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二階のノック r+5,777

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今でも、母がその夜の話をするときだけ、仏壇の蝋燭が小さく揺れる。

炎が息をするように細くなり、まるで誰かが聞き耳を立てているみたいに。
子どものころは、それが風のせいだと信じていた。
けれど今は違う。あの揺れの裏に、母の皮膚に刻まれた何かが反応している気がしてならない。

母がまだ独身だった頃、都内の印刷会社で事務をしていたという。
女ばかりの職場で、薄暗い蛍光灯の下、紙の匂いとインクの湿り気が混ざる午後。
その中にひとり、いつも無口で陰のある女性がいた。
細い肩に黒い髪を垂らし、喋るたびに喉の奥が軋むような声をしていた。
誰も彼女の話を聞きたがらなかった。
「ヤクザの愛人らしい」という噂が、社内を静かに回っていたからだ。

母も最初は関わらないようにしていた。
けれど、その女だけは、なぜか母にだけ「話を聞いてほしい」と繰り返したらしい。
食堂で弁当を開けるたびに隣に座り、トイレの前で待っていたこともあったという。
「別れたいの。あの人から逃げたいの」と、唇を噛みながら言っていたそうだ。
母は困り果てて、何度も断った。
周囲の先輩からも「関わらない方がいい」と釘を刺されていた。

その日の夕方も同じだった。
退勤間際、彼女が机の前に立ち、潰れた声で「今夜だけ……少しだけ話せない?」と言った。
母は「用事があるから」と言って立ち上がった。
その瞬間、彼女は俯いたまま「そう……」とだけ呟き、机の影に沈んだ。
その声が妙に軽く、母は胸の奥に小さな違和を覚えたという。

それでも、疲れた体を引きずるように帰路についた。
都電の音、排気ガスの匂い、十一月の夜気。
アパートの階段を上がると、廊下の蛍光灯が一つ切れており、
暗闇が天井から垂れてきていた。

二階の一番奥の部屋。
木造の壁は薄く、風が吹くだけで釘のきしむ音がした。
母はいつものように仏壇に手を合わせ、
菓子皿に乗った煎餅を一枚下げようとした、そのときだった。

「コンコン」

軽い音が、背中に触れた。
玄関の方からだった。

その時刻、夜の九時を少し回っていた。

姉は遅番の仕事で不在、隣室の住人は静まり返っている。
「誰……?」と声に出すと、音は返ってこなかった。

足を忍ばせて玄関に近づくと、
畳に落ちた母の影が微かに震えていた。
もう一度、ドアの向こうから「コンコンコン……」と続く。
節のある板がきしみ、金属のノブがカタリと揺れた。

居留守を決め込み、仏壇の前に戻る。
けれど、静けさは長く続かなかった。

「コンコンコンコンコンッ!」

今度はせっぱ詰まったような連打。
ノックというより叩きつける音。
そして、
「あけてよっ!! あけてよっ!! 友達でしょっ!?」
女の叫び声が、金属の歯を鳴らすように響いた。

母はその声を聞いた瞬間、背筋が凍りついたという。
あの職場の女だった。
昼間のあの「そう……」の声と、同じ響き。

「なに、人のあとつけて来てんの!?」
思わず怒鳴ろうとしたとき、ノブが激しく回された。
「ガンガン! ガンガン!」
今度は、雨戸を叩く音。
窓の外からだ。

「嘘でしょ……ここ、二階なのに……」
ベランダも無い。
落下防止の鉄柵しかないはずだった。

母は震える手で布団をつかみ、頭からかぶった。
雨戸を打つ音はさらに激しくなり、
ガラスの向こうで女が「見てよ! 聞いてよ!」と叫ぶ声が混ざった。
窓枠がひび割れそうなほど叩かれ、
最後に「バン!」とひときわ大きな音がして、
静寂が落ちた。

そして、その直後だった。

全身に、鋭い刃で切り刻まれるような痛みが走った。
肩から腹へ、脚の裏まで。
声も出せず、布団の中で体を丸めたまま、
痛みが光のように走り抜けた瞬間、
意識が途切れた。

翌朝、目が覚めると身体中が鉛のように重かった。

鏡を見ると、腕に細い赤い筋がいくつも走っていたという。
包丁でなぞったように薄く、しかし血は出ていなかった。

そのまま会社に向かうと、入口でざわめきが起きていた。
女子社員の一人が泣き崩れ、
上司が新聞を握りしめていた。

「昨日の夜、千駄ヶ谷で……」
そう言われ、母は新聞の活字を見た。
昨夜、線路に飛び込んだ女性。
「即死」「原型をとどめず」という文字。
写真は載っていなかったが、名前を見た瞬間、
膝が抜けた。

それは、あの女だった。
時刻は——母のアパートでノックが鳴った頃と、ほとんど同じだった。

母は数日、発熱にうなされ、会社を休んだ。
身体の痛みは消えたが、夜になると仏壇の蝋燭が勝手に消えた。
火を点け直すたびに、背中のどこかがざわつく。
まるで、誰かが自分の中に入って、そこから外を覗いているような感覚。

母はその後、結婚して私を産んだ。
そして、何度もあの夜の話を繰り返すうち、
言葉の端々が変わっていった。

「……あのときの痛みね、あれ、なんか、最近また感じるの」
ある晩、母はそう言って自分の腕をさすった。
赤い線が浮かび上がっていた。
私は笑って「蚊に刺されたんじゃないの」と言ったが、
その瞬間、仏壇の蝋燭がまた揺れた。

——今、私の右腕にも、同じ場所に細い赤い線がある。
母の話を思い出すたび、そこがかすかに疼くのだ。
窓の外から、誰かが「コン……コン」と叩く音がする夜もある。
たぶん風だ。そう思いたい。

でも、仏壇の火が細く揺れるたび、
あの女がまだ、どこかにぶら下がっている気がしてならない。

(了)

[出典:142 :日本昔名無し:2007/07/11(水) 16:26:17]

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