珠美という女子生徒が、ある地方の公立高校にいた。
目立つほどではない。誰かの中心にいるわけでもない。ただ、学級名簿の中で、ちゃんと一枠を占めている。その程度の存在だったはずだ。
高校二年の春、同じクラスになった英子が、珠美にだけ冷たくなった。最初は些細なことだった。挨拶を返さない。目が合っても逸らす。机を寄せない。廊下で肩が触れても、わざとらしく嫌そうな顔をする。
珠美は、理由が分からなかった。英子とは、それまで言葉を交わした記憶がない。共通の友人もいない。関係が始まっていないのに、終わったような態度だけが届く。
英子は、いわゆる女王ではなかった。派手なリーダーでもない。むしろ逆で、いつも誰かの視線の外側にいる。教室の後ろで笑い、笑いながら誰も見ない。彼女の周りには女子が集まるのに、英子の目はいつも、誰かを避けるように逸れていた。
ゴールデンウィークが過ぎる頃、珠美に声をかける女子はいなくなった。
孤立は、音から始まった。笑い声が近くで起きても、珠美の耳には遅れて届く。誰かの靴音が、廊下を過ぎたあとで鳴る。自分の背後に、人の気配が残響のように残る。
珠美は、それでも学校に通った。体育祭も、試験も、修学旅行も、文化祭も、欠かさず出た。誰とも写真を撮らず、打ち上げにも行かず、それでも出席だけは取り続けた。
いじめは、露骨なものになっていった。机の中の物が消える。ロッカーが汚れる。配られたプリントの端だけ破られている。休み時間に誰かが通り過ぎるとき、香水でも汗でもない、金属の匂いが一瞬だけ漂う。
そして、英子は珠美の名前を呼ばなくなった。
最初は冗談のように聞こえた。「あれ」「そっち」「それ」。誰かが言った言葉が、クラスに広がるのに時間はかからなかった。珠美の前を通るとき、わざと大きな声で言う。「あれ、また来てる」。珠美の机を見て言う。「それ、邪魔」。
担任の中年女性教師は、気づかないふりをした。気づいていないのではなく、言葉にしなかった。言葉にした瞬間、それが存在することになるとでも思っているようだった。
秋のある日、授業中に英子が突然、手を挙げた。
「先生」
教師が顔を上げる。
英子は珠美のほうを見ずに言った。
「ここ、ずっと変なんです。……あの人がいると」
教室の空気が固まった。教師は咳払いをして、英子を制止しようとした。だが英子は続けた。
「向こうを見てるでしょう」
その声が、教室の壁に当たって響いた。誰も何を言っているのか分からないはずなのに、全員が同じ方向を見た。珠美の机の横、窓でも黒板でもない、白い壁。
何もない。掲示物もない。そこは、ただの壁だ。
珠美も、その壁を見てしまった。見てしまったというより、視線がそこへ滑った。そこに何かがあるからではない。そこに何もないことを確認するために。
その瞬間、教室の時計の針が止まった。
針の止まる音が聞こえたわけではない。秒針が、動いていないことに気づいただけだ。だが珠美の目が壁から離れたとき、また動き出していた。何事もなかったように。
その夜、珠美の母親が、珠美を呼んだ。
母は寺の家に生まれ育ったと珠美は聞いていた。今の家は小さな工務店を営む父と結婚して、宗教色の強い生活をしているわけでもない。だが母は、生活の隅に、妙な手順を持っている人だった。玄関のたたきに塩を撒く日がある。畳を拭く順番が決まっている。風呂の湯を捨てる前に、必ず一度、桶で掬う。
母は、十円玉を一枚、机の上に置いた。
「これ、表を消す」
そう言って、十円玉の裏面の刻印、製造年月日と数字の部分にサンドペーパーを当てた。削る音が、家の中でやけに大きかった。数字が薄くなり、年が削れ、最後にはそこだけ金属肌が乱れて光った。
母は水で薄めた酢に麻布を浸し、その削った面を丁寧に磨いた。指先が金属に触れるたび、微かな熱が生まれて消える。
母は小さな釘も出した。新品でも古釘でもない、中途半端に黒ずんだ釘だった。
十円玉と釘をお守り袋に入れ、紐を通す。
「削った面を前にして首にかける。毎日、家に帰ったら磨く。磨いて終わり」
珠美は尋ねなかった。なぜ、十円玉なのか。なぜ、釘なのか。なぜ、削るのか。
母は理由を言わない人だった。理由を言うと、理由が先に立ってしまうからだとでも思っているように。
翌日から珠美はそれを首にかけた。制服の下、肌に当たる位置に、お守り袋が揺れた。
学校で何が変わったのか、珠美自身は言語化できなかった。
ただ、英子の取り巻きの女子が、珠美の首元をよく見るようになった。視線がそこへ引き寄せられて、すぐに逸れる。見たくないものを見てしまったときの動きに似ていた。
廊下を歩いているとき、誰かの笑い声が、穴の向こうから聞こえるようになった。距離の問題ではない。声が、壁の内側から鳴る。校舎のどこか遠くからではなく、壁の中、床の下、空洞から。
珠美が首元の袋を握ると、その笑い声は一瞬だけ止む。止むのではない。遅れる。音が遅れ、遅れたまま戻ってこない。声が、忘れたように消える。
十二月に入る前、担任教師が倒れた。
授業中に顔色が悪くなり、椅子にもたれ、口元を押さえた。女子が騒ぎ、男子が保健室へ走った。教師はそのまま搬送され、しばらく学校に来なくなった。
その日の放課後、珠美は担任の机の引き出しが半開きになっているのを見た。誰かが慌てて閉め忘れたのだろう。ふと視線が吸い込まれた。
引き出しの奥に、十円玉があった。
珠美は一瞬、自分の首元の袋が熱くなるのを感じた。だが、その十円玉には刻印がある。削られていない。普通の十円玉だ。
珠美は引き出しを閉めた。見なかったことにしたのではない。見たことを、言葉にしないことにした。言葉にすれば、それは教室の壁のように、皆が見てしまうからだ。
翌週、英子の取り巻きの民子が欠席した。理由は原因不明の発疹だと聞いた。顔や腕ではなく、首筋と胸の上部に出たらしい。円い痕。丸いものを押し当てたような跡。
担任教師の代わりに来た別の教師は、民子の欠席理由を淡々と伝えたが、その声の最後が妙に震えていた。「理由は分からないそうだ」。その一言に、教室全体が息を止めた。
それから英子の家でも同じ症状が出たと噂が流れた。
英子は登校しなくなった。いじめの中心が抜けたのに、教室の空気は戻らない。むしろ薄くなる。人がいるのに、人の重さが減る。椅子が軋む音が、半分の音量で響く。黒板に書かれた日付が、翌日になる前に消える。
十一月の終わりに英子は学校へ来なくなっていたはずなのに、十二月の中旬、校長が教室に来て言った。
「英子さんについて、皆さんに伝えます。……該当する生徒は本校に在籍していませんでした」
誰かが笑いそうになった。冗談だと思った。だが校長の顔は冗談ではない。そもそも「英子」という名前が、教室で誰にも声に出されなかった。誰も口を開けない。名前は、呼ばれないと、空気に残らない。
校長は続けた。
「出席簿にも、名簿にも、記録がありません。皆さんの記憶違いです」
記憶違い。簡単な言葉なのに、教室の壁にぶつかって戻ってこなかった。吸い込まれた。
その日、珠美は帰宅して、母の言いつけ通りに十円玉を磨いた。削った面が、濡れた麻布の下で鈍く光った。
磨いているとき、珠美は初めて、そこに薄い線が浮かんでいるのに気づいた。数字ではない。年号でもない。ただ、文字のような傷。英という字の一画みたいな、曲がった線。
翌日、卒業アルバムの撮影の日程が掲示された。珠美はクラス写真に写った。英子の席は空いていた。だがそれが「空席」なのか、「最初から席がなかった」なのか、誰も言わない。
クリスマス前、英子は退学した。いや、退学という言葉だけが校内を流れた。退学の書類を見た者はいない。退学手続きをした家族を見た者もいない。退学という結果だけが、紙のように薄く貼り付いた。
珠美は学校に残り、卒業した。地元の国立大学へ進学した。
ここまでが、表向きの話だ。
大学に入ってから珠美は十円玉を磨かなくなった。磨く理由が説明されていないのだから、磨き続ける理由も持てなかった。首から袋を外し、引き出しの奥にしまった。
春、履歴書を書く機会があった。アルバイト先に提出するためだ。珠美は氏名を書き、生年月日を書く欄にペンを置いた。
その瞬間、部屋の空気が一度だけ反転したように感じた。天井が床になり、床が天井になるような、体内の向きが一瞬だけ変わる感覚。すぐ戻ったが、心臓が遅れて跳ねた。
珠美は生年月日を書いた。
その夜、引き出しの奥の袋が、勝手に床に落ちていた。引き出しは閉まっていた。袋だけが落ちていた。
珠美は拾い上げ、袋を開けた。
十円玉の削った面に、薄く数字が浮かんでいた。削ったはずの刻印が戻ったのではない。戻っているのは、自分の生年だった。自分の生年月日と同じ年が、薄く、金属の内側からにじみ出るように現れていた。
珠美は息を止めた。年は刻印ではない。年は、もともと誰かのものではない。なのに、それが「自分の年」になっている。
珠美は母に電話をかけた。電話は繋がった。
「久しぶり。どうしたの」
母は平然としていた。珠美が説明する前に、母が言った。
「まだ磨いているのね」
珠美は言った。
「磨いてない。ずっとやめてた」
母は、間を置かずに言った。
「そう。じゃあ、磨いているのは、誰かね」
珠美は黙った。母の声の向こうで、どこかの時計が鳴った。鐘の音ではなく、硬貨が擦れる音に似ていた。金属の粉が落ちる音。
珠美は思わず十円玉を見た。削った面は、もう鏡のようではなかった。光を跳ね返さない。光を飲む。穴の向こうが、黒く抜けている。
珠美は十円玉を目の前に持ち上げた。穴の向こうを覗いた。
そこに教室があった。
高校二年の教室。白い壁。止まった時計。黒板。空席。
そして、席に座っている少女がいた。珠美の制服を着ている。珠美と同じ髪型をしている。だがその少女は、こちらを見ていない。視線は白い壁に固定されている。
教室の前で、誰かが出席を取っている声が聞こえた。担任の声ではない。校長でもない。誰でもいいような声だ。よく通るが、記憶に残らない声。
その声が、少女の名前を呼んだ。
珠美は聞き取れなかった。いや、聞き取れたのに、頭の中で形にならなかった。自分の名前ではない。けれど他人の名前でもない。音が、穴の縁で削れていく。
あなたは、ここまで珠美の名前を何度読んだだろうか。
声に出さなくてもいい。目で追った回数でいい。文章の中で、人の名を目にするたび、あなたはその名を呼んでいる。呼んだことにしている。読んだことは、呼んだことになる。
珠美は穴の向こうの教室を見ながら、首元を押さえた。そこに袋はないのに、袋の重さだけが残っていた。
十円玉の削った面に、数字が浮いては消えた。浮いては消えた。磨いていないのに、削れていく。
あなたがその名を読むたび、刻印は薄くなる。
珠美は、ふと気づいた。英子が珠美の名前を呼ばなくなったのは、いじめの手段ではなかった。最初から手段ではない。名前を削る。呼ばないことで、削る。削ったものは、別の面に浮く。別の誰かの年になる。別の誰かの席になる。
英子という存在が名簿から消えたのは、退学したからではない。退学とは、消えたあとに貼り付ける言葉だ。消えたことに、意味を与えるための紙切れだ。
珠美は十円玉を握りしめた。硬貨の縁が掌に食い込む。穴の向こうの教室で、少女が小さく首を傾げた。壁を見たまま、何かを聞いているようだった。
珠美は、ゆっくりと十円玉を裏返した。削っていない面。寺の屋根が描かれた面。そこは削っていない。そこには刻印がある。あるはずだ。
だが、そこにも数字が浮き始めていた。珠美の年ではない。あなたの年でもない。誰の年か分からない年。見たことがある気がする年。知っているはずなのに、思い出せない年。
もし今、自分の生年月日を声に出して読んだなら、それは削られる。
珠美は、十円玉を机の上に置いた。麻布も酢も出さない。削らない。磨かない。
それでも硬貨は、静かに削れていった。音はしない。粉も落ちない。ただ、刻印だけが薄くなる。年が、消える。
珠美は自分の名前を口にしようとした。口が動いた。音が出た。だがその音は、部屋の壁に吸われた。呼んだはずなのに、呼ばれていないことになった。
穴の向こうの教室で、出席を取る声がまた響いた。少女の名前が呼ばれる。聞き取れない名前が、呼ばれている。
読まれたものから、削られる。
珠美は、硬貨を見つめたまま、目を逸らさなかった。逸らすと、何が削られているのか分からなくなる。分からなくなった瞬間、自分が削る側になる。
そしてあなたは、もう一度、この文章を読み返すかもしれない。
そのとき、誰が削れていくのかは、書かない。
(了)