大学三年の夏だった。
学業よりも酒とバイトが中心で、同じ居酒屋で働く連中と夜な夜な集まってはくだらない話で夜を潰していた。井上と田尾、それに井上の彼女の日出子。あの頃は、四人でいることが当たり前だった。
発端は、井上のひと言だった。
「K市の廃病院、出るらしいぞ」
酒の勢いもあったし、日出子が笑って乗ったことで流れは決まった。軽自動車に三人、田尾は原付で後ろをついてくる。深夜の国道を抜け、山沿いの道へ入る頃には、さっきまでの笑い声が妙に軽くなっていた。
霧が低く垂れ込め、白い三階建ての建物が浮かび上がる。割れた窓、剥がれた外壁、黒く口を開けた玄関。かつて病院だったそれは、今はただ形だけが残った空洞だった。
一階は荒れていた。受付カウンターにはゴミと落書き。診察室も同じだ。倒れた棚、破れたカーテン、点滴袋の残骸。怖さよりも、想像していたものとの落差の方が大きかった。
二階へ上がると、空気が変わった。落書きが少ない。埃は積もっているのに、なぜか澄んでいる。
右手の病室を一つずつ覗いていく。錆びたベッド、歪んだロッカー、壁に掛かった丸い時計。
最初は気に留めなかった。
だが、三部屋目、四部屋目と進むうちに、違和感が形になった。
全部、二時で止まっている。
腕時計を見る。二時ちょうど。
偶然だ、と言い切れるほどの余裕はなかった。井上も田尾も、無言で次の部屋を確認する。やはり二時。
そのとき、通路の奥から音がした。
カツン。間を置いて、カツン。
硬い床を打つ、規則正しい音。ヒールのようでもあり、骨が直接床を叩いているようでもある。
止まらない。一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。
誰が最初に動いたのか覚えていない。気づけば全員が走っていた。階段を駆け下りる。背後で、カツン、カツン、と音が増す。
玄関を抜け、車へ飛び込む。ドアを閉めた瞬間、車体がわずかに沈んだ。後部座席に誰かが乗り込んだような重みだった。
確認する余裕はなかった。日出子がアクセルを踏み、タイヤが砂利を跳ね上げる。
バックミラーの向こうで、建物はすぐ闇に溶けた。
田尾の原付が横に並ぶ。ほっとしたのも束の間、前方でバランスを崩し、派手に転倒した。
駆け寄ると、田尾は擦り傷よりも顔色の方がひどかった。
「……いたんだよ」
「何が」
「お前らの車の後ろに、女が張り付いてた。窓に顔つけて……笑ってた」
誰も反論しなかった。誰も振り返らなかった。
その夜は、俺のワンルームに四人で押し込んだ。電気を消さず、交代でシャワーを浴び、誰かが目を閉じると別の誰かが無理にでも起こした。
朝になり、ようやく帰ると言い出したのは日出子だった。井上が送っていき、田尾も原付で帰った。
静まり返った部屋に一人残ると、留守電のランプが点滅しているのに気づいた。
再生する。
ノイズのあと、低く押し潰したような声が入る。
「ころしてやる」
感情がない。怒りでも怨みでもない。ただ事実を告げるような声音。
続いて機械音声が告げた。
「午前二時〇分」
喉が乾く。
その瞬間、電話が鳴った。
受話器を取ると、田尾の声が震えている。
「……俺んとこにも入ってた。同じ声。同じ時間」
通話の向こうで、呼吸音が荒い。
そのとき、部屋の壁に掛けていた目覚まし時計が、カチ、と音を立てた。
見ると、針がわずかに動いている。
二時を指して、止まった。
電池は昨日替えたばかりだった。
それ以来、俺の部屋の時計は、二時になると一瞬だけ遅れる。秒針が引っかかり、わずかに震える。
修理に出しても、異常なしで戻ってくる。
井上とは卒業後に疎遠になった。日出子とは別れたと聞いた。田尾は引っ越しを繰り返しているらしい。
だが、年に一度だけ、必ず連絡が来る。
午前二時〇分。
無言の着信。
出ると、通話の向こうで、カツン、と音がする。
一定の間隔で。
こちらへ、近づいてくる。
――止まっているのは、あの病院の時計だけではないのかもしれない。
(了)