今年の三月、雪が名残惜しげに空気に紛れ込んでいた頃のことだ。
一人暮らしの部屋というのは、静けさの中に妙な気配が滲みやすい。私は築三十年の八階建てマンションに住んでいる。家賃は安いが、それなりの理由があって、住人の多くは年金暮らしの老人や、何かしら事情を抱えた人たちばかりだ。廊下ですれ違っても目を逸らす者がほとんどで、会釈すら珍しい。誰が何号室に住んでいるか、把握している者はまずいない。
その夜も私は、ベッドに寝転がって文庫本を読んでいた。時間は深夜二時過ぎ。音楽もテレビもつけていない。物語のページだけが淡々と進んでいく。
だが、突然。
「ドン!ドン!ガンガン!」
玄関の扉が激しく軋んだ。空間そのものが跳ねた。鼓膜が揺れるような破裂音。思わず本を放り投げ、動けずにいた。酔っぱらいか?いや、こんな時間に……?
恐る恐る覗き窓に目を当てる。見えたのは、五十代くらいの小柄な男。やせ細った体、野良犬のようにひどく汚れた顔。目が吊り上がり、口元は泡立っているようにすら見えた。その男が、鬼のような形相で私のドアを蹴っていた。
知らない顔だ。どこかの部屋と間違えたのかと思ったが、蹴り方が尋常ではない。怒りというより、憎悪がにじんでいた。理由が分からず、体が硬直した。
……話を聞いた方がいいのか。
チェーンをかけたまま、慎重にドアを少し開けると、その隙間に、銀色の何かが閃いた。
包丁だった。
刃先が扉の間を斜めに斬り込んでくる。反射的にドアを引いた。ノブを引っ張る手と手の綱引き。向こうは力任せに押してくる。私の方がほんのわずか勝っていたのだろう。必死に閉じきり、ロックをかけた。
動悸が凄まじかった。喉の奥が焼けるように乾いていた。
「何なんですか……あんた一体……」
叫んだ私の声に、男は一瞬動きを止めた。ドア越しに息を荒らし、何かを考えているようだった。数秒の沈黙のあと、バタンと足音がして、エレベーターに乗ったような気配がした。
間違えたのだと思いたかった。誰かと喧嘩して、部屋を勘違いしたのだと。だが、包丁を持ってくるような喧嘩がこのマンションに存在するのか?そんな疑問が、じわじわと頭を満たしていた。
それから二日後の夜、またしても、やって来た。
時計は三時三十分。眠っていた私は音に飛び起きた。怒りの方が先に立ち、私は玄関へ走った。以前よりずっと強くなったドンドンという衝撃。今度こそ言ってやる。通報してやる。いや、それよりも――やり返してやる。
扉のすぐ脇に立てかけていた角材を手に取った。木くずが手にまとわりつく。扉の覗き窓に目を当てたその瞬間、あいつもこちらを覗いていた。
……白目だった。
黒目がない。いや、完全に裏返っていた。それは人間の顔ではなかった。そこにあるのはただ、無音の怒りだけだった。得体の知れない何かが、私の存在そのものに敵意を向けている気がした。
警察に通報した。震える指で番号を押しながら、耳に残るのは玄関を蹴る音だけ。五人、いや六人ほどの警官が来てくれたが、あいつはすでにいなかった。周囲を確認した警官が言った。
「上着も着ずに……包丁だけ持ってたって?おかしいね、間違いなくこの建物の誰かだよ」
だが、犯人は見つからなかった。
その日以降、ぱたりと気配はなくなった。
が、それもつかの間。数日前、またあの音が響いた。私の部屋ではない。下の階の部屋からだった。開けて確かめようとは思わなかった。耳を澄ますと、何かをぶつけるような音が遠くから……いや、下から聞こえていた。
「……ガン……ガン……ガン……」
規則的に、けれど怒りの色をにじませて。
いつか本当に、人が殺される。そう確信している。
あの顔。あの目。あれは、人間ではなかった。間違いではない。人違いでも、勘違いでもない。
奴は、「誰か」ではなく、「私」そのものを狙っていた。
だが、その理由だけが、いまだに分からないのだ。
──私が、思い出せていないだけなのかもしれない。
あの夜、目を覚ました時の記憶が、本当に「最初」だったのかどうか。
……もしかして。
──私が「何か」をしたのだとしたら?
(了)
[出典:190 名前:あなたのうしろに名無しさんが……:2003/09/11 05:20]