。
走るのもやめた。
だが夜、布団の中で、百まで数えると、必ず中央に立っている感覚がある。
暗闇のなかで、足の裏に柔らかいものが触れる。
待っているのが誰なのかは、わからない。
ただ、あの橋の中央は、いつも一人分だけ空いている。
(了)